秘拳の三十 二人の逃走
トーガはユキを連れて森の中をひたすらに走っていた。
もう取り返しがつかない。
カメの命令を無視しただけでなく、気性が荒く角力(相撲)の腕前に卓越したゲンシャに痛手を与えて逃走したのだ。
今頃、顔面を打たれたゲンシャは髪が逆立つほど怒り狂っているだろう。
また取り巻きの一人をカメの元へ走らせ、事の真相を伝えに向かわせたことに違いない。
ならば事態は悪化の一途を辿っている。
これは予感というよりも確信に近かった。
根森村の繁栄に生涯を捧げてきたカメのことだ。
今さら出て行って身の潔白を主張しても徒労に終わるだろう。
しかも森へ逃げ込んだ際、ゲンシャたちにユキの姿を見られたのだ。
当然の如くカメの耳にはユキの風貌が報告され、それこそマジムン(魔物)と勘違いされることは容易に想像できた。
トーガとユキは足元に気をつけながら緩やかな傾斜地を下ると、体力の消耗を避けるために一際よく育っていた樹木の影に素早く身を潜めた。
ほどしばらくして、トーガは樹木の裏から顔だけを覗かせ周囲に気を配った。
追っ手が近くにいる気配は感じられない。
「悪かったな、ユキ。急に君を連れ出すような真似をして」
顔を戻して安堵の息を吐いたトーガは、強引に連れ出してしまったユキに頭を垂れた。
「いえ、私は全然気にしていません」
前髪をさっと掻き上げてトーガは苦笑した。
「そう言って貰えると少しは気休めになるよ」
無我夢中で走ったせいで心臓は面白いほど暴れ回っていたが、ユキの満面の笑みを見ると不思議と動悸が静まり身体が軽くなっていくような気がする。
その証拠に先ほどは微塵も気にしていなかった蝉の声が聞き取れるようになった。
不安と恐怖が薄れて心に余裕が出てきた現われだろうか。
「ですが、トーガさん。これからどうするおつもりですか?」
思ったよりも冷静だったユキに「さて、どうするかな」とトーガは表情を曇らせた。
咄嗟に森の中へと逃げ込んでしまったものの、このまま森に隠れ続けても事態が解決しないことは火を見るよりも明らかだった。
ましてや黒城島は陸の孤島である。
他の島へ移動する手段は浜辺に停船されていた数十隻の舟のみであり、仮にそれらの船を奪うとしても危険が高すぎた。
浜辺に向かうには根森村の中を通り過ぎなければならないからだ。
そう思った直後、トーガは自身の考えに寒気を覚えた。
(舟を奪う? そんなことをしてどうするつもりだ、トーガ)
小さく舌打ちすると、トーガは胸中において自分自身を激しく罵った。
船を奪ったところで根本的な解決には至らない。
仕事やモーアシビ(毛遊び)に参加するために他の村を訪ねるならば快く迎えられるだろうが、罪を犯して村から逃亡を図ったと知られた場合にはどんな冷遇を受けるか考えたくもなかった。
加えてユキの常人とは異なる風貌にも問題がある。
ユキと同様に年若くして白髪のティンダには白髪になった確固たる理由があったが、ユキには理由どころか自分の名前も分からないほど記憶が欠落しているのだ。
もしかすると他の村で事情を聞けばユキの素性の手掛かりを得られるかもしれないが、どちらにせよ船がなければ他の島の移動も間々ならない。
まさに取るべき手段が絶たれた状態だ。仮にこの事態を解決する策があるとすれば、根森村最大の発言力を持つカメにユキの保護を頼むことだろう。
しかし、今となってはそれも難しい。ユキがマジムン(魔物)の類と思われてしまっては嘲笑や罵倒どころの話ではなくなる。
それこそ島の異変を鎮めるために生贄としてユキが殺されてしまう可能性も否定できなかった。
(待てよ。だったらツカサ様に意見できるほどの人間に事情を話すというのはどうだ)
ふと浮かんだ案にトーガは独り頷いた。
この根森村にはツカサであるカメに堂々と意見できる人間たちがいた。
根森村繁栄の立役者であるティンダの家の人間たちだ。
すなわちムガイ、ミンダ、ナズナ、ティンダの四人である。
ただムガイは腰痛で動けず、ミンダは難しいことには首を突っ込まない性格だ。
そうなると話を通すべき人間は自然にティンダとナズナの二人に限られてくる。
「いいぞ、わずかだが望みはある」
ティンダとナズナは童子の頃からの親友だ。
特にナズナはカメを補佐するチッチビの一人であり、ティンダもカメが選んだ男衆の一人である。
今回の件も真剣に事情を話せば二人とも自分に味方してくれるに違いない。
トーガは立ち上がると、ユキに手を差し伸べた。
「行こう、ユキ。ティンダとナズナの二人に会いに行くんだ。君のことを誤解しているだろうツカサ様に会うために」
「ティンダさんはトーガさんの親友の人ですね。でもナズナさんとは誰ですか?」
「そう言えばナズナのことはまだ話していなかったな。ナズナはティンダの妹だ。ちょうど君と同じぐらいの年頃の娘で女童の頃からよく知っている仲だ。加えてナズナはツカサ様が取り仕切る祭祀の補佐をするチッチビの一人。この二人に今の俺たちの境遇を話せば必ず力になってくれる」
トーガは弾んだ声で言葉を続けた。
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