秘拳の三十二 多勢に無勢

「お~い、俺の声が聞こえる奴はいるか!」


 ユキを人質に取っていたゲンシャは、上唇を舌で舐めるなり大声を張り上げた。


「聞こえたら河原まで降りて来い! トーガと女を見つけたぞ!」


 ゲンシャの野太い声が近辺に轟くと、あちらこちらの茂みから取り巻きの連中が一人また一人と河原に姿を現した。最初からさほど離れず散策していたのだろう。


 人数は全部で四人。やはり自分の見立ては的中していたようだ。


 トーガは走り寄って来る取り巻きたちを見て歯噛みする。


 取り巻きの一人が減っていた。


 十中八九、不在の一人にはカメの元へ自分の命令無視とユキの風貌を伝えに向かわせたに違いない。


 などと考えている間にトーガはすっかり取り巻きたちに囲まれてしまった。 


「まるで網に捕らえられた魚だな、トーガ。もう逃げることはできねえぜ」


 そんなことは言われずとも分かっていた。


 トーガは自分を囲んでいる四人の取り巻きたちを流し目で見る。


 四人の取り巻きたちは額や首筋に汗を滲ませ、必死に荒ぐ呼吸を整えていた。


 無理もない。


 照りつける日差しはなくとも蒸し暑さは健在だ。


 取り巻きたちの纏っていた着物には大量の汗染みが見受けられた。


 だが、今のトーガの関心は四人の取り巻きたちにはない。


 トーガは四人の取り巻きたちから視線を外すと、下卑た笑みを浮かべていたゲンシャと真っ向から視線を交錯させる。


「ゲンシャ、いい加減にユキを解放しろ。俺はもう逃げも隠れもしない」


「ほう、このマジムン(魔物)の女はユキという名前なのか?」


「ユキはマジムン(魔物)ではない!」


 怒気を含ませた咆哮を上げるや否や、四人の取り巻きたちは身体を強張らせた。


「そんな道理が今さら通用するわけねえだろ。根森村で白髪なのは年寄りかティンダだけなんだぜ。ましてや黒城島は四方を海に囲まれた孤島だ。余所者が根森村に移り住めばすぐに分かるんだよ」


「それでもユキはマジムン(魔物)ではないんだ。こんなときに嘘は言わん。だから今すぐユキを放してくれ。ユキを放してくれたら俺は何でも言うことを聞く。ツカサ様の元へ連れて行きたいなら連れて行けばいい」


「もちろん、そうさせて貰うさ。お前を捕縛してツカサ様の元へ連れて行くのが俺たち男衆に下された命だからな」


 ただし、とゲンシャは口の隙間からおもむろに犬歯を覗かせた。


「お前を連れて行くのは俺の鬱憤を晴らした後だ。油断していたとはいえ、半端者に殴られたままじゃ俺の面子が立たねえからな」


「覚えているさ」


 トーガは大きく頷くと、両腕を組んで地面に胡坐を掻いた。


「俺は手を出さないから好きにしろ。その代わりユキだけは見逃すと約束してくれ」


「半端者のくせに勘が鋭いな。それとも医者は短い会話だけで人の心を読めるのか?」


「心を読む? そんなことは医者の俺でも無理さ。ただ、普段からあんたらの噂は痛いほど聞かされていたからな。ゲンシャと取り巻きたちの粗忽振りは一度死なないと治らないとね」


 嘲りの言葉を漏らした直後、場の雰囲気が明らかに一変した。


 沢のせせらぎや蝉の鳴き声が如実に遠ざかっていく。


 そんな錯覚を起こすほどゲンシャを含めた五人の身体からは颶風の如き殺意が放出されたのだ。


「これは驚いた。俺たち五人を前にして、そんな憎まれ口を叩ける度胸がてめえにあるとは思わなかったぜ」


「俺も驚いた。口よりも手を出すほうが早いと言われる、ゲンシャがこんな無駄口を叩く男だったとはな」


 ゲンシャは四人の取り巻きたちに顎をしゃくる。


「面白え。その減らず口がどこまで叩けるか見せて貰おうか!」


 ゲンシャの言葉が終わったとき、四方から矢継ぎ早に蹴りが飛んできた。


 蹴りと言ってもティーチカヤー(手の使い手)のような鋭い蹴りではない。


 力任せに相手を足裏で踏みつける素人の蹴りである。


 しかし、これが想像以上にトーガの肉体に苦痛を与えた。


 長年、痛みに慣れる鍛錬をしていないことも理由の一つだった。


 いや、それ以上に人間の身体は鍛え抜いても岩にはならない。


 ましてや頭部は肉を緊張させることもできない急所中の急所である。


 意識を強く持たなければ瞬時に気を失ってしまう。


 だからこそトーガは必死に苦痛を飲み込んだ。


 側頭部を蹴られて視界が二重に揺れ、鼻先を蹴られて鼻血が噴出してもトーガは耐えることに意識を集中させた。


 やがて顔面の所々が歪に変形し、口元が鼻血で真っ赤に染まったときだ。


 トーガは取り巻きの一人に後頭部を蹴られたことで体勢を崩し、比較的平らだった地面に真正面から叩きつけられた。


(このままだと間違いなく死ぬな)


 口から漏れそうだった嗚咽を強靭な意志の力で堪え、口内に入ってきた苦い土と血の味を噛み締めながらトーガは死を予感した。


 同時に人間の肉体というのは非常に面白くできているな、と感心した。


 泣き叫びたいほどの激痛の果てに待っていたのは、意識の消失ではなく周囲の気配が鋭敏に感じ取れるほどの意識の覚醒だったからだ。


 強烈な頭痛が嘘のように消え、二重三重に揺れていた視界が鮮明に晴れた。


 酷かった耳鳴りも正常な音を拾うようになり、血と土の匂いで満たされていた鼻は遠くの草花の匂いも嗅ぎ取れるほど研ぎ澄まされていく。


 そんな中、トーガの耳にゲンシャの声がはっきりと聞こえた。


「やっぱり半端者の頭はどこか狂っているんだな。こんなマジムン(魔物)の女一人庇って何の得があるんだ」


(何だって……)


 トーガは地面に突っ伏しながらも顎を少し上げ、数間先の河原と茂みの中間に佇んでいたゲンシャを見上げた。


 間を置かずトーガの視界にありえない光景が飛び込んでくる。


 今の今までは確認する余裕が心身ともになかったものの、とっくにユキの肉体はゲンシャの豪腕から解き放たれているとばかり思っていた。


 ユキを見逃す代わりに自分は仕返しを甘んじて受ける。


 それが互いに交わした約束だったにもかかわらず、未だにユキはゲンシャに拘束されたままだった。


 それだけではない。ゲンシャはユキが余計な声を上げないように口を塞いでいたのだ。


 トーガは卑怯者とばかりにゲンシャを睨めつける。すると再び視線が合ったゲンシャは口の端を鋭角に吊り上げた。

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