【完結】島人のティーチカヤー ~琉球王国の八重山諸島で密かに武術を鍛錬していた俺、島の守り神だった少女と出会ったことで、幸福で最悪な運命の歯車が回り出す~

岡崎 剛柔(おかざき・ごうじゅう)

秘拳の一  根守村のトーガ

 緩やかな斜傾地を進んでいくと、トーガは下草が少ない平地に辿り着いた。


 早朝である。


 屋根のように天を塞いでいた森の中、ぽっかりと開けた平地から見上げられた空はまだ濃紺に染まっていた。


 そろそろ海人たちが漁に出る頃合だろう。


 だが、四丈(約十二メートル)を超える多年草が目立つ森に早朝から足を運ぶ者はトーガのみであった。


 トーガは根森村に住む若者の一人だ。


 年齢は今年で十八歳になる。


 背丈は五尺四寸(約百六十センチ)ほど。


 毎日の漁で筋骨が逞しく育っている海人たちに比べては細身だったものの、着物の袖や膝下までの短衣から覗いていた四肢は余計な脂肪が見られないほど引き締まっている。


 顔立ちは同年代の若者たちに比べて整っているほうだろう。


 細く尖った目眉に桃色の唇。


 艶やかな黒い長髪をうなじの辺りで一房に束ね、着用している衣服は茶地の上から独特の文様が見て取れる芭蕉布で織られた琉装である。


 やがてトーガは眠気を完全に覚ますほど大きく伸びをすると、両の手首をぶらぶらと動かしながら平地の真ん中に立っている一本の木に歩み寄った。


 幹周りが二尺(約六十センチ)を超えるほどの大木だ。


 トーガは右手の掌でそっと大木の樹皮を擦る。


 大木には縦一列に三箇所だけ樹皮が捲れていた。


 トーガと同じ背丈ほどの人間を大木に見立てた場合、ちょうど顔、腹、股間の位置の幹が剥き出しになっている。


「おはよう、今日も俺の鍛錬に付き合ってくれよ」


 もちろん返事など得られるはずもない。


 それでもトーガは想像もつかないほどの樹齢を重ねていた大木に対して親友のような口調で話かける。


 もう十年以上行ってきた自分と大木だけの習慣だ。


 他の人間に見られれば心を病んだ変人と思われても仕方のない行為だったが、トーガ本人は鍛錬をさせて貰うのだから挨拶をするのは当然だと思っていた。


「さて、さっそく始めるかな」


 トーガは身体を左半身にすると両足を肩幅ほど前後に開き、後ろ足に七分ほどの力を入れて膝を軽く曲げる。


 一方、前足は踵を浮かして爪先だけを地面につけた。


 傍から見れば奇妙この上ない姿勢だが、実際にこの猫足と呼んでいた立ち方は非常に強い脚力を必要とする。


 慣れていない者ならば四半刻(約三十分)も経たずに音を上げるだろう。


 加えて前方に突き出した左手は顔を防御するように開手にして固定し、固く握り締めた右拳は肘が腰に触れるように引く。


 次の瞬間、トーガは信じられない行動に出た。


「ぬん!」


 前方に突き出していた左手を脇の位置に瞬時に引くや否や、左拳を引いた反動を利用して腰だめに構えた右拳を大木に向かって突き放ったのだ。


 一度だけではない。


 何度も何度も同じ要領で右拳を捲れていた大木の幹に叩き込む。


 もちろん闇雲に拳を叩きつけているわけではない。


 小指と薬指の付け根を叩きつけて怪我をすると出血が激しく治りも遅いため、叩きつける部位は人差し指と中指の付け根――拳頭と呼んでいた場所で叩く。


 拳頭の骨や皮膚は分厚く大丈夫なので、怪我を負っても治りも早い。


 これこそ正拳突きの鍛錬における大きな特徴であった。


 何百回、同じ動作を繰り返しただろう。


 ほどよく身体が温まってきたトーガは、次にまったく逆の構えを取った。


 そして今度は同じ要領で左拳を幹に向かって突き放つ。


 手加減など一切しない。顔や腹にあたる部分の幹へ全力で拳を打ち込んでいく。


 しかし、トーガの鍛錬は正拳突きだけに留まらなかった。


 拳を握り込んだ状態で甲の部分を叩きつける裏拳打ち。


 掌の手首に近い肉厚の部位を叩きつける掌底打ち。


 肘を折り曲げ、頑丈な関節の骨の部位を叩きつける肘打ち。


 親指を除いた四本の指を真っ直ぐ突き立て、小指の外側から手首までの部位を叩きつける手刀打ちなど、とにかく手首から先のあらゆる部分を大木に叩き込む。


 言わずもがな左右等しく同じ回数をだ。


 他にもトーガは大木から適度な距離を取って蹴りの鍛錬も開始した。


 最初は前蹴りからだ。


 抱え込んだ膝の力を一気に解放する要領で真っ直ぐ蹴る。


 腹と股間の樹皮が捲れて幹が剥き出しだった場所へ足裏の付け根の肉厚な部位――中足と呼んでいた箇所が当たるようにして徹底的に蹴り込んでいく。


 己の肉体を極限まで苛め抜く、常人には理解しがたい過酷な鍛錬の数々だ。


 ただ戦がなくなり平穏な世になった琉球において、トーガのように〈ティー〉の技を磨く者は少ないようで多い。 


 〈ティー〉とは琉球に古来より伝わっていた武術の総称であり、実際に〈ティー〉と言っても足技や受け技、棒術や弓術などの武器術も伝えられていたという。


 ただし現在の〈ティー〉は琉球全土に広まっていた角力(相撲)とは違い、自分の子やこれと見込んだ者のみに伝承された一撃必倒を主眼にした秘術であった。


 そのため〈ティー〉を鍛錬する者は人気のない場所で技を見られないよう十分に注意を払って行わなければならない。


 理由は主に三つ。


 先人たちが編み出した術理を他人に看破されないため、日常に潜む無益な争いに巻き込まれないため、そして〈ティー〉の技は断じて見世物ではないからだ。


 最後にトーガは足の小指の外側から足首までの部位――足刀での蹴りを腹と股間と見立てた幹に左右等しく何百回と蹴り込んで鍛錬を終了させた。


 すでに一刻(約二時間)は経っていただろう。


 さすがのトーガも呼吸を荒げ、徐々に上昇してきた気温も相まって全身からは大量の汗が滲んでいた。


(うん、今日も体調は中々優れているようだ)


 鍛錬を滞りなく行える度合いによって一日の体調を計っていたトーガは、気息を整えつつ数歩分だけ後退した。


 そして大木に軽く頭を垂れる。


「今朝もありがとうな。過度な鍛錬は昼の仕事に差し支えるからそろそろ帰るよ」


 そう言って振り返ったときだ。


 不意に強風が平地に吹き荒れ、前髪が激しく乱された。


 トーガは咄嗟に土埃が目に入らないよう目蓋を閉じて顔面を両手で庇う。


「シカンダー(驚いた)、稀に吹く強い風だったな」


 と、次第にゆっくりと目蓋を開いたときだ。


「何だこれは?」


 トーガは自分の右手に起こっていた異変に両目を瞬かせた。


 右手の人差し指と中指の隙間に、一枚の葉が綺麗に収まっていたのだ。


 今ほど別れを告げた大木の葉である。


 トーガは首だけを動かして大木の樹上を見上げた。細く長い何百枚という新緑色の葉は微風により上下に揺れている。


(まあ、こんな日もたまにはあるだろうさ)


 一拍の間を空けた後、トーガは微笑を浮かべた。


 この一枚の葉は大木から今日も一日平穏に暮らせるよう贈られたのだろう。


 トーガは一枚の葉を懐に仕舞って平地から立ち去った。

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