第32話 旦那様はお怒りです 2


「この子の名前はどうしましょうか?」

「ティアナに贈った猫だ。好きにつければいい」


翌日の朝。

玄関で、出かけるウォルト様を猫を抱いたままで見送りに来ていた。


「……真っ白な毛並みですから、ブランシュとかどうでしょうか?」

「それはいい」


あれから、邸にもどって洗えば混じりけのない綺麗でふわふわの毛並みになった。


「では、出かける」

「はい。アルフェス殿下にも、よろしくお伝えください」

「必ず誤解を解いてくるから、待っていなさい」


今から、ウォルト様はアルフェス殿下の私への誤解を解きに行く。

誤解されたことに私は怒ってないが、ウォルト様は顔に出るほど怒っていた。


軽くキスをして、ウォルト様が馬で出発する。姿が見えなくなると、寂しげにブランシュと名付けたばかりの子猫が鳴いた。


「お腹が空いたかしら?」

「にゃあ」


先ほど起きたばかりの子猫のご飯をもらおうと、私の背後でウォルト様を見送っていたトラビスにお願いするが、ウォルト様に注意を受けたせいか、私に対して不機嫌なままだった。


「トラビス。子猫の朝ごはんをお願いします。私の部屋に持って来て下さると……」

「……今から、アリス様のお食事ですので、できかねます」

「子猫の食事だけですよ」

「失礼ですが、ウォールヘイトの猫よりも、セルシスフィート伯爵邸の上階の人間を疎かにはできませんので」


ウォールヘイト伯爵領から帰宅して、トラビスはウォルト様から私との結婚を続けると聞かされて、不快感丸出しだ。

アリス様は怒ってしまい、今朝は部屋を出てこない。


「トラビス。待って」

「まだ何か?」


言うだけ言って去って行こうとするトラビスを呼び止めると、不愉快そうに振り向いた。


「セルシスフィート伯爵邸の使用人の名簿を見せて下さい。何人いるか、知りたいわ」

「何人どころか、何十人です。セルシスフィート伯爵家は没落ではないのです」

「でも、子猫の朝ごはんも準備できないほどの人数なら、困るのではないでしょうか? それとも、何十人もいて子猫の食事もできない使用人たちなら、そちらも問題です。ウォルト様に一度ご相談します」

「勝手なことを……使用人は、執事が決めるのです。旦那様にご相談するのは、使用人の増減などです」

「でも、使用人は執事の管轄でも、使用人のトップである執事は邸の旦那様の管理です」

「……情けない。セルシスフィート伯爵家の夫人ともあろう者が、夫に助けてくれと、言いつけるのですね。これでは、子供と同じです」


女主人らしく冷静に言ってみたけど、全然ダメな気がする。いったい私をどんな風にみているのだろうか。

大きなお邸は、難しいのですね。


などと、思っている場合ではない気もする。


「わかりました……子猫の食事は、私が自分で準備します」

「厨房は忙しいですよ」


そう言って、トラビスは去って行った。

仕方なくミルクを厨房に取りに行って部屋で子猫に飲ませていると、やっとルドルフが王都から帰って来た。


「ただ今戻りました。ティアナ様」

「まぁ、おかえりなさい。ルドルフ」


帰って来てすぐに私のところに来てくれるということは、私を気にしてくれているのだと思う。そして、帰るなり、床に置いたお皿のミルクを飲んでいる子猫に気づいた。


「そちらの猫は?」

「ウォルト様が、ウォールヘイト伯爵領で拾って私に下さったの」

「そうでしたか……」

「はい。何も話さないで出て行ってごめんなさい。ルドルフ」

「……何かお辛いことでも? お話ぐらいならお聞きしますよ」

「優しいのね」


確かに、ルドルフは私がセルシスフィート伯爵邸に来てから、ずっと気にしてくれていた。そう思うと、彼はセルシスフィート伯爵邸にも、私にも大事な執事だ。


「ルドルフ。少しお話があるのですけど、いいかしら?」

「かまいませんが……」

「では、座って下さる?」

「ティアナ様の前にですか? 私は、執事ですよ」

「いいのよ。お話をする時は、きちんと向き合って話すべきだわ」


使用人が同じテーブルにつくのは、そうない。ルドルフも遠慮ぎみに座っていた。

彼が座ったことを確認すると、一呼吸置いてゆっくりと話し始める。


「ルドルフ。私、ウォルト様と三年で離縁するつもりだったの」

「……知ってます。執事のトラビスさんが使用人休憩室でそうお話になられていましたから」


執事であろう者が、私との契約結婚のことを軽々しく使用人休憩室で話していたことを知り愕然とする。これでは、確かに使用人が私に仕えるわけはなかった。


「でも、それをやめるの」

「離縁はしないと?」

「ウォルト様が……離縁はしないと言ってくれたの」


私を好きだと言ってくれた。それが、どんなに嬉しいことだっただろうか。

思い出すと、恥ずかしいと思いながらも、ずっと頭に残っている。


「ルドルフ。単純と思うかもしれないけど……私は、誰からも結婚を断られていたのよ。没落寸前の貧乏な伯爵家。爵位すらも、誰も受け継いでくれない。それなのに、ウォルト様は契約結婚ではなく、好きだと言ってくれたの……どんなに嬉しかったか……」


胸にじんときて言う。ルドルフは、何の反応もなく静かに聞いている。


「それでどうしました?」


表情一つ乱さずに即答したルドルフ。


「ふっ……ウォルト様よりも、クールですね」

「そうでしょうか?」

「そうです。で、お願いがあるのです」

「はい」


あまりの反応薄さに、ルドルフには乙女心は理解できないと悟り、じんときた気持ちを一瞬で切り替える。


「私、セルシスフィート伯爵家に嫁ぐ覚悟ができました。子猫を育てるために、私の味方になってください」

「……それは、ウォルト様と一生を共にするということですよね?」

「そうです。そして、子猫を育てるには、味方がいるのです」


乙女心は理解してなさそうだったのに、なぜかちらりと床に置いたお皿のミルクを飲んでいる子猫を見るルドルフ。


「猫……」

「そうです。子猫の食事も満足に出せないようですので……困っています」

「一応確認しますが、ウォルト様との結婚を一生続けるために。私に味方になって欲しいのですよね。そのために、先ほどの告白だという認識で間違いないですよね?」

「そうですけど……ルドルフに、乙女心は理解できないと一瞬で悟りました。でも、わかってくれて嬉しいです」

「それが、ねこ」

「ミルクも満足に出せない伯爵家は問題です。それに、セルシスフィート伯爵邸で過ごす覚悟ができました。それなら、私のやるべき事があります」

「何をなさるつもりですか?」

「問題を排除するだけです。でも、味方が必要なのです。どうか、お願いします」


両手を握りしめて懇願した。

すると、もう一度、床の子猫を見るルドルフ。子猫のブランシュは、その視線に気付いて、「みゃぁ」と可愛く鳴いた。


「……とりあえず、セルシスフィート伯爵家に骨を埋める覚悟ができたということですね」

「必ず、ウォルト様と一緒のお墓に入ってみせます」


そう言うと、ルドルフが椅子から立ち上がり、そっと胸に手を当てて頭を下げた。


「いろいろ驚きましたが、わかりました。必ず、お守りして仕えます」


いったいどこが驚いているのだろうかと思えるほど、表情が変わらない。わかったのは、ルドルフが子猫の見た時は多少の動揺をしたということだ。

でも、そんな返事でも私には嬉しいものだった。


「では、私の味方になってくださるのですね!?」

「もちろんです。ティアナ様から、その言葉が出るのを待っていました」

「嬉しいです……ブランシュ。これで、あなたの食事は安泰ですよ」


ブランシュと呼んだことで、ルドルフは子猫の名前かと頷いた。







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