第193話【SIDE:陽平】
――バタン!
砕けんばかりにドアを叩き締め、晶は家を出て行った。
「……」
追いかけることも忘れ、俺はキッチンに立ち尽くしていた。激しく言い合ったせいで、心臓が激しく鼓動している。
……自分が叫んだことに、驚いていたんだ。
――俺は、「成己を憎んでいない」?
そんな馬鹿な、と思う。……そんなはずはなかった。
――『やめて……!』
俺の手を拒絶し、小さく丸まって泣いていた、惨めな背中。野江を選んだ、不実な婚約者。……成己の顔を思い出すだけで、この胸に黒い炎が燃えるのに。
は、と息を吐く。
「そうだ、憎いに決まってる。あいつは……この俺を虚仮にしやがった。俺と野江を両天秤にかけた、ずるがしこいオメガなんだから……」
憎しみを奮い立たせるよう、口にする。しかし――いやに唇を上滑りして、耳に届いた。さっきの、「成己を憎んでいない」という言葉の方がよほど、唇と心への充足をもたらさなかったか。
「そんなわけねえ! 俺は、成己を憎んでるんだッ……」
酷い焦燥に駆られ、力いっぱいテーブルに拳を叩きつける。はずみで――喉が焼けるように痛み、激しく咳き込んだ。
床に膝をつき、体をくの字に折って……口を覆う。火のような息が、手のひらを湿らせた。
――俺には、成己を憎む理由がある。でなければいけない。でないと……
『陽平』
悲し気な成己の顔が浮かんだ。
背筋が、ぞっと寒くなる。
滲んだ視界に、床に落ちて潰れたトマトが映った。無残にへしゃげて、赤い果肉から濁った汁が溢れ出している。
「あ……」
さっき、晶と揉めた時のか。億劫な気持ちがどっと押し寄せて、舌打ちする。
「誰が、片付けると思ってんだよ……」
忌々しい気分で、トマトを睨みつけるが――勝手に消えてくれるわけでもない。ガンガン痛む頭を押さえ、のろのろとティッシュ箱を手に取った。
無駄に水気たっぷりなせいで、薄い紙はすぐにふやけ、拭ききらないうちに箱が空になる。また「成己」と声を上げそうになり……苛立ちで目の前が赤くなる。
「くそっ!」
やけくそに空き箱を振りかぶり、投げつけた。
パシン――壁に当たったそれは、床を滑って、手元に帰ってくる。こんなものにも馬鹿にされた気がして、かっと強い衝動が胸を衝き上げた。
「……なんなんだよ!」
どっ、と身を床に投げ出す。熱った肌に冷たい床が触れて、身震いした。いつまでたっても、広々とした天井を見ていられなくて、腕で目を覆った。
「……ッ」
胸の中が酷くざらついて、呼吸が苦しい。
鬱陶しい。
ムカつく。どいつも、こいつも――悪罵の言葉を並べ立てても、気分は晴れやしなかった。
……グダグダし飽きたころ、俺は重い体を起こす。だって、ここでダラダラしていて何になる? 一人で、何も変わらねえじゃねえか。
「――痛ッ」
頭が高くなった拍子に、ぐわんと脳が揺れるような痛みが襲う。背筋にべっとりと悪寒が張り付いて、関節が軋んだ。……どうも、本格的に、体調を崩しているらしい。
――晶の奴を、追い返してよかった……
置きっぱなしの買い物袋を思うと、罪悪感が湧かないではない。けれど、どっちみち、晶が喜ぶように、機嫌を取ることは出来なかったろう。
ナチュラルに、そんな風に思っている自分に気づき、乾いた笑いが漏れる。
われながら、冷たい言い様だと思って。
――『お前の優しさは、己の弱さを許す言い訳だ』
ふと、父さんに叱られたことを思い出す。
小等部の頃――同級生が花瓶を割ったのを庇おうと、担任に虚偽の報告をした。そうしたら、ことが露見したとき、庇った生徒は「城山くんがやった」って言ったんだ。
結局、目撃者がいて、そいつがやったことは明るみに出たけど、俺はかなり傷ついた。
だって、俺はそいつを友達だと思ってたから。
担任の報告で、この件を知った母さんは俺を褒めた。「優しい子だ」って。けれど、父さんは……厳しい顔でさっきみたいに言ったんだ。
――『心に芯を持て、陽平』
当時は、酷いことを言うもんだって、憤慨したものだったが。
もしかして、本当かもしれない、と自嘲した。
「ぐ……」
ふらつく足に力を入れて、壁伝いに寝室へ向かう。
とにかく、横にならなければ、と思った。
――たぶん、いつもの夏風邪だ。それなら、医者に行く必要はねえ。
これくらい、一人で対処できる。
行きがけにタオルと、ペットボトルの水を二本、指にひっかけていく。これが無くなったら、また取りに来ないといけないのか……そう思うと、暗澹たる気持ちになる。
――仕方ねえだろ……一人なんだから。
独り言ちて、しゃにむに歩いていると……壁を伝っていた手が、ぐらんと軽くなった。キイ、と音を立てて、ドアが勢いよく開く。
「うわっ!」
俺は、床の上に倒れ込んだ。
ペットボトルが転がっていく。脇腹を打った俺は、何度か咳き込んだ。
「……はあ」
――だっせえ。
そうは思ったが、見ている奴もいない。立ち上がる気力もなく、べったりとつくばっているうちに……次第に呼吸が落ち着く。
「……?」
次に感じたのは、ほのかな香りだった。
清らかに、淡くて――瑞々しい花の香り。
「……ぁ……」
呼吸を繰り返すうちに……火のようだった胸の奥が、すうと楽になっていく。
俺は、それでこの部屋が”誰の部屋”か気づいた。このひと月ほど、ずっと、入ろうとしなかった――
「成己……」
名を呟くと、ひどく懐かしくなる。
……奇麗に整頓された、小さい部屋。小ぶりな本棚も、テーブルも……お気に入りだったふわふわのラグも、なにも変わらなかった。
いつも、壁際で座って本を読んでいた、あいつの姿さえ、浮かぶほど。
『陽平っ。なあに?』
そうだ。……どれだけ夢中になっていても、俺がドアを開けるとすぐに、本から目を上げたよな。
にっこりと、嬉しそうに笑う顔を思い出し――何故か、うまく息ができなくなる。
「なんで……」
口をついて出た問いは、成己になのか。それとも、自分になのか……俺は、もうわからなかった。
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