Ep2_桃花の思い出

 ――人生経験が少なかった。


 吉祥桃花が窕木うてなに興味を持ってしまった原因は、その言葉に尽きるだろう。初心な子どもこうこうせいにそんな経験を求めるのは酷だが、高校生の中でもいっとう足りないのが、桃花だった。


 彼女の世界は、箱庭よりも狭い病室と自宅だけで構成されていた。ノベルゲームならさぞかし背景処理が楽だろうとのたまったのは、どこの友人だったか。


 補足すると彼女は経験が不足しているだけで、一般的な高校生と比べれば人間のいい面も悪い面も知っていた。なにせ物心のつく幼少期から人間を観察していたのだ。教会に住む養子として通い詰める信者たちを、あるいは病人である自分の診察を行う医療関係者たちを、桃花はずっと探り続けていた。

 彼らに自分は生かされているのだと、桃花は幼い身ながら理解していた。死にたくない、元気になりたい。そのためには、周囲の人間にとって手間のかかる存在になってはいけない。

 ただでさえ身体的な問題から、周りの人間に桃花は迷惑をたくさんかけている。一つでも何か不快な思いをさせてしまえば、連鎖的に自分ではどうしようもない場所まで悪く思われてしまう。そうなってしまえばきっと見放されて、生きるための手段が一つ失われる。


 人生は砂上の楼閣で、特に桃花は砂の一粒だって取りこぼしたら、瞬く間に崩れてしまう脆い形だ。


 だからこそ相手のことをよく見て、思考を巡らせ、模範的回答を心がけてきた。相手に多くを望まず、望ませず、されども関心を失わせないよう桃花なりに媚びを売ることも躊躇わなかった。

 もちろん知った気になって痛い目にも遭った。突拍子のない奇抜な行動を行う幼馴染のおかげで、早めに自分の理解の範囲外で生きる相手もいるのだと知ることができたのは彼女にとって数少ない幸運の一つだろう。


 それでも、どうしたって経験は不足している。子どもだから仕方がない、と言うには体育祭の出来事は桃花にとって致命的過ぎた。


 体育祭の当日、朝から熱でうなされた桃花は参加を諦めるしかなかった。担任と友人へなんとか欠席の連絡をこなしたところで、桃花は体力を使い果たした。あとはろくに食事もとれず、ベッドの上でじわりと蝕む寝汗と高熱の不快感を我慢するだけだ。

 とはいえ朦朧とした意識のなかで眺める時計の針は、粘度の高い液体に放り込まれたように進みが遅い。

 喉を焼くような熱を伴う息を吐き出して、いっそ気を失えたらいいのにと桃花は願った。


 自分の原因不明の体質はとうに恨み尽くして諦観を抱いている。この体質に関連した幸福な記憶なんて、どこにもない。

 たとえば、自身の職務で忙しいはずの養護教諭がわざわざ学園から距離のある寮にまで様子を見に来てくれた経験なんて、桃花には一度もなかった。


「おい、起きてるかい、ってうわ、なんて顔してるのえっぐ」


 他の大人は自分の症状に匙を投げて、何も手を施さないのが最善なんて平気な顔で告げてくるから、それが普通だと思っていたのだ。

 だから桃花は自分の火照った額を撫でる手のひらは、養父のものしか知らなかった。

 節くれだった指先でおそるおそる触れて、大丈夫だよと彼がいつも励ましてくれたことを今でも覚えている。でもその声には優しさと寂しさの裏に、一抹の草臥くたびれたものが滲んでいることから目をそらさないといけなかったことも、よく覚えている。


「……ぇ?」

「あー、あー、もう見るからに重症じゃん。念のため、ぐらいの気持ちだったのに昼休み潰れるなぁ」


 だから自分の呻き声か咳の音しか聞こえなかった個室に、突然押し掛けてきた闖入者をどう対処すればいいか分からなかった。熱を測るために伸ばされた手のひらを、戸惑いのまま受け入れてぼやける視界の中から相手の姿を見つけることで精一杯だった。


「なんでこんな様態なのに平気なんだか……」


 養父とまるで違う呆れた声と雑な撫で方だったのに、それは随分と柔らかくて心地よくて、ふわふわと気持ちが浮ついてしまった。


「へいきじゃない、です」


 だから、夢心地のまま普段は堰き止めている気持ちまで口から零れてしまったのだろう。かすれた声が自分のものに聞こえなかったのも、本音をこぼすことに拍車をかけた。


「でもほうっておいて、いいんです。私なんか、そんな価値は……」

「自分の価値なんて、その年齢じゃ変わって当たり前でしょ」


 桃花はずっと自分の価値が底値だと信じて疑わなかった。だからせめて自分のことを生かす相手が願うものを叶えて、その価値を示したかった。


 養父からは学生でしかできないことを楽しんでおいでと送り出されて、幼馴染とは一緒に遊ぼうと約束を交わした。

 そのどれもを、桃花は踏みにじっている。せめてと祈られた最低限さえもこなせずに、死にぞこないのまま生きていた。そんな桃花に、いったいどんな価値があるのだろう。

 目の前の養護教諭に、冷えたタオルで肌を拭ってもらう価値なんて、あるわけがない。だって――


「でも、でも……そうであってほしいと願われているのに、それさえも叶えられなくて、けほっ」


 乾いた喉のまま、掠れた声しか出ない自分が憎たらしい。

 ぽろぽろと容易に手のひらから零れていく理想と夢、希望に対してあの頃の桃花は流す涙も枯れ始めていた。


「それじゃ、あ、私は、生きているだけで迷惑で、負債しかない……無価値以下じゃ、ないですか」


「願われたことを叶えたい、その祈りは間違いなんかじゃない。そしてそれが叶わないとしても、間違いなんかじゃない」


 水気がなくなり、ますます崩れていく楼閣を、窕木うてなはその名に恥じぬ働きで受け止めてしまった。

 うてなは机の上に置かれた処方薬を桃花の口に含ませた。そのまま顎に指を添えて持ち出してきたのだろう水筒から注いだ水をゆっくりと飲ませる。

 錠剤と水が、焼けるように痛む喉を通った。息を荒くしながらも飲み込んだ桃花はしばらく咳き込み続けたが、やがて緊張の糸が解け始めたのか強い眠気に襲われだした。


「ほら、ちゃんと傍にいてあげるから。ゆっくり眠りなさい」

「……なんで、そこまでしてくれるんですか」

「保健室の常連客を気に掛けるぐらい、相手の価値なんて関係なしにやって当然のことだからだよ」


 彼女に向けられた愛が性欲の絡むものではないと霞む理性は理解していた。けれども、同時にそれがどんな名前で呼ばれるものか理解できなかった。

 だからだろう。

 意識が途切れる直前に見た、彼女の浮かべた表情に満ちた掛け値なしの愛に、桃花は溺れてしまった。


 ようは、悪い大人に誑かされてしまったのだ。

 こちらが貼り付けた値札を無視して、言い値で自分を買われてしまったガラクタが、刷り込みのように相手のことを慕ってしまった。


 つらつらと思い出話をしてしまったが、それだけの話だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る