第150話【SIDE:晶】

 ――鳥のさえずりが、やけに耳についた。 

 

「ん……っ」

 

 浮かされる様だった体に、重みが戻ってくる。――俺は、微かに呻き声を立て、目を開けた。

 

「……っ、まぶし……」

 

 カーテンを開け放された窓から、白い日差しが差し込んでいた。清潔な白いシーツに反射し、目が痛い。布団を引き上げて、目を覆うと……ふわりと白檀の香りがした。

 

「あ――」

 

 そこで、完全に覚醒した。俺はがばりと身を起こし、周囲を見回した。

 シックで上質な調度をあつらえた、二人には広すぎる部屋。そこを満たす、あの人の香り……どう見ても、婚約者との寝室だった。サイドボードの卓上カレンダーを確認する。――七月十六日。

 最後の記憶から、一週間経っている。

 

「……そうか。陽平の家から帰ってきて……」

 

 俺は、頭を抱えて記憶を手繰った。

 あの日は――陽平と少し諍いがあった。朝からも、体を散々貪られて……次に目が覚めたら昼過ぎで。

 陽平は、俺を抱くだけ抱いて、自分だけは大学に行ったらしかった。かろうじて朝食の片づけはしてあったけど――空しくなった。

 

 ――俺は、成己くんへの感情のはけ口かよ。

 

 確かに、陽平が成己くんと駄目になったのは、俺とのことが切欠だったかもしれない。だから、あいつの気持ちを受け止めてやらなきゃと、俺も思った。

 けど……弟分にこんな扱いされて、矜持が傷つかないほど、俺はオメガじゃない。

 ボロキレみたいな体を引きずって、シャワーを浴びて、陽平の家を出たんだ。

 

「……それで、大学に行こうとして……」

 

 けれど、異変に気づいた。

 体がやけに熱っぽく……乱暴に拓かれた腰の奥が、甘く疼くような痛みを訴えていることに。


『っ、はぁ……』


 ただ地を踏んで歩くことも、強い快楽になり――俺は道の端に座り込んでしまった。


『ねえ、君。大丈夫?』


 それで……卑しく顔を赤らめた男に、声をかけられたんだ。

 下心まみれの雄の目が、体に絡みつくようで――劈くような恐怖が体を走った。

 俺は必死に逃れ――朦朧とする意識で、送迎車を呼んで、この家に帰ってきていた。

 

「……っあ」

 

 家に帰りついたときの記憶が、戻り……俺は、きつくわが身を抱く。

 そうだ。

 玄関のドアを押し開いて……”あの人”の香りのする空間に入った瞬間――俺は、強烈なヒートを起こしてしまった。

 

『ああッ……!』

 

 淫ら極まりない声で叫んだ記憶が甦って、目の前が赤くなる。

 俺は、あのとき――事態を察知した使用人が、”あの人”に連絡するまで。床をつくばって、乱した衣服の中を必死にまさぐっていたんだ……

 ただ、欲しい。

 それだけしか考えられなくて……誰が見ていようと構う余裕もなく、痴態をさらしてしまった。


 

「……っクソ……」

 

 ……死にたい。

 ヒートはいつも前触れもなくやってきては、俺を惨めな獣にする。

 

 ――『……晶君!』

 

 やがて――朧な意識に、けたたましいスキール音が割り込んで。荒々しい足音と共に、「アルファ」が家の中に飛び込んできた。

 もがき苦しむ俺が、感じられたのは白檀の香りと……力強い腕だけだった。


『早く犯して……』


 それからは……どっぷりと泥に沈むような、数日間を過ごしていた。

 熱い、苦しい。

 気持ちいい――


 『もっと……!』


 腹の奥に、熱い飛沫を感じるたび、絶頂して。自分を組み敷くアルファを逃すまいと、逞しい腰に脚を絡めた。

 汚らわしいと感じる余裕もなく、本能に溺れて……自分を抱く腕に縋りついた、一週間だった。

 

 ――意識がはっきりしたら、酷い自己嫌悪に塗れることになると、解っているのに。




  

「……はは」

 

 乾いた笑いが零れる。

 布団の上で、拳が白くなるほど握りしめた。――ぽたぽた、と雫が落ちていく。


「……っ、ふ……」


 広い部屋に、俺の嗚咽が響く。


――この先どれだけ、同じことを繰り返せばいいんだろう? 俺がオメガだから。抑制剤が効かない体質だから……愛もない相手に抱かれて、惨めに泣き崩れるしかないのか?


 この絶望は、きっと誰にもわからない。陽平にも、あの人にも……父さんにも。


「……ぐすっ」


 鼻を啜り、パジャマの袖で乱暴に頬を拭う。――柔軟剤の甘い匂いが、鼻先をかすめる。


――あ。……綺麗になってる。


 布団もシーツも、俺も……酷い有様だったはずなのに。全てが清潔に整えられていた。

 ……誰が?

 そう考えて、頬が燃え上がる。


――『泣かないで……綺麗にしますから』


 そんな風に、励まされる幻を、何度も見た気がして。涙を唇で拭われ、慰めるように手ずから体を清められて……


「……っ、そんなはずない! どうせ、使用人にやらせたんだ。あの人が、俺なんかにそんな手をかけるわけない……!」


 甘えた感傷を振り切るように、頭を振る。

 愛のない結婚だ。大事な仕事を邪魔するオメガに、優しくする謂れはないんだから!

 

「……はっ。くだらねぇ」


 その証拠に――あの人の気配は、もうないじゃないか。

 多忙な人だから、もう仕事に向かったのだろう。ヒートが明けたばかりのオメガを置いて……

 ずき、と痛みを覚えた胸を、掴んだとき――大切なことを思い出した。


「あ!」


 俺は慌てて、ベッド脇のダストボックスを掴む。中を探り……目当てのものが、きちんとあったことに息を吐く。


「よかった……」


 掴み上げたのは、避妊薬のシートの残骸。ヒートの間の分……きちんと消費されている。


――ちゃんと、飲ませてくれたみたいだ。


 子供なんてごめんだ。

 でも、熱に浮かされている間、俺は飲むことが出来ない。いつも、あの人を信用するしかないのだけれど……今回も、きちんと約束を守ってくれたらしい。


「……」


 俺は、下腹に手を当てた。

 薄いそこに、命が宿っていることはない。ホッとしている。

 なのに……ガサ、と空のシートが、手の中で乾いた音をたてる。


――簡単に、飲ませるんだな……


 安堵と相反して、虚しい気持ちにもなる。

 オメガを孕ませることに……いや、俺に興味がないんだろう。


「別にいいじゃん。ガキなんか生みたくないし……」


 明るく、呟いてみる。――でも、我ながら無理して聞こえて、悔しかった。

 だから、嫌いだ。

 オメガも、アルファも。

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