第33話 – 西部戦線異状なし – 第三部

城塞は決して眠らない。断崖のように高い白壁の内側では、外の世界が引き裂かれている最中でさえ、官僚機構の歯車が軋む音は止むことがなかった。司令室は不自然な薄闇に沈み、冷たい照明だけが地図や資料、至急電で埋まった卓上に刃のような光を落としている。


監督官・宝条は直立し、背に手を組み、戦場をリアルタイムで映すホログラムのパネルを凝視していた。混沌の中を豆粒のような影が動く。訓練生、装甲部隊、そしていかなる兵器でも倒せない怪物的な存在。


背後で中谷大佐が張り詰めた声で沈黙を破った。


「監督官……訓練生が何十人も死んでいます。装甲部隊はスクラップ同然。


なぜ歴戦の兵を出さなかったのです。なぜ彼らを無謀に送り出したのですか」


宝条は振り向かない。ゆっくりと息を吸い、問いそのものを味わうかのように言った。


「それが目的ではないからだ」中谷は眉をひそめる。


「目的? 未熟な若者の命を犠牲にして、あなたは目的とやらをいまだに明かさない。もし我々の最良の兵が出ていれば、今ごろは」


「今ごろは何だ」宝条は鋭く振り返った。声は刃のように冷たい。


「歴戦の将校たちがマルタを討ち、首都を救い、戦場は片づき、得られる情報はゼロ。


それは私の望むところではない」大佐は沈黙し、背中で拳を握りしめた。


「あなたは若者が倒れるのを見て『悲劇だ』と思う」宝条は一歩進み、続ける。


「私は同じ光景を『実験』と見る。彼らの死は敵の能力の境界線を描く。


ムライジュがどこまで踏み込めるかを示す。何が通用しないかを教え、いつか失敗しないための代価となる。指導者の務めとはそういうものではないのか。


自分の手を汚すことではなく、他者の血を結果へと導くことだ」


「相手は子供たちです。捨て駒ではない」中谷は低く唸った。宝条はわずかに口元を歪める。


「それでもあなたはここに立ち、黙っている。なぜか分かるか。軍というものは若者の血に支えられてきた。いつの時代もだ。『正しい戦争』という慰めが生者を癒すだけで、屍の真実を変えはしない」大佐は目を伏せた。


反論の言葉はなく、吐き気に似た嫌悪が、彼をその瞬間十年老けさせた。


「見続けたまえ」宝条はパネルに向き直る。


「鍋は勝手に煮える。我々は席に着き、出来上がるのを待てばいい。


私は何もしない。仕上がったら『よくやった』と甘い言葉を添えるだけだ」戦場では、鍋はすでに血と泥で泡立っていた。


ムライジュ変異した女王は炎と悲鳴の中にそびえ立つ。黒い触手が鞭のようにしなり、掴んだ訓練生を非人間的な力で投げ捨てる。身体の側面に生えた口々が、うめきの合唱を轟かせた。


「撤退! 全員下がれ!」陸の声は混乱の中でもぶれない。


煙が彼を包み、冷たい眼差しは怪物を射抜いている。

その頃、弓月はよろめきながら立ち上がり、拾い直した剣を握りしめた。V字の傷を持つマルタが正面に立つ。荒い息、黒い血を滴らせながらも、双眸にはまだ猛りが燃えている。弓月は叫びとともに突進し、身体の延長のように剣を振るう。刃は頭部を打ち、わずかな隙をこじ開ける。負けない。今は。


祭は殿を守ろうと連射を浴びせる。だが死体につまずき、重く倒れ込んだ。頭上から黒い輪のように触手が落ちてくる。


「祭!」弓月は跳び込み、必死の一閃でその付属肢を断ち切った。飛沫のように散った黒い血は、触れた肌を焼いた。

荒い呼吸で祭が弓月の腕を掴む。


「助かった……」


「終わってない!」間近で銃声が鳴る。


伊刈が前へ出て、至近射で小型のマルタを打ち倒した。血を振り払い、咳き込みながら言う。


「誤解するな。お前たちのためじゃない。あの化け物を倒すためだ」弓月は息を切らしながらも、その言葉を胸に刻む。


怪物の触手長く、しなやかで、絞め殺すための縄のようだ。危険な発想が形になる。


「聞いて」弓月が言う。


「触手を逆手に取れる。動きを封じれば、あるいは……仕留められる」

伊刈は片眉を上げた。


「自殺じみた策だ。嫌いじゃない」


祭は武器を握り直し、うなずく。


「他に道はない」女王は咆哮し、さらに死体を弾き飛ばす。


そのすぐ脇で、傷だらけの王が痙攣している。炎の照り返しに三人の若者が浮かぶ。血と灰にまみれ、全てを賭ける覚悟で。

陸は三人の姿を捉えた。氷のような眼差しに、一瞬だけためらいの亀裂が走る。


「お前たち……」と小さく呟くが、止めはしなかった。


弓月、伊刈、祭は視線を交わす。深淵の前に灯る三つの小さな火。

彼らの戦いが、そして恐らく首都の運命が、いま始まろうとしていた。

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