第一幕
(1)
「今日は誰に会えるかなぁ」
〝誰〟とは、キャラクターのことだ。園内ではミッキーやミニーといった着ぐるみの他にも、生身の人間が演じるディズニーキャラクターたちがランダムに出現する。
「理奈は誰に会いたいの?」
母親の
「パパは? 誰に会いたい?」
急にそう訊かれた
「ねぇねぇ、パパ似合うよねこれ?」
理奈は自身が着ている水色のドレスを指し、体をくるんと回してドレスが舞った。アニメ映画『アナと雪の女王2』に出てくるキャラクター・エルサの着ていたドレスと瓜二つで、裁縫が得意な愛奈が既製品を改造し、さらにリアリティを高めたのだ。愛奈もその映画が好きだったので、どうせ娘が着るなら完璧に近いリアルさを求めた。足に履く水色のブーツも、わざわざ雪の結晶型に切り抜いた紙を使って白いスプレーを吹きかけ、とことん実物に似せようと凝りに凝った。愛奈は母親に似て色白なこともあり、その姿は子供版のエルサといっても過言ではなかった。
「よく似合ってるよ、本物そっくりだ。本物より似てるかもしれない」
信二がそう褒めると、理奈はとても満足気な表情して笑った。
「あー、まだかなまだかなー。ねぇパパ、あとどれくらい?」
理奈は体をピョンピョンと弾ませながら父に訊いた。信二は腕時計を見て苦笑した。
「まだあと50分もあるよ」
「えー」
「えーって、今日こそは一番前に並ぶんだって早起きしたの理奈じゃない」
母親の指摘に理奈は「ぶぅ」と不貞腐れた顔をした。これまで通算二十回ぐらいはディズニーリゾートに来ているが、一度も先頭に並んだことはなかった。いわゆる強者たちがいつもいて、開園よりずっと前から場所を陣取って、誰よりも早く夢の国に入ろうとする気合の塊のような人たち。信二たち三人の前には、二十人ほどがすでに並んでいた。これでもまだ良い方だろうと信二は思っていた。
「まーだっかなー、まーだっかなー」
理奈は体を前後に揺らして、その度にブーツのヒールが地面を鳴らした。
「大はしゃぎね、毎年のことだけど」
愛奈が優しい眼差しで信二の顔を見ると、彼もまたニッコリと笑って返した。
幸せだなぁと、信二は感じ入っていた。
「ねぇねぇ大鳥さん、今日何人ぐらい来ると思う?」
隣で着替えている和田が訊いてきた。彼女は杏子よりもキャスト歴が長く、杏子が4年前にキャストになった時の新人教育も務めた間柄だった。歳は杏子よりも五歳若い四十五歳。二人の子供と会社勤めの夫がいる。
「さぁ、平日だし三万人ぐらいかなぁ」
杏子はそう返しながら、服を脱ぎ始めた。赤ワイン色のタートルネックシャツ、ベージュ色のズボン。その下にはヒートテックの肌着と、檸檬色のタイツを穿いている。キャストの服装規定で黒色の靴下着用が義務付けられているので、タイツの上に黒いソックスを重ね穿きしていた。これはディズニールックと呼ばれていて、必ず守らなければならないルールだった。以前、柄物の靴下を穿いてきた同僚が上司に咎められ、すぐ売店で黒い靴下を買ってくるよう注意されていたのを杏子は目撃したことがあった。ミッキーの柄なんだし、別にいいんじゃないかと思ったけど。夢の国のルールはよくわからない。ともかく杏子は、白いシャツを着始めた。
「私はねぇ、たぶん三万六千はいくと思うな。七年の勘がそう言ってる」
杏子はアハハと笑って返しながら、シャツを着終えて下に白いズボンを穿いた。そして青い上着を羽織り、カストーディアルキャスト(清掃員)の制服に身を包んだ。
「じゃあ、私は三万人でお昼のランチ懸ける。どう?」
杏子の提案に和田は「よしっ、私の勘が正しいってことを証明してやる」と明るく返した。
バカね、お昼ごはんは一緒に食べれないのよ今日は。というかもうずっと。そう思いながら、杏子は改造したミッキーの形をしたトランシーバーをズボンの腰に引っかけた。それは青い上着に隠れて、めくらなければ存在が分からない。これで良い。背中の部分には、職場から支給されている無線機を引っかけ、ピンマイクを首元に取りつけ、右耳にイヤフォンを装着した。
「じゃあ先にストレージで待ってますねー」
和田はそう言って先に更衣室から去って行った。勤務開始前、杏子がいる社員ビル一階のストレージルーム(用具室)で短い朝礼があり、終わり次第パーク内に移動する。
「ええ、後でね」
杏子はそう返事をした後、自分のスマホを上着のポケットに入れた。本当は規則で禁止されていることだが、今日はもう規則など関係ない。私が規則になるのだから。
準備を終えた杏子は、頭に白いハンチング棒をかぶり、あらためて自分の身形をチェックして、顔にディズニーキャラクターがプリントされたマスクを着けた。
これで完璧。後は標的と接触し、拉致するだけ。
杏子は更衣室を出て、『ムーン・リバー』の鼻歌を歌いながら、一階に向かった。
「あ、どうも野澤さん。おはようございます」
同僚の田中が挨拶して、野澤も会釈した。
「……いつも思うんですけど、野澤さんのリュックって何が入ってるんですか? パンパンなこと多いじゃないですか」
田中は、中身の詰まった野澤の黒いリュックサックを見ながらそう訊ねた。
「まぁ、色々とね」
野澤はそうはぐらかして、リュックを私物置き場のラックに置いた。田中はそれ以上追求せず、複数のモニターに顔を戻した。
「平日だってのに、また大勢来てますねぇ。まぁ毎日のことですけどね」
野澤は「そうですね」と相槌を打ちながら、リュックの中身を取り出していた。
「ほら、コスプレしてる女の子までいますよ。エルサだな。わざわざ学校休んで来た……っ!」
田中の口は、野澤が持っている布で塞がれた。田中はいきなりのことに驚きを隠せなかったが、やがて猛烈な睡魔が襲いかかり、目の前がまっくらになった。
野澤は、クロロホルムを染み込ませたハンカチをズボンのポケットにしまい、椅子に座ったまま気絶した田中の口にタオルをくわえさせて猿轡とし、手足を結束バンドで縛り、さらに上半身も椅子ごと強粘着のガムテープでグルグル巻きにした。そしてキャスターを転がして、田中を部屋の隅に移動させた。そして、部屋のドアを施錠した。
野澤はYシャツの首元に付けたピンマイクに話しかけた。
「監視室は制圧したよ」
すると耳につけたワイヤレスイヤフォンから、擦る音と叩く音が交互に聞こえた。ツートンツー、トンツートントン、ツートン。〝わかった〟。しっかりとモールス信号を習得してくれていたことに、野澤は思わず微笑んだ。
そしてまたモールスが届いた。トンツー、ツートン。〝いた?〟。野澤はデスクトップパソコンのキーボードを叩き、開園を待つ人々の姿をとらえたカメラ映像を別ウィンドウで開き、拡大して注視した。そして見つけた、女児を連れた三人の姿を。今は眠っている田中も、同じ子供を見たはずだった。女の子は水色のドレスを着ていて、たしかエルサというキャラクターのコスプレをしている。野澤はあまりディズニー作品に詳しくなかった。
「ああいたよ、とても楽しそうだ。これから何が起こるとも知らないのにね。ああ、返事はいいよ。今はミーティング中だろ? また後でね」
イヤフォンからは一度トンという音がした。〝わかった〟と同じ意味だ。
野澤は、いちど深呼吸をした。
長かった、ここまで来るのに。やっと今日という日を迎えられた。
その感慨の一方、引き返すなら今のうちでもある、とも思った。
パークが開園すれば、もう彼女を止めることは出来ないだろう。どんなことをしてでも、彼女は目的を遂げようとするだろう。そしてそれは、彼女が罪を犯すことになる。それを回避できるのは今しかない。野澤の中で、かつて国に命を捧げたこともある良心が、どうしてもそういう考えを今になって起こした。
「ジョージ」
イヤフォンから声が聞こえた。ミーティングが終わったようだ。
「うん」
「必ずやるから、私」
「うん、わかってるよ」
「サポートよろしくね。……愛してるわ、とっても」
その言葉にほだされた野澤は、頷きながら「俺もだよ」と返した。
通信は終わった。野澤は、ふぅと息をついた。
もうやるしかない。野澤は上着の内側からスマホを取り出して、画像アプリを起動した。先日、杏子と一緒に墓参りをした墓石の写真を見た。そこに眠るあの子のことを想い、野澤はようやく腹をくくれた気がした。
「やるか……」
スマホを上着のポケットに戻し、USBメモリーをパソコンに差し、中に入っていたアプリケーションを起動した。すると画面にディズニーランドのマップが黒く表示され、園内のあちこちに赤い点が示されていた。画面右下の時計を見た。開園まであと三十分を切っていた。
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