⑤
『今日サボるんでよろしく』
今朝七時半ごろ、俺はこのように影沢先生にLINEを送った。母さんに取引を持ちかけてから三日が経った水曜日のことだった。
『どうしたんですか?』『具合悪いんですか?』『もしかして女の子絡みですか?』『修羅場?!』
などと矢継ぎ早な質問が返ってきたが、『好きに解釈していいっすよ』と答え、後はすべて未読スルーしている。
スマートフォンの液晶画面に浮かぶ時刻表示は八時二十分を示していた。俺は母さんの勤める街田市立総合病院の正面玄関口を入ってすぐの総合受付の所の長椅子に足を組んで座り、見るからに甘そうな、クリーム色のパッケージの
見るともなくぼんやりと、おそらくは死んだ魚のような目で正面玄関口の辺りを眺めていると、泣きぼくろの優男、薬研拓巳が疲れた足取りで入ってきた。
ようやくお出ましか。俺はカフェオレを呷り、立ち上がった。
薬研が俺の目的だ。母さんに頼み、病気や主治医、過去の来院日時など、法により第三者提供が制限される彼の個人情報を取得し、待ち伏せしていたのだ。
辛気くさくて加齢臭くさい受付の列の最後尾に並んだ薬研の、以前より少しやつれたようにも見える背中に声を掛けた。「薬研さん、久しぶりっす」
億劫そうというほどではないがやや気怠げに振り返った薬研は、一度雑談しただけの俺を忘れているということもなく一目して、「夏目君じゃないか」と表情を柔らかくした。「どうしたんだい? どこか悪いのかい?」影沢先生と同じことを言う。
「あなたに会いに来たんすよ」俺は、いつもみたいにふざけたりせずに答えた。「受け付けが終わったら少し話せませんか」
「?」薬研は顔に疑問符を浮かべたが、「構わないよ。ちょっと待ってて」と了承してくれた。
がやがやしている不幸面した不健康な声の群れが不快だが、俺たちは総合受付の端のソファーに少し空けて座った。
「悪いっすね」と我ながら殊勝な嘘っぱちを吐いた。
「いや、いいさ」薬研は、受付のカウンターにいる化粧の濃い職員のほうへ視線をやりながら答え、「あの受付の人、僕の中学の同級生なんだよね」と出し抜けに言った。
だから何だ、という気持ちだったが、黙って聞いてやる。
薬研は口元に照れのような微笑を浮かべ、瞳はまぶしそうでもある。「初めて付き合ったのが彼女だった。今でこそあんなケバケバしい感じだけど、当時は地味だったんだよ」信じられる? と薬研は俺を見た。
人は変わらないし、変わる。しかし、首を横に振ってやった。
「そうだよね」と満足そうに小さく言って薬研は、続ける。「それなりに楽しくやれていたと思うんだけど、結局、高校で別々になって連絡も減っていってそのまま自然消滅」
「よくある話っすね」
「まあね。でも、何となく気まずいんだよね」わかるだろう? と同意を求めるような目を向けてきた。
「言いたいことはわからなくはないっすけど、世間は狭いっすから、そういうこともあるっすよ」
薬研は、ははは、と笑うような声を少し洩らした。「そうだね」それから、「これは単なる勘なんだけど」と言う。「夏目君が会いに来たのは、洋ロック好きで髪の短い女の子のためなんじゃないかい?」
俺は少し驚いた。「意外と鋭いっすね。当たりっすよ。ロマンチシズムが邪魔をして感度を鈍くしてると思ってました」
「たまには当たることもあるみたいだね」
「音海さんは婚約を破棄された本当の理由を、会って直接聞きたいそうです」眉を曇らせた薬研に俺は尋ねる。「会社の新人の子に目移りした、そう説明したらしいっすね」
「秋帆、やっぱり疑ってる?」
「ええ、そりゃもう」と首肯し、そして俺は静かに問いかけた。「嘘なんすよね?」
「……」沈黙。薬研は更に眉間の雲を厚くし、たいそう苦い粉薬を口に含んだような顔になっていた。「君はもうすべてわかっているみたいだね」
「予想はついてますけど」と答え、確かめるべくその内容を口にする。「薬研さん、あなたは根治の極めて困難な、例えばステージⅣの腎細胞癌になってしまっていた。そして、思ってしまった。十年後に生存している可能性の低い、それどころか一年後に生きていられるかもわからない自分では彼女を幸せにできない、重荷になり嫌な思いをさせるだけだ、と──で、それっぽい適当な理由を告げて別れることにした」
「……」
「あとはまあ、弱ってるところを見せたくないってのもあったんすよね、たぶん」おそらくは、あの厚化粧の女に対してもそうであるように。
女は弱ると人に近づきたがり、男は離れたがる。
本当、人間ってのは美しくできている。目的論的な神の存在証明──神がデザインしたからこその完成度だ、したがって神は存在している、との主張が一定の支持を集めているのもうなずける。
「その質問にイエスと答えたら、君はどうするんだい?」薬研は往生際悪くも尋ね返してきた。
「音海さんの願いを
一時の沈黙、そして観念するように、「はあ」と溜め息。「君の言うとおりだよ。彼女に失望されるのが怖くて僕は逃げ出した」薬研はそれを認めた。「夏目君は、跡を濁して飛び立とうとした僕を軽蔑するかい」
「いいや」俺は否定した。「他人の生き方、この場合は死に方っすね、そういうのにとやかく言うつもりはないっすから」
「じゃあ見逃してほしいな」薬研はやはり潔くない。
「ただし、依頼人が望む場合はこの限りではない──ってね」
「そう、だよね……」薬研は非常に気が進まなそうだった。しかし、「わかった、ちゃんと説明するよ」と。
そうして、俺は病院を後にした、
「夢見がちなロマンチシストらしく、か細い勝ち筋を信じてみたらいいんじゃないっすか」
と無責任に、あるいは残酷な言葉を言い残して。
後日、音海からLINEが来た。
『わたしが合コンに行ったことはしゃべってないよね?』
『しゃべられたくなかったら早く抹茶スイーツ奢りやがれ』
『ごめん、やっぱり二人きりで会うのはちょっと善くないかなって』
『これって詐欺じゃね?』
『笑笑笑』
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