雨と虹の間(沖田+土方+永倉+原田+斎藤+近藤)
雨が降る。
しとしとと、かと思えば時にすべてを洗い流す様に激しく。
まるで私の心を映し出すかのように、雨は止まない。
この身は近藤さんの為だけにあるのに、鉛の様に重い身体は、日を追う度に動かなくなって行く。
いっそこの身体を捨てられたなら。魂だけになってでも、傍に駆けつけられたなら。
きっと、役に立ってみせるのに。
縁側で、どこからともなく雨から逃れて来た小さな黒猫が、不機嫌そうに鳴いた。
*****
「総司、具合はどうだ」
今が一番忙しい時なはずなのに、何かと理由をつけては一番様子を見に来るのは、土方さんだった。
陣を離れられない近藤さんに、私の様子を知らせる為であるだとか、一番隊の皆が心配しているからとか、ぶっきらぼうに自分以外の誰かの為と言い募ってはいるが、誰より心配してくれている事を、私は知っている。
私を動乱の京都に連れて行った事や、多くの人を斬らせた事を、きっと一番気にしている事も。
新選組の為、引いては近藤さんの為に、必要な事だった。
「私自身が納得して、役に立てるのならと願ったのだから、土方さんが心を痛める必要はないんです」そう言ってしまいたい。
けれど、私に心の内にある優しさを悟られる事を、土方さん自身が隠したがっているので、そう笑い飛ばしてしまう事も出来ない。
全てを一人で抱えてしまう、その心を軽くする為に出来る事はただ、これ以上心配をかけない事だけになってしまった自分が、情けなくもある。
支えるというほど役には立たなくても、ただいつも傍にいられたら、笑っていられたら、土方さんの負担はどれほど違うだろう。
「だいぶ良くなりました。すぐにでも、近藤さんの所へ行けますよ」
「無理はするな。焦らなくても、治ったらまた存分に動いてもらう」
「はい」
この身体が、再び十分な働きを出来る未来は、きっとない。
お互いにそれはわかっていたけれど、違う未来を語いながら微笑む。
せめてこのひと時だけは、それが現実であるように。
「皆さん、お元気ですか?」
「……あぁ。うちの奴らは、そう簡単にくたばるような連中じゃねぇしな」
「確かに、そうですね。皆が元気のなくなった姿なんて、想像も出来ませんよ」
苦笑交じりの回答に一瞬の間があった事には、気付かない振りをする。
土方さんの隠したがる事は、昔から何故か手に取る様にわかってしまう。
誰も気付かなくても、気のせいだと言われても、例え本人が否定していたって。
だから今回も、きっと間違ってはいない。
土方さんの隠された表情は、ここ最近ずっと曇っている。
近藤さんに、何かあったんですか?
皆と、何かもめました?
また心にもない事を言って、怒らせでもしたんじゃないんですか?
聞いてしまいたくて喉元まで出た言葉を、ただ飲み込む。
何も知らない振りをして、私と話している時だけは何の憂いも持たない様に、穏やかだった日々に戻っていられる様に。
そして願わくば、少しでも心の安寧を。
「悪いな、あまり時間がないんだ」
「わかっています。それでも顔を出してくれる、優しい土方さんが大好きですよ」
「……うるせぇよ」
「痛いです、土方さん」
「お前が悪い」
照れ隠しの言葉と一緒に、額にぺちんと指が飛んで来る。
そっぽを向くその顔で、全然照れているのを隠せていない事を、きっと本人は知らない。
けれどこれ以上からかうと変に臍を曲げてしまうから、この辺りで止めておく。
対土方さんに関しての匙加減というか引き際は、誰よりも心得ている。
「送ります」
「いや、いいから寝てろ」
「大丈夫、今日は本当に体調が良いんです。玄関先まで、見送らせて下さい」
「……わかった、頼む」
「はい」
ゆっくりと身を起して立ち上がろうとする私を、慌てて止めようとする土方さんの手を制して笑う。
それだけで私の意思が変わらない事を悟ってくれるのも、土方さんだけだ。
そう。私が土方さんの巧みに隠された心を感じられるように、土方さんも私の隠しておきたい内側を読むのが上手い。
だからこそ、これが最期の別れになるのだと、確信せずにいられなかった。
きっと、もう二度とこの世で顔を突き合わせる事はないのだろう。
お互いそれがわかっていて、それでも何事もない様に、また明日にでもすぐ会えるように別れる。
「じゃあ、またな」
「お気をつけて」
迷うことなく、振り返ることなく、ただ真っ直ぐ去り行く背中。
いつか。
追いつきます、例え身体は滅びても。その隣に、必ず。
*****
「よう、元気か?」
「調子はどうだ?」
永倉さんと原田さんが、二人で一緒に私の元を訪れたのは初めてだった。
二人が私を避けて、訪ねてくれていなかったという意味ではない。
むしろ気遣ってくれているからこそ、それぞれが江戸へ来るたびに、立ち寄ってはくれていた。
「二人で」という事が、今までなかったというだけだ。
この混乱した時勢の中、気の合う二人とは言え、今までの様につるんで歩く事も少なくなっていたのだろう。
そう納得していたけれど、久しぶりに二人揃った顔を見ると、やはり今まで別々だった事の方が不自然だったのかもしれないと、そう思わずにはいられなかった。
と同時に、この状況こそが不自然だという気もする。
(何故この忙しい時期に、二人は気軽な顔をして、ここにいる?)
それはきっと、二人が揃っていや揃わずとも私に会いに来るのは、これが最後だという事に他ならない。
静かに一人で過ごす時間が多くなってから、今まで以上に人の気配に敏感になった。
今までと違う雰囲気を纏った瞬間を、感じ取る事に関しては、特に。
「私は大丈夫ですよ。お二人は、お変わりありませんか?」
「……実はな、俺たちは新選組を抜けたんだ」
「新八!」
直球で何の前触れもなく、いきなり真実を告げてしまった永倉さんの言葉を受けて、私が驚くよりも早く、恐らく私の事を思って止めてくれた原田さんの制止声は、ひどく鋭かった。
「何だよ」
「お前な、もうちょっとさ……」
「大丈夫です。ありがとうございます、原田さん。永倉さんも」
何故怒鳴られたのか、さっぱり理解していない永倉さんの不満の声に、原田さんの呆れた表情が重なる。
そして、二人らしいその姿に私が微笑んで頷くと、仕方がないと言わんばかりに、原田さんの表情が苦笑に変わった。
「何の礼だ? 総司」
「……お前のそういう所、いっそ尊敬するよ」
溜息交じりの原田さんの気遣いがあるからこそ、多分私は冷静に永倉さんの言葉を受け止められた。
そして同時に、真っ直ぐに隠さず話してくれた永倉さんに、深く感謝する。
二人が新選組を抜ける、それはとても大きな事件だ。
結成当時から、いやそれよりもずっと前から一緒にやってきた、古くからの仲間。
どうしても、譲れない事があったに違いない。
多分だけれど、近藤さんとの間で。
他の誰かとの間に何かあったのならば、絶対にそれを近藤さんが放っておくはずがないし、永倉さんが近藤さんに話さない訳がないから。
それが例え、土方さんとの間の事だったとしても。
原田さんは、大雑把な様でいて、いつも遠くから物事を達観する事が出来る人だ。
いくら仲間内の中で特に仲が良かったとしても、長い付き合いだからといっても、それだけで選択を誤る人じゃない。
その原田さんが、永倉さんを選んだ。
それだけで、何も聞かなくても、どこか納得できる気がした。
そして永倉さんは、近藤さんを何よりも一番大事にしている私に、全てを隠さず話してくれた。
事の重大さが、わからないはずがない。
その苦痛の表情から、沢山悩んで話し合って、それでもどうしても動かせない「何か」が、近藤さんと永倉さんの二人の間にあった事がわかってしまった。
納得するしか、私に残された選択は残されていないも同然だ。
「どうしてですか?」そう、聞けばよかったのかもしれない。
けれどその言葉が、きっと何の意味も持たないのも、わかっている。
「これから、お二人はどうするんですか?」
「戦うぜ、このまま諦めるつもりはない」
「俺も、八っつあんと一緒に行くよ。そしていつか京に残して来た、まさに会いに行きてぇな」
「おまささんも、茂も、きっと原田さんを待っていますよ」
「茂は総司に懐いてたからなぁ。またいつか、遊んでやってくれよ」
「はい。もちろん」
「そうそう、早く病なんか治して一緒に戦おうぜ。総司がいねぇと、張り合いがねぇってもんだ」
「永倉さんには、負けませんよ」
二人はそれぞれ、両側から私の背中をぽんっと叩いて立ち上がる。
それは、永遠の別れにしてはあまりにも軽く、絶対にそうはさせないという意思の表れの様でもあった。
決して過去を振り返らない、前だけを見詰め続ける仲間の強さに、負けられないと思う。
「ご武運を」
「またな」
「元気でいろよ」
道は違えども、目指す先に変わりはない。
二人の後姿は、大きく温かった。
試衛館に居た頃と同じ、お日様に包まれているような気持ちを、思い起こさせてくれる。
いつか。
皆と共に笑顔で溢れる日々を、届けたい。
*****
「邪魔をする」
「こんにちは、斎藤さん」
「島田さんから預かって来た、菓子だそうだ」
「わ、ありがとうございます。美味しそうだなぁ、一緒に食べますか?」
「……いや、遠慮する」
「ですよね」
見舞いというよりは、「ふらりと立ち寄った」そんな雰囲気で、斎藤さんがこの場所を訪れるのは、いつもの事だ。
様子を見に来ているという感じでもないのに、かといって誰かに頼まれた様子でもない。
ただ、「近くに来たから知人に挨拶でも」という様相だ。
病人に掛ける言葉としては定番の、「身体の調子はどうだ」とか、「具合は良くなったか」だとか、そう言った言葉を掛けられた覚えもない。
かといって、全く気にしていないという訳でもなく、少しでも調子が悪い日には、早々に何も言わず何も聞かず帰って行く。
病人と見舞い人という関係ではなく、ただ同等の友人として付き合ってくれる感じが、心地良い。
無口な斎藤さんは、いつも誤解を受けやすい。
私と一緒に居るのは不自然だと言われる事も、ままあった。
けれど、周りに正反対だと言われようが、仲違を疑われようが、一緒に居て一番気楽でいられて「友人」と呼べる相手は、斎藤さんだと思う。
近藤さんや土方さんの隣にいるのは好きだけれど、友人というよりは尊敬する人だし。
永倉さんや原田さんは、無茶をしながらも引っ張ってくれる、兄のような存在だ。
護る必要も護られる必要もない、同年代で気兼ねなく等しく付き合える、そう迷いなく言える関係なのは、藤堂がいなくなった今となっては、唯一斎藤さんだけだった。
相手もきっと、そう思っていてくれるとわかる。
だからこそ、斎藤さんの言葉は、ただ真実だけを紡ぐ。
隠し事も嘘も、気遣う気配さえなく、ただ事実だけを。
「会津に行く事になった。もう、ここには来られないだろう」
「そうですか。……出発はいつ?」
「数日中には立つ」
「皆、一緒ですか?」
「言えない」
「違う、とは言わないんですね」
「沖田さんなら、察していると思ったが」
「察しているから、聞いたんです」
「それに俺が答えると?」
「……思っては、いませんけどね」
「一応聞いてみるだけはと思って」そう笑うと、斎藤さんも「そうか」とだけ頷いて、それきりこの話は終わってしまう。
けれど、私にとってはそれで十分だった。
そしてこれで十分な事を、斎藤さんは知っていたからこそ、ただ端的に事実を告げてくれたのだ。
現実はいつだって残酷だ。
全然思う様にならない。この身体も、人の心も。
それを突きつける様に、斎藤さんの言葉に希望はない。
けれどその言葉にはいつも、絶望もなかった。
考えてみれば、斎藤さんだけが「身体が治ったら……」という仮定の話を持ちかけてはこなかった。
皆が、本当に心から治ればいいと思ってくれている事は知っている。
自分だって、まだその想いを完全に消した訳じゃない。
けれど、笑ってその細く遠く見えない未来を語るのは、辛い事もあった。
「斎藤さんは、もし私の身体が良くなったら……という話はしませんよね」
「無駄だからな」
「…………」
「沖田さんは、俺の言う事など聞かないだろう? その身体が動く様になったら、勝手に追いついて来るに決まっている」
「そうですね」
そう。だから斎藤さんは、新選組が今後向かう先を、告げに来てくれたのだ。
治るはずがないから、ではない。治ると、信じているからこそ。
「では、そろそろ行く」
「斎藤さん」
「何だ」
「土方さんを、頼みます」
「……承知した」
近藤さんをではなく、土方さんを。
そう告げた私の言葉を受け、斎藤さんは重く頷く。
(一緒に行けない皆の中には、永倉さんや原田さん以外にも、きっと……)
背筋の伸びた背中は、斎藤さんが最期の時まで実直であるだろう事を示していた。
いつか。
再びその膝をつき合わせて、満月の下で友の杯を。
*****
いつの間にか、雨は小降りになっていた。
私の心を映す鏡が、少しずつ悲しみから溶かされて行く様に。
明るさを取り戻そうとする空を不思議に思いながら、縁側に出る。
「総司」
「……近藤、さん」
そこに立っているはずのない人物の姿に、目を見張る。
それと同時に、悟った。
この雨は、きっと止むだろう。
私の心が、晴れるのと同時に。
「本当は、私がお傍に行くはずでした。すみません」
「何を謝る必要がある。お前は、お前の為に生きればいいんだ」
「近藤さんの為にある事が、私の生きる理由なんです」
「困った奴だな」
「連れて行って、くれますよね?」
「駄目だと言っても、付いてくるんだろう?」
「もちろんです」
「では、一緒に行こう」
「はい」
縁側から降りる身体が、やけに軽い。
まるで病にかかる前の様な、いや多分それ以上に、この身体は自分の意思通りに動く。
今なら、何者からも近藤さんを守る事が出来るだろう。
幾度となく見送って来た、皆の背中を追いかけられず、無事を祈りながらただ視線だけで去りゆく姿を追う事は、もうしなくていい。
笑顔で迎えてくれる近藤さんの正面に立って、穏やかに頷く。
そして、大切な人を守る為に隣を歩き出した。
ずっと、ずっと、願って来た通りに。
私が後にした縁側で、小さな黒猫が欠伸をする。
そして空には、大きな虹が掛かった。
終
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