永遠の秘密2:すれちがうふたり

ぐまひつ

【プロローグ】

深夜しんや十一時二十五分、だれもいない研究室けんきゅうしつで高野恵美子(たかの・えみこ)は一人ひとり実験じっけんをしていた。


この日は金曜日。アメリカでは大学の研究室でも夜七時くらいには人がいなくなる。しかも季節は夏。普通は夜遅くまで研究室に残って実験をしている学生やアジア人の留学生りゅうがくせいたちも、今は夏休みをとって休暇きゅうかに出かけたり自分の出身国しゅっしんこくもどったりしている。


しかし、この夏、高野恵美子は研究に専念せんねんすることにした。高野恵美子は今年ことし三十六さんじゅうろくさい。日本の地方にある大学院だいがくいんで、二十七歳のときに博士号はかせごうを取り、そこの研究室で三年間のポスドク生活を送ってからアメリカに留学した。アメリカは今年で六年目。職位しょくいはまだポスドクのままだ。


ポスドクの正式せいしき名称めいしょうはポストドクトラル・フェロー(postdoctoral fellow)。直訳ちょくやくすれば「博士号を取得しゅとくしたあとの研究員けんきゅういん」となる。通常つうじょう、この研究けんきゅう業界ぎょうかいの人たちは、大学院で博士号を取得しゅとくしたあとに、二年から三年のポスドク期間きかんて、大学や企業きぎょうで一人前の研究者としての仕事を見つけることになっている。


しかし、高野恵美子が専門せんもんとする医学いがく生物学せいぶつがく研究分野けんきゅうぶんやでは、研究者の人数がここ10数年で爆発的ばくはつてきえて、ポスドクのまま次のステップに進めない人たちが増えてきた。いわゆるポスドク問題である。高野恵美子もそのなみもれ、博士号を取ってから日米にちべい合算がっさんで八年以上もポスドクをしてしまった。自分と同年代どうねんだいの研究者の中には、すでにPI(=Principal Investigator、自分の研究室けんきゅうしつを持てる研究者)としてアメリカの大学で一人前の研究者として活躍かつやくしている人もいる。


「いつになったら、私は一人前の研究者とみなされるようになるんだろう。」


いつもは、夜中に一人で実験をしていると、そんなネガティブな考えで気分がむことがよくある。しかし、この日はちがった。


かみを後ろでひとつにくくって実験をしている高野恵美子の耳には、アメリカに来るときに大学院時代の後輩こうはいからもらった古いイヤホンがいている。そのイヤホンからは、高野恵美子が中学生のときに日本で流行はやった歌謡曲かようきょくが流れている。


高野恵美子の視線しせんの先には、96 wellプレートがある。プラスチックせい実験じっけん消耗品しょうもうひんだ。医学生物学の研究室には普通ふつういてある、ありふれたものだ。


高野恵美子が右手に持った八連はちれんのピペットマンを素早すばや正確せいかくに動かすことで、目の前にある96 wellプレートには、左のれつからじゅん黄色きいろ液体えきたいくわえられる。これまでに彼女は、この操作そうさを何百回何千回と行ってきた。


今日の実験は生涯しょうがいわすれられないものになるだろうと高野恵美子は考えていた。


「この実験結果は自分の仮説かせつ支持しじするものにする。そして私は生まれ変わる。この研究プロジェクトを論文にするとき私は筆頭ひっとう著者ちょしゃだ。そうすれば、長年の夢だったアメリカで自分の研究室を持つという悲願ひがんかなえられる。」


そう心の中で思ったとき、廊下ろうかの方から人が歩いてくる気配けはいがした。この大学の守衛しゅえい(ガードマン)だ。毎日夜十一時をぎるころに、高野恵美子の実験室の前を通る。夜に実験することの多い高野恵美子は、人の良いこの守衛とはかおなじみで、ときどき挨拶あいさつ軽口かるくちをたたくこともある。


しかしこの日は、高野恵美子は実験に集中しゅうちゅうし、目の前のプレートから目をはなさずにいた。守衛も、高野恵美子が実験してるのを廊下ろうかからチラッと見ただけで、何も言わずに歩きさっていった。


「あともう少し。明後日あさってには全てが終わる。」


ひとれずそうつぶいた高野恵美子の左手ひだりて薬指くすりゆびには小さな指輪ゆびわがキラリと光っていた。


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