せんせ、あのね 〜令和文通譚〜

上月祈 かみづきいのり

序章

せんせ、あのね

「せんせ、あのね。住所教えて」

 俺を見つめたまま、ニコニコと笑いながら彼女は口にした。長い金髪がわずかに揺れた。

 卒業式後の教室で二人きりになったときに受けた台詞だ。担任だったクラスのひとりで手塩にかけつつ手を焼いた女生徒だった。

「住所? 今年も年賀状をくれたろうに」

 彼女は彼女は聞いて欲しいといわんばかりに笑った。そういえば、去年の春はとんでもなく無愛想だったなぁ。

「この間ね、エナドリこぼして読めなくなっちゃったの。シュワシュワッって泡が弾けてなくなってるのを眺めてたら全然読めなくなっちゃった」

 屈託も反省もない笑顔。「バブルが弾けたらなんの値打ちもなくなりました」

 全く、時効とはいえども。なんてことをいうんだよ、君は。

「なるほど、わかった。また書いてやる。あと、その言い方は外では使うなよ。冗談が分からん奴もいる。そういうクレイジーな奴も、稀にな」

「じゃあ、せんせーと私の秘密?」

 俺は黙って胸ポケットからペンを取り出す。すると、

「あっ、せんせ。これに書いて」

 と、古典のノートを差し出しつつ、彼女は最初のページを開いた。俺の担当教科だ。

「扉があるのか。本みたいだな」

 開いて一ページ目に『古典』という文字。彼女の名前も端正な字で書いてある。そして所々によく分からない落書きがある。どこかの級友と書いたのだろうと見受けた。

 彼女は首を傾げた。

「気取ってる?」

 俺はかぶりを振った。「いいや、おもむきがある」

「やった。ほめられた」

 彼女が嬉々としてる中、手早くペンを走らせ、

「ほら」

 ページを開いたままノートを返した。

「せっかく国立大に受かったんだ。ちゃんと勉強しろよ」

 と付け加えた。

「せんせ。説教臭いと結婚できないよ」

「現に独身だしな。しょうがない」

「もう、せんせのばっか」

 ひねくれているようで、ただ不貞腐れているだけの子だった。それでも、ようやく磨くことを覚えた才能だ。

「まぁ、来年の年賀状を楽しみにしているよ。今どき、貴重な一筆だしな」

「うん、きっと送る。字を書いたり、落書きしたりするのは好きだから」

 彼女はノートをかばんにしまうと再びこちらを向いた。

「せんせ、またね」

「またな」

 彼女は、ニコリと笑った。

 そのまま、クルリときびすを返した。

 かけ足はローファーを履いているせいか、カツコツと鳴り渡り、遠ざかっていった。

 教室に立ち尽くしたまま、俺は彼女の門出の音を聞き届けた。

 それから時は五月になって。彼女から封書が届いた。

 水色の封筒を開けると、同色の便箋びんせんが出てきた。


 好きの日も

 気持ち空殼あきがら

 でも、あぜか

 したためるこれ

 頼みはいずこ


 これだけ。

 全く意味が分からない。

 そうだ。そういえば、以前からユニークな子だった。

 いくら古典を教えているとはいっても、平安貴族みたいなやり取りをされても困る。この際だから言う。お前は本気を出せば俺より頭がいい。それを自覚してもらわねば困る。

 このようになるから、このようにな。

 とにかく難解だった。

 あぜか、という語に鍵としての望みをかけるも字引きには「どうして……か」の意しかない。

 三時間も苦闘するも読めない。普通に読める訳がない。平安の普通を我々は古文と呼ぶのだ。

 だがこれが、きっかけとなった。

「いや待てよ。『普通には読まない』ということか?」

 短歌の特殊な読み方。例えば折句おりくくつかぶりなど。一縷いちるの望みを抱き、各行の最初と最後を拾い並べる。それで文を成すかどうか。

『すきでした これからも』

 沓冠とは法則が違う。末尾の字を終句から初句に帰ってくるあたりが変則。成程、ユニークだ。

 水色を使ったのはこの文に紐づけるためか。

 念のため調べて確認したが、水色の名は勿忘わすれなぐさ色で間違いなさそうだ。

 全く。頭のいい教え子を持つと、いずれ師が弟子に転じそうだ。

 さて、これから頭を分速一万回転ぐらいさせることになるだろう。フル回転というやつだ。

 ということで準備を始めた。近所の駆け足三分にある文具屋に小走りして、濃黄色の封筒と白色の便箋を揃え、帰り際も途切れ途切れ息切れに小走りをしつつ、塀の上で欠伸あくびする猫にちょっかいを出したくなるのをこらえて戻った。

 息を整え、机上に構えると梔子くちなし色の紙を用意する。別に物騒な意味はない。俺の口はこの上なく下手だ。筆だから伝えられる。これから書くことは口では絶対に言わないからな、くらいの理解しなくてもいい冗談だ。

 だから、もし続くのであれば、口ではなくふみで頼みたい。

 歌の心得は全くないので出鱈目な単語を闇雲に並べた。

 まぁ、あの子は明察を持ち合わせているから本題のことは拾ってくれるだろう。同じ解き方だしな。

 紆余曲折して一首をこしらえたのちに便箋に認めた。


 受け保つ

 けふのあだづま

 永遠とわここで

 通ずは教え子

 高嶺撫子


 本当はこれで終わらせたかったが、彼女がユニークであることを思い出し、万が一にも謎解きが続かないように追伸にこうつづった。

『歌はもう一首も出てこない。やり取りを続けるなら普通の文、散文で頼む』

 封筒に仕舞しまい、ふうかんの印に書くしめの字に代えて悪戯いたずら心から梔子に見立てた花を描いた。

 ふと、あることに気が付いた。

 先ほどからやたら花にまつわる言葉が出てくることに。

「花盛りだな」

 と、ぽつりと呟く。

 のち、

『せんせのばっか』

 という空耳を聞き、脳裏のがんはあどけなく笑った。


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