銀盤のフラミンゴ(第一章)
虹乃ノラン
耳障りなノイズ(試し読み)
一瞬。ほんの一瞬、
あの音が堪らないんだってよくお父さんは言ってるけれど、そんなアナログな「古き良き……」なんてモノに興味なんて持てないわ。じゃあ、わたしの好きなモノっていったいなんなのかしら?
スケートを教えてくれたお母さんはこんなことを言っている……。
「スケートってね、小さな銀盤の箱庭で、ルールなんていう不自由さにもがきながら、必死に羽を広げて自由を表現するアートのようなものよ」
そんなお母さんの言葉を理解できないまま、わたしはこの場所に立っていた。お母さんのことは大好きだ。でも、お母さんのようにはスケートを好きになれなかった。
「ダーリーン! リラックスして! あなたならきっと大丈夫よ!」
耳障りな会場の騒音の隙間を、お母さんの声がわたしの耳に走り込んでくる。声を手繰り寄せて顔を上げると、お母さんとお父さん、そしてハイスクールの同級生のスコットがこちらに向かって声援を送ってくれていた。
アラスカのフェアバンクス出身だったお母さんは、スケートってものを生活の中でごく身近な遊びとして親しんでたって言ってたっけ。だからお父さんと結婚してこのノースダコタのビスマークに住み、わたしを出産すると、幼いわたしを連れてよく家族でスケートリンクへ出かけていった。
お母さんは別に、フィギュアスケートの選手だったわけでもなんでもない。でも間違いなくフィギュアスケートの選手に憧れる女の子だったと思うし、わたしにそうなってほしいと願ってるのは確かなことだわ。なにもわからなかった無邪気な子供時代は、わたしがリンクの上を滑ってるだけでお母さんは大喜びしていたから。
エレメンタリースクールに入ってしばらくするころ、お母さんはわたしを近所にあるスケートクラブに入れた。考えてみれば、わたしはきっとあのころからこのスケートって競技に少しうんざりしてたのよ。でもわたしはお母さんが大好きなの。
「ダーリーン? 次はあなたの番よ、いい? 時間は三分ほどで、SP同様七つのエレメンツを入れて」
一瞬、静まりかえった会場がふたたび騒音で溢れていくと、映画「ロミオとジュリエット」で使われた「愛のテーマ」ニーノ・ロータのピアノ曲が流れはじめていた。
リンクの中央まで滑り出し、ただただ失敗しないようにイメージを重ねる。はじめに持ってきたのは、
リンク中央からたっぷりの助走をとって、前のめりに左足を大袈裟に深く沈みこませると、すぐさま右足のトウを突き三回転のジャンプを跳んだ。だけど勢いがありすぎたのか、着氷した右足はエッジで重心が取れず、左足が振り回されて右足の軸がぶれてしまう。
この瞬間、頭の中はすでに真っ白。何度も練習して体は覚えていたのか、体はトウループの体勢に入っても、脳みそがこれを拒んでいた。こんな頭と体がシンクロしてない状態で、どんなジャンプを跳んだところで結果は火を見るより明らか。ぶざまに潰れた蛙みたいにリンクに突っ伏していたんだ。
笑いと拍手が巻き起こる。すぐに立ち上がると、予定していたステップシークエンスをストレートラインで踏んでいく。左右軸のスイングチョクトーのステップに左軸のブラケットターン。軸足の異なるカウンター、ツイズル、ループのターンを決めたつもりでも、まるで左右のエッジに体重を乗せられていない。
失敗しちゃいけない!
失敗しちゃいけない!
頭に血が上り、涙目のわたしなんて他人から見ればきっと滑稽で良い笑い者だわ。
スリーターンから、足を踏み替えてのモホークのステップ。ガタガタのわたしの目前にはすでにリンクの端が迫っていた。次はブラケット、ロッカー、ツイズルの三つのターン。だけどコーナーまでの距離を見ても、転倒したロスタイムを考えても、とても間に合いそうにない。
急遽、予定していたブラケットとロッカーのターンを切り、左軸のツイズルからチェンジエッジを入れ、三回転サルコウへと持っていく。無難に跳んだサルコウの直後、フリーレッグを後ろから持ち上げ、わたしの得意なドーナツスピンへと移行した。
上体が、氷面と水平に円を描いて加速する。視界の端には、細かく削りとる白いしぶきと、リンクの壁が水平線のように映りこんでいた。わたしはそれを振り切るように速度を上げて、飛び散りそうになる遠心力に身体を預ける。
こんなにも長くそしてこんなにも辛い三分間なんて、少なくとも同じハイスクールに通う仲の良い友達は経験したこともないんだろうな。
ふたたびリンク中央へとスピードを乗せて、助走をつけてからのダブルアクセル。着氷時のブレもまったくなく、いつもなら大満足できるようなアクセルも、今はただ早くこの時間が過ぎ去ってほしいって祈るばかりだった。
次に予定したコンビネーションスピンでは、軸足を交互に替えてキャメルからシット、小さくジャンプするとY字スピンへと移る。まっすぐ膝を伸ばしたアップライトでフリーレッグの踵をつかみ、横から高く持ち上げる。
もうプログラムもわずかというところで、ようやくわたしは練習時のような平常心を取り戻せた気がした。けれど、頭の中ではとにかく早くプログラムを終わらせ、リンクから出たいって気持ちだけが溢れ出している。
表現の評価点の稼げるコレオシークエンスはすべてキャンセルし、そのままフリーレッグを後方へ持ち上げ上体を深く沈めると、アラベスクスパイラルでごまかすようにリンクを長距離滑走した。
嫌というほど見つめ続けてきたこの白い氷面に顔を近づけたまま、ふたたびリンク中央付近に戻ってくると、チェンジエッジを挟みスタンドスピンに切り替える。そしてもう一度フリーレッグを後ろからつかんで、背中から頭の上にまで高く持ちあげると、フィニッシュに用意していたビールマンスピンで、わたしはすべての演技を終わらせていた。
レコード盤に降りた針は、何度も何度も音楽を鳴らそうと虚しくノイズを奏でながら鳴らないレコードの上を滑る。まばらに響く拍手に弾き出されるように、わたしという名の針は、真新しい針に交換されてお役御免になったのよ。
リンクを降りて顔を上げれば、お父さんもお母さんも、さらには友達のスコットまでもが満足そうに拍手を送っている。でもあなたたち三人を除いては、誰ひとりとしてこんなわたしの演技に心からの拍手を送ろうなんて人はいないわ。わたしはそれを知っているし、なによりも気づいてほしいと願ってる。
そんな優しいあなたたちのことが大好きだけど、大好きなお母さんのようには、このスケートってものがそれほど大好きにはなれないの……。
こうしてわたしは、今年も州大会へのチャンスをみすみす手放してしまった。いえ、そもそもそんな切符、手に入れたくもなかったんだ。
†
お父さんが運転する帰りの車内では、みんながわたしの演技を労ってくれているけれど、わたしの真上には重苦しい空気がどっかりと腰を下ろしている。
「残念だったわ、ダーリーン。でも他の誰よりも、あなたの演技が私には一番に見えたわ!」
テストの結果なんてまるで気にしてないって感じで、お母さんが明るく声をかけた。
「君のママの言うとおりだよ! この調子で練習を積めば、君は今にきっと有名なフィギュア選手になれるよ!」
お母さんの意見に輪をかけて肯定するように、スコットもわたしを励まそうとしているのがわかる。
「よし! どこかで食事して帰ろう。残念会だけど、次の大会に向けて腹ごしらえしなくちゃな!」
お父さんは車のアクセルを踏み込むと、軽快にスピードを上げて走り出す。窓からのぞくビスマークの街並みの色合いが目にチラついて、リンクの白い残像とかぶさり打ち消されていく気がした。
「おじさん! それならマグーに行こうよ!
スコットが、有名な中国人フィギュア選手のつもりなのか、手振りを交えながら大げさに話しかける。スコットは、ボーイフレンドってわけじゃないんだけれど、なんて言うか……そう、良いお友達よ。
お調子者で人なつっこい性格の彼は、いわゆる人気者タイプ。だけど女の子とデートばかりしてるかっていったら、彼に限ってはそういうわけでもない。たしかに男友達はたくさんいるみたいだけど、彼がわたし以外の女の子と話しているのを、ほとんど見かけたことはないから。
どういうわけか彼はわたしと気が合うみたいで、授業の休み時間なんかもしょっちゅう声をかけてくる。だから、学校やスケートクラブが休みのときなんかは、よく他の友達も含めて遊んだりしてるんだ。
そんなに広くもない車内で、スコットはゆるいクセの入った日に焼けた金髪を無造作に揺らしながらフィギュア選手の真似事を繰り返していた。そんな彼のおどけた鼻歌にお母さんはうれしそうに相槌を打ち続けている。
こんなふうに、お調子者で犬みたいになつっこい性格だから、両親もずいぶんとスコットのことを気に入っていた。
†
市内を走るインターステート94――399ウェスト・センチュリー・アベニューに入り西へと走ると、ノース・ワシントン・ストリートにぶつかる。このストリート沿いには、たくさんの飲食店や様々なお店が建ち並んでいるの。
スコットの言った『マグー』っていうのは、このストリート沿いに店を構えるチャイニーズレストランの名前。彼はここの料理が大好きで、家族ともしょっちゅう食べに来ているみたい。まぁ、このお店で出される中国料理がいったいどれほど本場の味に迫っているのかは謎だけれど、お店の雰囲気だけなら納得がいくわ。
チャイナドレスを着たスタッフが、グルグル回る赤い円卓の上に、少しだけ不愛想にガチャガチャと大皿を置いていく。チャイニーズには詳しくないけど、スコットはマグーで出てくる甘酸っぱいチキンとナッツの炒めものが大好きで、いつもチャーハンの上に載せて大きなスプーンで頬張る。
わたしは別段中国料理が好きってわけでもないけど、食後に出てくる乾燥したお花で淹れたジャスミンティーのことは結構気に入っていた。小さなボウルみたいなお茶碗にゴロンとドライのジャスミンを入れてお湯を注ぐ。蓋をして蒸らして、少し時間をおいたら蓋をずらしてそのまま飲めって、深いスリットの隙間から生足をのぞかせたスタッフが片言の英語で説明してくれるけど、いまだにどういうことかわからない。
お母さんはくすっと肩をすぼめて「好きに飲みなさい」って笑う。そうね、ジャスミンティーの香りはグリーンで、広がった花の様子もきれいだし好みだわ。
お父さんもお母さんも、そしてスコットも、その日はスケートの話をいっさい持ち出さなかった。周りが気を使ってくれるのがわかるからこそ、余計にイライラする気持ちってあるでしょ?
そんなときは、誰がなにをしてもなにを言っても出口なんて見えないまま。小さなオルゴールボックスの中で、物悲しい音色に合わせて、同じ場所を出口を探るようにクルクルと回るバレリーナ人形みたいに、この重苦しくて長い時間から一刻も早く解放されたいって願うのよ。
たとえなにかの間違いで、お母さんが「今すぐにスケートなんて辞めてしまいなさい!」って言ってくれたとしても、たとえ運命の悪戯で、この世からスケートなんてものがなくなってしまったとしても、今の気持ちが晴れるなんてことはないんだから。
スコットは食事の最中、ずっとバカ話で盛り上げようとしていた。シュリンプのフリットをスープに泳がせたりなんかして、あまりにも子供じみたおふざけにも誰もあきれた顔なんてしない。お父さんもお母さんも、ひとり重苦しいわたしを気にかけないように、彼のくだらない話を夢中になって聞くふりをしているんだ。
マグーを出てスコットを家まで送り届けたあと、車内は静まりかえっていた。家に着くまでのいつもの見慣れた道がやけに煩わしく感じる。結局誰もなにも言わないまま車は家のガレージに到着し、わたしは足早に家に入るとさっさとシャワーを浴びてそのままベッドに潜り込み、ブランケットを頭までかぶって泣きながら眠りについた。
†
ウィークエンドに連休を控えた九月も中頃、ビスマークの町はパウワウのパレードのために、町全体が
ごみ回収車が撒き散らしたのか、
「ダーリーン! こっち! こっち!」
スコットがそばかすの浮かんだ頬とその口元をほころばせて手招きする。そして隣に置いたバックパックをどかすと、うれしそうに膝に乗せなおして隣に座るように促すんだ。
「おはよう、ダーリーン! ところで週末のパウワウパレードには行くのかい?」
「わたしは今年もパスよ。友達の誘いも用事があるからって断ったし、だから……見つかっちゃうと……」
「本当⁉ じゃあ週末、イエローストーンにキャンプに行かない? 君の言い訳も現実になるし、なにより気分転換には最高だよ!」
取り繕うように軽く笑ったわたしに、スコットは大袈裟に両手を広げてみせた。朝から無駄にテンションの高いスコットに、わたしは少し苦い顔しながら聞き返す。
「イエローストーン? ……ってまさか、あのモンタナにある国立公園のこと?」
「そう! そう! 子供のころ、よく家族で出かけたんだ! この小麦畑ばっかり永遠に広がるノースダコタと違って、起伏の激しい山々やいろいろな動物がいて、すごく良いところだよ!」
スコットは興奮気味に目を輝かせている。今だってまだ充分子供のくせに。
「でも、どうやって行くつもりよ? わたしの両親は毎年パレードに参加しているし、スコットのところだってそうでしょ? あまりに距離がありすぎるわ」
スコットを現実に引き戻そうとして横槍を入れると、彼は待ってましたとばかりに質問に答えた。
「ランディが帰ってくるんだよ! 週末どこかに連れてってくれって頼んだら、ちょうどイエローストーンに用事があるから連れてってやるって!」
「ちょっ……ちょっと待って、ランディって? あなたのお兄さんかなにか?」
スコットとはもうずいぶんと親しくしてるけれど、ランディなんて名前の人の話ははじめてだ。わたしが訊ねると、さっきまであんなにうれしそうだったスコットはなぜかいったん視線を外し、一呼吸おいてからふたたび口を開く。
「ごめん、そういやランディのこと、君に話したことなかったね。ランディは十歳離れた僕の姉なんだよ」
どことなくバツの悪い顔をしたスコットは、そのままわたしの反応をうかがっているようだった。
それにしたっておかしなものよ。だってスコットはいつだってくだらないバカ話でわたしをシラけさせてるくせに、今の今まで自分の姉の話だけうっかり話し忘れてたなんてあるはずもないんだから。だから、きっと話したくない理由でもあったんだわ――そんなふうに、わたしは自分の頭の中で彼のお姉さんだっていう人のことをいろいろと考えていた。
「それにしても、ランディなんてまるで男の人のような名前ね。わたしてっきり、あなたの叔父さんかお兄さんかと勘違いしたわ」
「そうなんだ。パパの大好きなバンドから名前をもらったんだって言ってたよ。たしか、ザ・ランディ・オックスフォード・バンドって言ったかな?」
わたしの反応がいつもと変わらないと感じて安心したのか、スコットの表情が少し柔らかくなる。
「へー、そうなの。……で、イエローストーンには、そのお姉さんが連れていってくれるの?」
そう訊ねると、スコットはまたにっこりと表情を緩ませた。そして口元から卵でも飛び出させるみたいにウズウズとしゃべり出す。
「うん! ランディは写真家の卵で、今はプロのアシスタントをしてるんだ! そのボスがウィークエンドに休みをくれたから、イエローストーン公園に写真を撮りにいくって。どうだい? 一緒に行かない?」
わたしはひとりっ子で兄弟もいないから、お姉さんのことでうれしそうに早口でペラペラとしゃべる彼を見ていたらなんだかうらやましく感じた。
「そうね……少し考えさせて。それに、両親にも聞いてみないとだから」
学校へと向かうスクールバスの中、スコットはずっとイエローストーンの話ばかり。気がつけばバスはいつの間にか学校に到着していた。
最近のわたしはといえば、授業中もどこかぼーっとしがちで集中できていない。もちろん州大会の選抜テストを落としたからなんて理由でもないのだけれど、十七歳にもなるといよいよ将来ってものがより身近に迫ってきているようで少し不安だったんだ。
クラスメイトたちからは、進学するのかしないのか、それとも企業のインターンシップに応募するとか、はたまたニューヨークへ行くとか――そんな将来についての話題もちらほらと聞こえてくる。スケートってものに対して不満が募っていく一方で、勉強だってそれほど得意でないわたしは、じゃあ自分にはいったいなにが残ってるんだろうってすごく不安を覚えるんだ。
お父さんのこともお母さんのこともとても大好きで、将来のことについても心配させたくないし、むしろ自慢の娘だって思わせてあげたい。でも、わたしっていう箱を開けてみれば中身は空っぽ。これで、どうしてお父さんやお母さんを安心させてあげられるっていうんだろう?
授業中そんなことばかり考えていると授業なんて一瞬で終わり、いつの間にか帰宅する時間になっている。その代わり、わたしは憂鬱って報酬を受け取るの。
そのおかげで、ここ最近のわたしは常に薄霧のかかった暗がりの森の中を、ひとりぼっちでさ迷う旅人のような気分だった。
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