2-3「殺人を犯した理由」

 眼球の表面がひどく乾燥していた。強く目を瞑り、時間をかけて瞼を開ける。窓の外の、すべてのものが強い光を放っていた。なんとなく雨が降っているような気になっていたので、あまりの眩しさに拍子抜けする。


 母の部屋は扉が開いていて、そこに人の姿はなかった。父の仏壇は正面の扉が閉じられ、上から布が被せられている。一見しただけではそれが仏壇だとわからない。この日の三千円は、低用量ピルと書かれた封筒の下にあった。


 入学から一ヶ月が経ち、ちいさな変化がいくつも起こった。


 学校での対人関係は、僕の意図の外で安定した。いつの間にか、池高咲は僕の呼び方を「新居くん」から「周」に改めている。僕は内山を誠と呼ぶようになり、池高を咲と呼ぶようになった。


 また、通学路も少し変わった。桜並木を通らず、国道を通って直接高架下の道に入れば、登校にかける時間を数分だけ縮めることができる。これは桜並木へ向かう道が工事されていた時期に、その迂回路を模索しているうちに導き出したルートだ。


 ありがたいことに、新ルートの途中にはコンビニもある。昼食を買う必要がある僕にとってコンビニの存在は欠かせなかった。


 学校に着くと、咲はいつも「今日は曇りのち晴れ」とか「今日はずっとこの天気」とか、何かと天気の話題を口にした。それに対して僕が浮ついた気持ちを抑えながら返事をして、始業時間の直前に登校してきた誠が、リュックを背負ったまま会話に参加する。それが朝の習慣になっていた。


 一目惚れと言っていいのかはわからないが、自分の中にそのような感情が眠っていたことに驚いた。同時に、説明可能な感情の枠組みに収まってしまう自分に情けなさを感じてもいる。


「今日は夕方から雨だって」


 この日も咲の言葉から会話が始まった。え、うそ、と僕は返す。「ほんとだよ」胸の内側で笑いを堪えるみたいに咲が言う。


「結局、周はバスケ部、入らないんだっけ」


 教室の窓は開いていて、外からやってくる風で、カーテンが柔らかく膨らむ。


 くしゅん。誰かのくしゃみが聞こえて、それが開始の合図だったみたいに、別の方向からしていた笑い声が増幅した。「えー、なんで入んないの?」ふわり。咲の、肩についていた髪がカーテンのように空気を含む。


 外を見ると、気持ちが悪いくらい澄んだ青空が広がっていた。とても雨が降るようには思えない。


 高校生活では部活に入らず、アルバイトをするつもりだった。生活は一日三千円で充分に成り立っているが、僕には無駄に時間を潰すような場が必要だと思う。


「アルバイトって、していいんだっけ」


 校則を確認するようなことはしていないが、禁止されていたとしても気づかれることはきっとないだろう。咲は目を細めて笑ったあと、「いけないんだあ」、小声で言った。


 チャイムが鳴り始めて、その一拍目が終わったころ、息を切らした誠が教室前方の扉から姿を現した。慌てるあまり扉に肩をぶつけてしまったのか、ばん、という音が教室に響く。


「遅刻だろ」という誰かの笑い声を、誠は「いや鳴り終わってないから」と得意げな顔で否定した。


 彼が騒音と一緒に着席し、チャイムが鳴り終わったころにバインダーを抱えた担任が教室に入ってきた。


 授業はそれほど難しくはないものの、クラスメイトたちは予告なしの小テストに不満を零したり、担当教師の出張による自習に喜んだりしていた。昼休みになれば誠を含めた数人のクラスメイトで固まり、彼らは弁当をつついて、僕はコンビニのパンを口に運ぶ。おにぎりは具の味が強い上に、海苔が砕けて散らばるので好ましくない。


 咲はテニス部の仲間同士で机を寄せていた。


 進んで対人関係を築こうとしなかった僕に昼食を摂るメンバーがいるのは、誠の働きによるものが大きかった。


 身体測定など男女が別で行動をする際、出席番号順で誠は僕の次になる。年度初めはそのようなイベントが頻繁に起こったため、彼と行動をともにすることが多く、さらに彼は誰とでもコミュニケーションを取ろうとするため、こうして間接的に人と関わる機会が増えたのだった。


 当初は、有紀に出会えればそれでいいと考えていた。僕は今後どうやって生きていくべきなのか、有紀はその答えを持っているような気がしていたからだ。


 いつの間にかこのような状況になっていたことに、自分でも意外に思う。里緒が死んでから間もなく二年と半年。有紀からのコンタクトはない。


 考えてみれば彼女と連絡先を交換したわけではないし、互いに住所を知っているわけでもない。共通の知人はもちろんいるだろうが、人気者の同級生を殺害した有紀に返事を送る人間はそういないだろう。


 だからといって、簡単に諦めることはできない。彼女以外に僕を理解してくれる人間は二度と現われない。


 帰りのホームルーム終了後、次回の小テストの勉強でもしようと思い、図書室へ向かうことにした。


 テストの一週間前であれば勉強の場としてよく使われるようだが、四階の端という場所の関係もあってか、普段から積極的に利用する生徒は決して多くない。放課後の、一時的な避難所として図書室は最適だった。


 授業内容に、特別わからない部分があったわけではない。家に帰り、母と顔を合わせる気になれないだけだ。


 今朝は普段なら眠っているはずの母が不在だった。そういうとき、母の仕事は休みである場合が多い。このまま家に帰れば確実に遭遇する。


「あっ」


 図書室へ続く廊下を歩いている途中、聞き覚えのある声がした。重たい首を回し、声の方向を振り返る。石橋が立っていた。里緒の、元親友だ。石橋が同じ高校に進学していたことは、入学したあとに知った。


 目が合った瞬間を境に、彼女の表情はどんどん曇っていった。


「なに」、と石橋が言った。僕が彼女を呼び止めたわけではないし、先に声を発したのは彼女のほうだ。こちらに用があるはずもない。


 頭に浮かんだテキストたちを振り払い、何も、と答えた。石橋は眉間に皺を寄せたあと、黙ったままこちらに背を向けた。


 彼女は里緒の葬儀に来なかった僕を目の敵にしているようだった。有紀との共犯を疑われたこともあったが、それについては否定した。否定しながら、本当に自分は無実と言えるのだろうか、と考えた。


 検死の結果、里緒は首を切られた数時間後に死亡したとみられている。これは当時の報道で知った。それが本当なら僕は救えるはずだった彼女の命を無駄にしたことになる。


 彼女を見殺しにした僕は、有紀と同じ枠組みなのかもしれなかった。


 僕は、里緒が死んだあの瞬間、少しだけ安心してしまっていた。あのままだったら僕は彼女の思いを受け入れ、恋人として生きる道を選んでいただろう。


 彼女を好きになってしまえば、僕は母と同じ道を歩むことになる。人生における軸のようなものを他人に委ねるような生き方は、推奨されていない。


 一方で有紀が殺人を犯した理由を何度も考え、解釈しようとした。確実なことはわからないが、その根本は、彼女自身が口にした「孤独」なのではないかと思っている。


 心に何かの感情が現われても、それをじっくりと紐解いていくと、本当に自分がそう感じているのかわからなくなる。周りの人たちが、本当に嬉しいとか悲しいとか、そういう感情を素直に表現しているとは考えられなかった。


 有紀は僕と同じだ。人と考えや価値観を共有することができず、孤独に生きている。


 人を殺すには大きく感情を動かす必要があるのだと思う。だから、自分が、この世界でたしかに存在していることを認識するために有紀は人を殺したのではないか。


 図書室のドアノブは冷たかった。空は気が遠くなるほど明るい。北校舎と南校舎を繋ぐ連絡通路からは中庭が見下ろせた。そこにいるのは女子生徒がふたりだけで、片方の手に握られた折りたたみ傘を見たとき、「今日は夕方から雨だって」という咲の言葉を思い出した。


 雨具は何も持ってきていない。だからといって、帰宅すれば母に遭遇する可能性がある。どうしようかと考え、結局元の予定どおり図書室へ向かうことにした。


 予定を変えるという行為には、大小かかわらず、自分の未来を丸ごと変えるような決断が求められる。何かが起こるたびにそんなことをしていては、いつか、ひとつの変化に順応するだけで処理落ちしてしまいそうな予感があった。


 図書室にはひとつ、人影があった。


 こんな日に限って、と思う。人影から最も遠い席へ向かう途中、それが咲であることに気づいた。地を這っているような気分が、次の瞬間、ふわりと浮き上がった。

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