第3章『大きい花火も小さい花火も、例外なく死にました。』

3-1「四〇一の黄色い壁」

 夏休み初日の空は、咲の期待から外れ、どこまでも薄い雲に覆われていた。そのなかに一部分だけ輝いている場所があるから、曇りの日にも太陽は変わらず活動していることを再認識させられる。よく見ると雲にもムラがあり、薄いところは空の青が透けて見えた。


 長期休暇の課題はいったん後回しにして、この日は有紀との約束を果たすため、十三時を回ったのと同時に家を出た。重量を帯びた湿気が身体に纏わり付き、踏み出す一歩をよりたしかなものにしている。


 有紀との待ち合わせ場所は彼女の家の最寄り駅であり、それは僕の最寄り駅でもあった。同じ街で生活をしているのだから決しておかしな話ではないはずだが、それでも、歩けば届く範囲に彼女が暮らしていることが不思議で仕方がなかった。


『十三時半に駅の改札前で』


 彼女からのメッセージは昨日、アルバイトから帰る途中に送られてきた。おそらく、クラスのグループから僕のアカウントを探したのだろう。


 夏休みの初日という贅沢な肩書きも虚しく、駅のコンコースは閑散としていた。稀に、改札が思い出したかのように決済音を鳴らす。昼過ぎという時間帯のせいなのか普段からこの調子なのか、滅多に電車を利用しない僕には判別が付かない。


 改札から出てくる人たちをぼうっと眺めているうちに、翌週に控えた花火大会のことを思い出した。タイミングを見計らったかのように、掲示板の、「花火大会当日の利用について」と書かれたポスターが視界に映る。


『当日は混雑が予想されるため、乗車時間をずらすなどのご協力を――』


 幼いころ、家族三人で花火を見に行ったことがある。父と母は浴衣で、僕は甚平だった。花火の爆発音が怖くて大声で泣いたことをよく覚えている。父は困惑の混じった笑顔で「わたあめ買いに行こう」と言った。母の顔は思い出せない。


 記憶は上書き保存を繰り返し、現在の母の顔で塗り固められた。


「お待たせ」


 そう言って現われた有紀はオーバーサイズの白いロングTシャツに、黒いワイドパンツを穿いていた。


「周くん、お昼は食べた?」


 食べたと答えると、有紀はいつものヘラヘラした様子で「えー」と言った。


「コンビニ寄っていい?」


 彼女の家へ向かう途中のコンビニで有紀は菓子パンをひとつ購入し、ハムスターのように食べた。その隣を、僕は黙って歩く。


 彼女は、駅から歩いて十五分の、年季の入った団地に住んでいるようだった。敷地内の公園には滑り台や砂場、ブランコが設置されていて、その狭い空間を子どもたちが走り回っている。


 いわゆるママ友という関係なのか、三人の女性が会話に花を咲かせていた。


「E棟の四階。私の部屋ね」


 彼女に続いてエレベーターへ向かうとき、別々の方向から来た二人の中年女性が親しげに挨拶を交わしているのが見えた。そのうち片方はこちらに向かってきて、有紀を一瞥だけして横を通り過ぎていく。いくらかの待ち時間を経て乗り込んだエレベーターは、学校のパソコンルームのような匂いがした。


「無視、なんでずっとしてたの?」


 学校でのことだとすぐに理解した。その場の流れとか雰囲気とか、僕は曖昧な言葉で答えるしかなかった。答えておいて、言い逃れのようだと自分で思った。


 それに対して「へえ」と言ったあと、時間をかけて上昇するエレベーターのなかで、有紀はそれ以上追求しなかった。


「無視されるから、結局私を恨むことに決めたんだと思ってたよ」


 里緒を殺したことについてだろうか。それに関して有紀を恨んだことはない。不思議と、里緒が殺されなかった未来を思い描いたことはなかった。


「そうなんだ」


 有紀が「四〇一」と書かれた部屋の鍵を回すと、ごん、扉から鈍い衝突音がした。続けて引かれた扉から金切り声が上がる。玄関には居酒屋の暖簾に似た、丈の短いカーテンがかけられていた。


「誰もいないから」


 こんな暖簾のある居酒屋で、男と喋る母を傍目に、枝豆をつまんだ経験がある。その光景は、煙草の肺に籠もるような匂いごと脳裏に刻まれている。


「少し散らかってるけど」


 有紀はそう言ったが、「少し」という言葉で表現していいか、迷う程度には物が散乱していた。居間に安地と呼べるような場所はほとんど見当たらない。少し迷って、ダイニングテーブルに着いた。テーブルには何かの請求書と思われる封筒が重なっている。


 リビングの奥には部屋が二つあって、片方の扉は開いていた。窓際の洗濯ハンガーには無造作に下着が吊されている。全体的に洋風で統一されているその部屋で、隅にぽつんと佇む仏壇だけが異様だった。


「そっち、母の部屋ね。で、あれは父の仏壇。こっちに越してくるときに死んだ」


 こっち、という言葉を復唱する。「瀬戸内の出身だから」冷蔵庫の麦茶をグラスに注ぎながら有紀が言った。目の前に置かれたグラスは少し、白く濁っている。僕は一応、世間の風潮に従い、聞いてはいけないことを聞いてしまった、という顔をした。


「別にいいよ、そういうの。父が死んでたおかげで大人たちは適当に理由を付けて、さっさと私を解放してくれたし」


 部屋は薄暗くて、蒸し暑い。道中で失った水分を補充するつもりで口を付けた麦茶は味が薄く、あまり冷えていなかった。


「父が死んでから、母は荒れているんだ。わたしのこともほとんど無視だし」


 ほら、と言って有紀が示した壁には、拳ほどの大きさに凹んだ痕があった。


 意外な共通点だ、と思う。父が早く死に、母親は子に関心を示さない。自分も似た境遇であることを伝えると、「意外な共通点だ」と返ってきた。


「昔はよく殺されそうになった。けど、最近は普通だ。比較的ね。今はもう、互いに干渉しないから」


 ひらり。そんな擬態語とともに、有紀は胸の辺りまで服をたくし上げた。飾り気のないベージュの下着と、彫刻のように浮き出た肋骨があらわになる。左右の肋骨を繋ぐように、一本の線が刻まれていた。


「これは包丁で刺された痕。自分でやったことになってるけど。まあそんなことより、本題だ」


 そんなことよりで済ませていい話題ではないような気がする。


 彼女は僕の正面に腰掛けると、背筋をぴんと伸ばし、机の上で手を組んだ。僕は体勢を変えず、机に腕を付き、猫背のまま彼女の言葉に耳を傾ける。空気清浄機の、低く唸る音が聞こえた。


「わたしは死のうと思う」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る