紫陽花とかたつむり(近藤+沖田)
皆が早足で家路を急ぐ、初夏の雨の日。
ようやく慣れてきたとはいえ、武州とは違う京の蒸し暑さは、大地を潤す雨が降り注いでいても、緩和される事がない。
いつも緩やかに流れる京の町の人々の時間も、雨の日は少しだけ早く感じられる。
その流れに乗るように、近藤も屯所への帰り道を急いでいた。
急ぎの用事がある訳ではなかったが、やはりこんな雨の日は、屋根のある場所に早く帰りたいと思う意識が働くのか。
それとも、周りの人々のそういった雰囲気に、飲まれているのか。
まっすぐに前を見て、早足に歩を進める近藤の目に、ふと道端でしゃがみこむ人影が入り込んできた。
具合でも悪いのかと、一瞬心配する。
しかしどうやらそれは杞憂のようで、姿を隠すように覆われている傘が、楽しそうにくるくると回っていた。
まるでそこだけ時間の流れが違っているように感じられ、近藤は導かれる様にその人影に近付く。
真後ろに立って、一体何があるのかと覗き込んだ。
そこには旬も終わりを告げ、その役目を終えようとしている紫陽花と、その上でゆるやかに動く、一匹のかたつむりの姿。
それを楽しそうに見つめていた人影が、近藤の気配に気付いたように振り返り、傘を持ち上げてゆっくりと見上げてくる。
そして、近藤の姿を捉えた瞬間、嬉しそうに笑う。
その顔は間違いようもなく、近藤にとっての見知った顔。
大切な、可愛い弟分の表情だった。
「近藤さん、どうしたんですか?」
「それはこっちの台詞だろう。何をしているんだ、総司」
「うーん、何でしょう?」
「ははっ。お前らしいな」
首をかしげて、問いかけに問いかけで返してくる沖田の表情は、謎かけをしている訳ではなさそうだ。
本当に、自分の行動の意味を近藤に委ねている様子で、思わず笑い声が漏れる。
答えを探して背後から隣に移動し、近藤は沖田の隣に一緒になってしゃがみ込んでみた。
先ほどまで沖田が楽しそうに見つめていた、紫陽花とかたつむりに目を向けると、なんだか心があったかくなる気がする。
蒸し暑い気候も。鬱陶しい雨も。血生臭い日常も。
忘れられる訳ではないけれど、それでもこの時間、この空間にいる間だけは、関係ない事の様に思えてくる。
沖田は不思議と、この空間を作るのが上手い。
いつも、心が許容量を越えてしまう前に、寄り添って癒してくれる。
いっぱいいっぱいになって、周りを壊してしまいそうになる前に、そっとそれを止めてくれる。
それはきっと、とても難しいことで、とても大変なことのはずなのに、沖田はいつも笑って、ただ傍にいてくれるのだ。
絶対的な、味方でいてくれる。
本来、支えてやらなければいけないのは、年長者である自分の役割だという事は、わかっているのに、ついつい甘えてしまう自分を、もどかしく思う。
そして、いつもこうやって癒されてしまってから、その事に気付くから、尚更だ。
きっと近藤だけではなく、新選組の隊士みんなにとって、沖田はそういう存在なのだろう。
そんな沖田自身は、こうやって誰にも頼らず、そっと自分で心を休めているのかもしれない。
多くの者たちには、いつも笑顔でふらふらしているように、見えている事だろう。
だからこそ、せめて自分だけでも、わかっていてやりたいし、甘やかしてやりたい。
「天下に名を轟かそうっていう、新選組の局長と一番隊組長が、二人して道端に座り込んで、何をやっているんだ!」と、土方辺りがいれば、怒られたかもしれない。
そう思いながらも、なんとなく早々に立ち上がる気持ちにもなれず、大人の男二人で一緒になって雨の中、かたつむりの姿を追う。
もう、「早く帰りたい」という気持ちは、どこかに行ってしまっていた。
「近藤さん「今、土方さんに見つかったら怒られるなー」とか、考えませんでした?」
「思ってた……。そんなに、顔に出てたか?」
「いいえ。単に私も、同じ事を思っていただけです」
「歳も、ここにいれば良かったのにな」
そうすれば、一緒にこの時間を過ごせたのに。
怒られたって、ぶつぶつ文句を言ったって、近藤と沖田が二人で望めばきっと、土方は一緒にここに止まってくれるだろう。
常に気を張り続けなければならないその心を、少しだけでも緩める手伝いが出来たかもしれない。
そう、今の自分がそうされた様に。
「近藤さんのそういう所、好きですよ」
「怒られる」なんて冗談めかして言いながら、それでも「早く帰ろう」と、立ち上がって急かしたりはしない。
むしろ「土方も、ここにいれば良かった」と、そう言えてしまう。
そういう人だから、ずっと付いて行きたいと思う。ずっと傍にいたい。
「俺も、総司のこと大好きだぞ」
「ありがとうございます」
恐らく沖田の言う「そういうところ」が、どういうところなのか、近藤には正しく伝わっていない。
どれだけ近藤が、沖田にとってすべてであるのか。それはきっと、最期の時まで伝わらないとも思う。
ただ「好きだ」という言葉に、何の裏もなく「好きだ」と返してくれただけなのだという事も、わかっている。
けれど、そこが近藤らしくて。そういうところが、大好きで。
(絶対に、この人を守ろう)
そう決めた事を、こんなふとした瞬間に思い起こされる。
「じゃあ、怒られついでに、心太でも食べに行くか!」
「本当ですか?」
ぱっと明るい顔を見せ、嬉しそうな笑顔を向ける沖田の頭をぐしゃっと撫ぜて、近藤はそっと人差し指を、唇の先に立てた。
「歳には、内緒だぞ」
「もちろんです」
つい先日も、何かと体裁を気にする土方が、二人で甘味処に入り談笑していた所に、困った顔をしながら乗り込んで来た事があった。
引っ張るように連れ帰られ、「頼むから二人して、ああいう処に行ってくれるな」と、延々とこっぴどく怒られたのは、記憶に新しい。
最後には、「本当に、頼むからな!」と懇願されたことを思い出し、「ふふ」と笑い声を漏らす。
すると、沖田も同じ事を思い出していたのか、「承知しております」と畏まった言葉を付け足した割に、悪戯っ子の笑みを浮かべていた。
立ち上がりながら、沖田が紫陽花の花をそっと指で揺らす。
突然もたらされた人災にも負けず、かたつむりはその花の上を、ゆっくりと歩み続けている。
(紫陽花とかたつむりが、まるで近藤さんと土方さんみたいだ)
そんな風に思いながら、沖田がここで足を止めていた事を知っているのは、優しく振り注ぐ雨だけだった。
終
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