亜暦三四一年「或ル二輪ノ記録」
七月二十七日(喉)「晴れた日には歌を」
亜暦三四一年 七月二十七日(喉)
赤黒い道に溶液の雫が至る所で垂れていた。今まで、包んでいたドームがポツポツと穴を開けたからだ。そのお陰で、中の溶液が外に漏れ出していたのだ。少女はその事象に対して、酷く心を震わされていた。──裏切られたのか。溶液は既に膝下程までに抜け出しており、五ヶ年振りに少女の眼の中へ日差しを誘い込んだ。少女はおぼつかない足取りで外へ出てみた。足はもう澱んでなどいなかった。絹の様に滑らかな質感を持った二本の脚がちゃんと付いている。旅人が拵えてくれた子宮で眠った月日が少女の罪を禊いでくれたのかもしれない。──無い物ねだりをした私を赦したのか。ならば、どうして私を追い出したのだ。やはり、恨んでいるのか。無論、少女が再び産声をあげた理由はそんな恨みからくる物では無かった。
「これ……」
おぼつかない足取りで外へ出た少女の足元に落ちていたのは一冊のノートだった。「或ル旅人ノ記録」と表紙に綴られたその本は、以前旅人が綴っていたモノと同じだった。少女は何の気なしにパラパラとそのノートを捲ってみた。そこには彼のいままでが克明に記録されていた。「酷い話だ」と少女は思った。そして、「この絶望を見せしめる為に、私を外に出したのか」とも少女は感じた。
「……私にやるべき事なんてないよ。出来る事も」
そう考えながら読み進めていると、少女の目はあるページでピタリと止まった。「あ」と少女は声を零してから、そのページをジッと見つめ始めた。
【コレハ遠イ世界カラ君ニ送ル記録デアル。……済まない、フタワ。これを君が読んでいるという事は、私が意識を保てた五ヶ年で君を外に出すべきだと判断したという事だろう。その頃の外はどうなっているのか、推測する事もできない。しかし、君は生きてもよい頃だと思う。考えてみるに、君はこの旧式の精製機で過ごし、穴倉で暮らし、私に着いて回った。君は一度も生きていないと言っていいだろう。たとえ、何の救いもないものであっても、一度ぐらい自由に生きてみればいい筈だ。君は穴倉を自由と信じていた様だが、自由とは安全という意味ではない。惨たらしく死んでみるのもまた、自由だ。私はこの一度だけ、君に特大の自由を与えてみることにする。死のうが生きようが、自由だ。亜球でも外ノ世界でも、君を知る者はいない。】
「自由、か」
少女はずっと追い続けていたその言葉を、今は煩わしく感じていた。所詮、隣の芝の青さに惹かれていただけに過ぎないのだから、そう思うのは仕方のない事なのかもしれなかったが。少女は透き通る肌を隠す布を探す為に“子宮”の方へと駆け込んだ。頭の中では「二輪」や「赤黒い道」といった自分の脳を自由にしてくれていたしがらみを愛おしく思っていた。
「さようなら」
そう呟いてから少女は“子宮”に転がっていたマグロの服とライフルを拾い上げた。それから、他に必要な物も無かったが、何となくノートも持って行くことにした。
***
亜球の外口から中へ侵入すると、そこは血の海だった。そこら中から噴き出る赤黒い血液は、木々や家を形作っていた物という物を溶かし、醜悪な光景を生み出していた。少女は何をすべきかも解らずに立ち止まっていると「ちょいとお嬢さん」と誰かに声を掛けられたような気がしたので後ろを振り返ったが……そこには誰もいなかった。
「後ろじゃないよ、下さねえ」
そう言われて下に顔を向けると小さな老人がいた。シワシワの唇で三日月の様に口角を釣り上げて笑っている様だ。脚が澱んでいる。という事は人間なのだろう。
「なにか?」少女が見下しがちに聞いた。
「いやぁ、別に、何だ。珍しい所から、人が来た物だなと思ってね」
「珍しい?……何人も旅人が来たじゃない」
少女が聞くと、老人はきょとんとした。
「あぁ、そうだったかな。昔の事はよく知らないよ。元来、旅人という役は思想家でインテリで、どうにも鼻持ちならない。友人だって普通は出来ないんだ。だから、外へ行っても外がどうだとかは分からない」
少女が「伽羅盤は?」と返すと「それも似た様なものだ」と老人はしわくちゃの顔を歪ませて笑った。
「まぁ、ワシはどうこう言える立場では無いよ。私の役は言うなれば“気狂い”だからね」
「気狂い」
少女が聞き返すと、老人は「ここで草むしりをするのが仕事なんだ」と鼻歌混じりに去っていた。少女はまだまだ聞きたいことがあったが、老人はもうとうの昔に遠くへ行ってしまっていた。少女は老人が向かってきたであろう方角へ進み始めた。崩れた屋根や欠けた石畳から察するに、どうやら「世迷病棟」があった辺りの様だった。漂う匂も何処か懐かしい。少女は此処でハザマと風呂に入ったりもしたな、と思い出した。
「寒くて敵わない」
少女がしばらく歩いていると、大きな像に出くわした。肉機械出来ているらしいそれはツツミの姿をしていた。像の足元には『愛を伝えた我等、気狂いの英雄 ツツミ ココニ眠ル』と彫られていた。少女は像の前に跪いて手を合わせてみると、何だか妙な気持ちになった。まるで感銘を受けていたみたいだな、と思ったからかもしれない。暫く少女が居るとその背後に人が現れた気配がした。「誰?」振り返るとそこには片腕が銃器となった黒髪の女の姿があった。ハザマだ。
「……五年待って帰ってきたのは、アンタだけか」
ハザマはそう言ったが、その目は悲しそうでもなければ哀れみを持ってもいない様子だった。少女はなんて冷たい瞳なのだろうと思った。
「第三区画に帰ったんじゃないの?」
「……ふっ、どうせ私も気狂いなんだ。ルールや幸せのレールに乗るのは昔から苦手なんだよ。今の第三区画に帰りたいとは思わないしね」
少女は詳しく聞こうとしたが、ハザマは行けばわかるというばかりで「じゃあね」と背を向けた。
「あの」
少女が声を掛けても、ハザマは振り向こうとしなかった。少女が口にしようとしているのが感謝であれなんであれ、聞く気は無い。そういう有無を言わせない感情が渦巻いた仕草だった。少女はそれに掛ける言葉が見つからず、今一度、旅人のノートを開いた。
「…第三区画は此処から入るのか」
地図のページには小さく『入口』と書かれていた。道なりに歩いていれば帰っていける。勿論、そこに居場所がある訳ではない。と言うより、生きたいのかすら分からない。だから、向かいたいのだ。
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