10:脱走

 アキは、懐かしい夢を見ていたような気がした。

 

『マスタ。起きる。Wake up。マスタ』

「ん~……」

 

 昼食を取ってから昼寝へとしゃれこんだアキは、ソフィアが呼ぶ声にゆっくりと意識を覚醒させる。

 中途半端な時間に寝てしまったせいだろうか。

 どうにもすっきりとしない気分にそのまま起きずにいると――。


『【目覚まし】MPEG-ワン。Audio-Layerスリー。再生開始』

「どわあぁぁぁ!?」

 

 ――大音量の目覚ましアラームが頭の中で炸裂した。


 反射的に耳を塞ぐが、直接脳内に飛び込んでくる音を防ぐことはできない。

 だがアキが体を起こすとアラーム音はすぐに止んだ。

 

『おはよう。マスタ』

『ソフィア。もう少しこう、なんていうか……手心というか』

『この手に、限る』


 今のアキに記憶はないが、ソフィアの口振りからしてこの起こし方は初めてではないようだ。

 アキは深いため息をつくと、布団から出る。窓を見ると、まだ日は落ちていなかった。

 だが、ソフィアが無理矢理起こしてきた理由など、一つしかない。


『今、脱出可能。行動開始、三十秒前』

『パジャマは着替えたいけど仕方ないよね』

『洋服店。ある。近い。靴も売ってる』

『そこに寄ろうか』


 頷くと、アキの視界の端にカウントダウンする秒数が表示された。

 残り十五秒。


 アキはなるべく足音を立てないよう、用意してあった新品の靴下を履いてドアの前に立つ。


『網膜投影でも、案内。けど、伝える。開けて、十メートル直進後、右折。以後、随時伝達』


 ソフィアの言葉にアキは頷いて、目を閉じた。その方がカウント表示が良く見える。

 そのときには残り時間は五秒というわずかな時間しかなかった。だが、アキは無意識に肺を大きく膨らませる。

 

 すると、何かのスイッチが入ったかのように意識が明瞭になった。


 これはなんだろう、とアキは思う。

 何かを始めるとき、こうして深呼吸することが自然体であるかのように、体に染みついている行動。


 もしかしたら、異世界でもこうしていたのかもしれない。


『行動開始』


 アキはドアを静かに開けて、廊下を足早に歩く。

 

 昨日とは違い、廊下の照明はまだ点いたままだ。

 いつ人とすれ違ってもおかしくはない雰囲気に、アキの鼓動がやや早くなる。


『マスタ。心配、不要。右折後、直進三十メートル』

『わかった』


 ソフィアの言葉に呼吸を落ち着かせながら、アキは誘導に従った。

 誘導は言葉だけではない。アキの視界には行くべき方向が、緑色の半透明の線で見えている。


 その線を辿っていけば迷うことはない。

 やはり複雑な作りの建物だ。ソフィアの誘導がなければ出口にたどり着けないだろう。

 

 と、階段を下りて線の先を見るとそこに階段の続きはない。指示された場所は階段裏の狭い空間だった。


『そこで待機。交代……Shift、する警備兵。アバウト。時間』

『なるほどね』


 ソフィアは警備員が交代する時間を狙って脱出の手立て組み上げたのだろう。

 アキが感心していると、コツコツと足音が聞こえてくる。

 それは複数人の足音で、雑談をしながら歩いているようだった。


「なんで急に人手増えたんだ? 今更こんなとこに忍びこむ馬鹿いないだろ」

「さぁ。活動団体も今は下火ですからね。なにかあったんじゃないですか?」

「なんでもいいけどさ。夜勤じゃないだけマシだよ」


 彼らは言いながらアキの真上を通り過ぎる。


『もういいかな?』

Negative否定。再行動開始、七秒前。左側へ。走る。全力』


 全力か、とアキは思った。

 中学では陸上部だったが、成績はお世辞にも芳しかったとはいえない。

 果たしてソフィアの期待する速さで走れるだろうか。

 

『再行動開始』


 ソフィアの合図にアキは素早く廊下に躍り出た。

 すると、前方に金属製のドアが見える。あれか、とアキは全力で走ると――。


「――うっ!?」


 思いのほか速度が出て戸惑った。

 自分はこんなに足が速かっただろうか。


 まるで風のように、そして足音なく走る自分に驚愕しながらも、アキはさらに速度を上げる。

 視界のカウントダウンが残り短い。恐らくこれがゼロになるまでにあの扉を出ろということなのだろう。

 

『間に合う。マスタ。信じて』


 その言葉にアキは全てを委ねて、ドアに体当たりする勢いで廊下を駆け抜けた。

 残り一秒。


 ノブに手を駆けると同時にドアを肩で押すと――開いた。

 ソフィアが声のトーンを高くして次の誘導を叫ぶ。


『走る。前方右斜め。十九メートルに壁。飛び越す』


 背後でドアがロックされる電子音を聞きながら顔を上げると、確かに壁があった。

 だがそれを見て、思わずアキは驚愕する。


『あれを!?』


 その壁はアキの身長の三倍近い高さがあった。

 よじ登るにも余計な突起のないコンクリート製、しかも上部に有刺鉄線が張られている。


 跳ぶしかない。

 ソフィアの計画ではアキが跳べることを前提にしているのだ。


 アキは覚悟を決めてテンポを取り、地面を蹴った。


「ふっ……!」


 アキはこの時代の走り高跳びの世界記録を知らない。だが、確実にそれ以上は飛んだと確信する。

 数秒の自由落下の後に柔らかくアスファルトの道路に着地すると、アキは大きく息を吐いた。


『マスタ。さすが。脱走成功』

『ソフィアと、勇者だったおかげだね』

Positive大丈夫。マスタとソフィア。なんでも可能。二人なら』


 声は変わらず無機質だが、ソフィアの言葉には絶対的な自信が込められている。

 それに引っ張られるように、アキは自分の心に余裕が生まれてくるのを感じた。

 

 とりあえず最初の難関は突破できたのだ。


 さて、ここからなにをしよう。

 アキはもう一度息を吐くと、硬い地面を歩き始めるのだった。

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