第7話 - 獲物 - 第1部
朝の冷たい空気は肌を刺すようだったが、弓月はほとんどそれを感じなかった。頭の中を占める不安のほうが、寒さよりも強くのしかかっていたのだ。下月との口論、監督官の存在、そしてハゲタカのように街を徘徊するブラックサン考えるほどに胸の奥が締め付けられていく。
弓月は下月が出かけてすぐ、少し遅れて家を出た。白兵戦で扱いやすいようにと、長刀ではなく短刀を携えている。無用な危険は冒したくなかった。
街はまだ半分ほど眠っているようだったが、すぐに人通りが増えるだろう。弓月は警戒心を研ぎ澄ましながら路地を進んだ。この街に安全など存在しないと知っていたからだ。
だが、危険は思ったより早く姿を現した。建物の影から数人の男たちが現れ、彼女の進路を塞いだ。四人、いや五人はいる。彼らはブラックサンの色を身にまとっているが、弓月には見覚えがない。おそらく彼らも彼女を直接は知らないのだろう。ただ、どうやら下月と関係があると分かっているらしい。
「おやおや、誰かと思えば……」と、男の一人が下品な笑みを浮かべながら言った。「あの南区のヤツと同じ家から出てきたんだって?」他の男たちが嘲るように笑い合う。
弓月はとっさに身を引き、短刀を握りしめた。「どいて。放っておいてよ。」
「怖がらなくてもいいさ。ちょっと楽しもうじゃないか?」別の男が一歩踏み出す。
次の瞬間、弓月の腕が光った。金属のきらめき、そして鈍い悲鳴短刀の刃先が相手の肩を切り裂いていた。男は傷口を押さえて絶叫する。弓月はその隙を逃さず、振り返らずに駆け出した。
怒声と罵声が後ろから響き渡る。ブラックサンの連中が追いかけてくるのは当然だ。彼らはこんな侮辱を見過ごすはずがない。弓月は複雑に入り組んだ通りを縫うように走り、必死で距離を取ろうとする。
やがて角を曲がると、そこは袋小路だった。弓月は息を呑む。身を翻し、短刀を構えると、すぐに追っ手の男たちが姿を現した。先ほど傷を負った男は怒りで顔を歪め、血が腕から滴っている。「このアマが……今度は逃がさねぇぞ。足をへし折ってやる!」
一斉に飛びかかられそうになり、弓月は全身がこわばった。心臓の音が耳をつんざくほどに大きく響いている。最後まで抵抗するつもりではあったが、その瞬間、不気味な唸り声が暗がりを切り裂いた。
それは、獣というにはあまりにも異形の声だった。路地の奥から何かが動く気配がする。視線を向けると、そこにはうろこ状の肌と脈打つような筋が見える、爬虫類めいた巨大な怪物マルタがいた。
弓月は思わず息を飲み、ブラックサンの男たちも戸惑ったように振り返る。しかし、マルタは彼らが反応するより早く襲いかかった。あたりに響く絶望の叫び。怪物の顎は一人目の男を容赦なく噛み砕き、鮮血が路地の壁に飛び散る。驚愕に震える男の一人が武器を抜こうとした刹那、マルタの太い前肢が振り下ろされ、彼は壁に叩きつけられて骨の砕ける音が響いた。
弓月は激しく胸をかきむしられる思いで、その場を逃げ出す。背後からは男たちの断末魔の声、肉が裂ける音、そして骨の折れる不気味な響きが追いかけてきた。最後の悲鳴が途切れたとき、恐怖はさらに膨れ上がる。
逃げようと振り返った瞬間、マルタの息づかいがすぐ後ろに迫っていた。すでにブラックサンの男たちを始末したマルタが、今度は弓月を獲物として狙っているのだ。
血の気のない目でじっと弓月を見下ろす怪物。その視線を受けた弓月の背筋が凍りつく。凶暴な咆哮とともに、マルタは弓月へと襲いかかった。「来る!」
弓月は脳内で警鐘を鳴らす本能に従い、短刀を構える。足の震えをこらえながら、どうにかして助かる術を探す。もはや後戻りはできない。ここで戦うか、逃げるか。それが生き延びる唯一の方法だった。
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