アンソス・ロゴス 〜世界の在り方を否定する物語〜

菅原 高知

過去 或いは始まりの日①

 草木が、花々が、生き物が焼け焦げる匂い。

 何かが崩れ落ちる音。

 誰かの悲鳴。

 それらを覆い尽くす獣の咆哮ほうこう

 世界がよいとばりに包まれる中、この場所だけが数多あまたの命を燃やして紅く揺らめいていた。

 

 お父さんとお母さんにおやすみのキスをしたのはいつの事だっただろう。

 明日起きればこれまでと変わらない幸せな日が来ることに何の疑問も抱いていなかった。


 ……しかし

 明日幸福はやって来なかった。

 突如として奪われた。


 山菜の取り方を教えてくれたおばさんが、お父さんの狩猟仲間のおじさんが、近所の友達が、どれもこれも物言わぬ塊と化していた。手足は千切れ、体はひしゃげ、その飛び散った血肉が辺りを赤黒く染めていた。


 何が起きた?

 どうしてこうなった?

 みんな起きて。アレが来る。

 早く逃げよう。


 思考は進まず混乱し、自分の身体がまるで目の前に転がる肉塊と同じように一向に動かない。

 意識が身体に流れていかない。


「良かった。無事だったのね!」


 立ち尽くす僕に誰かが駆け寄ってきた。


「……お母さん」


 必死で駆け寄り僕を抱きしめたのはお母さんだった。蓮の花のように白くキレイだった肌は煤や泥、血で黒ずみ汚れていた。しかし、その胸に抱きしめられた時に広がったいつもより汗が混じってすっぱいが、落ち着く香りは確かにお母さんのものだった。


「……無事だったか」


 遅れてお父さんもやってきた。

 普段は猟師の仲間とワイワイ冗談を言いながらお酒を飲んでいるお父さんとは違い、その顔は切羽詰まったものだった。


「お母さん、痛い」


 力いっぱい僕を抱きしめるお母さん。その力強さに身体の感覚が戻ってきた。華奢きゃしゃな体のどにこんな力があったのだろう。


「ごめん、ごめんね」


 謝り続けるが、その腕の力が弱まることはなかった。


「ロータス、気持ちはわかるが急がないと」


 お父さんがお母さんの肩に手を添え何かを促す。


「ええ、分かっているわ」


 フッと身体を抱きしめていた力が弱まり、二人は何かを決心した顔で頷き合った。


「タイム、避難場所は覚えているな?」

「え、う、うん。前にお父さんが連れて行ってくれた村はずれの洞窟の事だよね」

「そうだ」


『よし』っと満足そうに僕の頭を撫でながらお父さんは続けた。


「タイム。今からお母さんを連れて避難場所に向かうんだ」

「え、お父さんはどうするの?」

「俺はアイツを止める」

「そんなっ、ダメだよ。お父さんも一緒に逃げようよ!」


 遠目に一瞬見た化物。

 身体は大きく夜闇を食い破る漆黒の体毛。その中にあって紅く輝く2つの眼光。

 一瞬だった。一瞬視線が交差しただけで自分の命が終わるのを悟ってしまった。

 その後何故だか化物は僕には手を下さず違う方へ去って行ったが……。

 

 ダメだ。お父さんがいくら村一番の猟師でもアイツには勝てない。アレは化物だ。


「大丈夫だ。お父さんだってバカじゃない。あんなのとまともにやり合ったりはしないさ。お前たちの逃げる時間を稼ぐだけだ。それぐらいならお父さんにも出来る。隙を見てお父さんも避難場所に向かう。約束だ」


 そう言ってお父さんは大きな拳を僕の目の前につきだした。


「……分かったよ」


 僕も自分の小さな拳に精一杯の力を込めて、お父さんの拳に合わせた。


「さすが俺の息子だ」


 二カッと笑うお父さんに背を向け、僕はお母さんの手を引き駆け出した。


「……頼んだぜ」


 そんなお父さんの呟きは僕の耳には届かなかった。






 僕らが避難所に着くころには人々の叫び声は消え、獣の咆哮が更に大きさを増していた。

 音で分かる。お父さんが闘っているんだ。


「お母さん早く中に入ろう」


 お父さんは僕たちの為に戦っているのだ。  

 僕はお父さんにお母さんを託された。 

 役目を果たさなくては。


「ゴメンね、お母さん疲れちゃった。開錠の祝詞ことば、覚えているでしょう。タイムが入り口を開けてくれる?」

「うん、分かった」


 避難所は天然の洞窟で、その入り口は魔法で隠されている。その為開錠の祝詞は村人全員が周知していた。


「芽吹くは希望 閉じたる花弁 我が魔素を吸い 今一度咲き誇れ―――」


 焦りから、震える口をどうにか動かし祝詞を唱える。

 もたもたしている間にもお父さんが闘っている。

 今一度集中し記憶の中の祝詞を辿る。


 ガガガッ


 動いた。

 人が一人通れるぐらいの隙間が出来た。


「はぁはぁはぁ。お母さん、開いたよ」


 ドンッ


 振り返ったタイムの、その小さな胸を優しく突き飛ばす手があった。

 慣れ親しんだ、手を繋ぎ、頭を撫で、抱きしめてくれた、こんな山奥の生活でも輝く程白かった――優しい手。


 突然の出来事に混乱し、成すすべもなく後ろに倒れる。

 お母さんは笑顔で泣いていた。


「ゴメンね」


 尻もちをついた時には、洞窟の入り口は再び岩で閉じられていた。


「お母さんっ⁉」


 暗闇の中岩を押すが今度はビクともしない。

 岩の外で足音が遠ざかっていくのが分かった。


「嫌だ、行かないでっ。行かないでよ、お母さん! お母さん! ああああああああああ!」


 

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