第38話 – 鉄の檻
嵐は何日も、いや何週間も止むことがなかった。
細い針のような雨粒が降り続き、訓練場の泥に突き刺さる。水は乾いた血も足跡も昨日の記憶も流していくが、疲労だけは骨に貼り付いたままだ。
黒瀬教官が鞭を右手に、誤りを許さぬ目で候補生たちの前を往復する。彼女の一歩ごとに停滞した水面がはじけ、戦鼓のような音を立てた。
「立て。泥が膝まで来ようが、疲れていようが関係ない。立て」
リエンは震えていた。濡れた黒髪が頬に張り付き、手は骨が見えるほど擦りむけている。吸い込む息は肺に刃が刺さるようだった。痛みの境はとうに越え、残っているのは生存本能だけだ。
身を起こそうとして滑り、また倒れる。泥が口に入り、氷のような雨がうなじを打つ。
「みっともない」黒瀬は襟首をつかんで引き起こす。
「自分は他と違うとでも?お前は無価値だ、リエン。何の価値もない」
他の候補生は視線を落とした。見ているだけで罰になると知っているからだ。ひとりだけ、視線をそらさない者がいた。アモンである。
その目は静かで、ほとんど無表情に見える。だが静けさの下に、何かを量る色があった。
黒瀬がリエンを泥に落とすと、彼は一歩前へ出た。助けるためではなく、言葉のために。
「まだ生きている。動け。俺が気が変わる前に」低く、砂利のように荒い声。リエンは彼をにらみ返した。泥で汚れた顔の下に、憎悪の色があった。
リエンはよろめきながら立ち上がる。反論しなかったのは同意のためではない。反論する力が残っていなかったからだ。
その夜、雨と遠い発電機の唸りだけが響く。
リエンは濡れたままの制服でベッドに腰を下ろし、小さな懐中電灯の明かりを手に顔を照らしていた。
前には、記憶だけを頼りに描いた破れた地図。柵、監視塔、巡回。
一つひとつが誓いのように刻まれている。完璧ではないが、足りる。今夜、振り返らずに出る。
かすかな物音がした。「外からも丸見えだぞ」寮の入口の柱にもたれて、アモンが両手をポケットに入れたまま言った。
リエンの体がこわばる。「いつから見張ってたの」
「お前が利口ぶり始めたころからだ」彼はゆっくり中へ入り、背後で扉を閉める。金属音は嵐にのみ込まれた。
「逃げるのは物語みたいにはいかない。外では即座に撃たれる。凍え死ななければ、見つかって引きずって戻される。狼や熊が先に片を付けるかもしれないがな」
リエンは奥歯を噛む。「外で死ぬほうが、ここで腐るよりまし」
アモンは無言で見つめ、ゆがんだ薄い笑みを浮かべた。「違う。死ぬのは簡単だ。生き続けるほうがよほどひどい」
彼はそっと地図を彼女の手から外す。
「黒瀬は脱走者をどうするか知ってるか。門に吊るす。見せしめだ」
「それがどうした」
「考えろ。お前はまだ準備ができていない」
「何が分かるの。あんたは何でも完璧。黒瀬のお気に入り。私は何者でもない。何者にもなりたくない。ただ消えたいだけ」
「お気に入り?完璧?」アモンは頬を指で示す。「この傷を忘れたのか。鞭だ。お前も見ていた」
「私があいつに受けたものは、そんなものじゃ済まない」リエンは顔を背けた。懐中電灯が床に落ちて消える。稲光だけが一瞬、部屋を満たした。
稲光の中でアモンは彼女を見据えた。憐れみはない。あるのは諦念だけだ。
「止めはしない。だが出られたなら戻るな」
「どうして」
「見つかったら、俺には助けられない」彼は出ていき、扉が閉まった。
雨音とともに、リエンはひとりになった。ようやく顔を得た恐れがそこにいた。自由という名の恐れだ。
外では、泥の中庭に監視塔の灯りが金属の目のように揺れる。
リエンは身を低く、音を殺し、走る。呼吸は浅く、心臓は暴れる太鼓。
背後の寮の窓から、アモンがそれを見ていた。
彼は何も言わず、何もしない。ただ見ていた。雨に呑まれて夜へと消えていくリエンの背中を。
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