③
予想どおりといえば予想どおりなんだが、明くる日曜日の夜にも音海からLINEが来た。
『昨日はありがとね』から始まり、『今、大丈夫~?』と来て、『まあたぶん』と俺が返すと、『やた! じゃあお姉さんの相手してくれるよね~?』
そしてすぐに、『今日さ、学校の子と──』と友人らしき者と買い物に行ったという日常報告LINEをかましてきやがった。
めんどくせえな、と俺は辟易とした気持ちが湧いていた。なので、『俺、テスト勉強しなきゃなんで』と音海の話をぶった切るように送りつけた。言うまでもないが、テスト勉強なんかしていなかったし、する予定もなかった。
『えー、嘘くさー』というメッセージが間髪を容れずにポンと表示されたが、『また後で話そうね』と続き、しつこくするつもりまではないようだった。
次の月曜日には、『朝陽君の言ってた抹茶スイーツ食べてきたよー』『めっちゃおいしかったー』と
『スタンプのセンスどうにかしてくれ』とだけ返信しておいた。
火曜日は、『この猫、絶対、中におっさん入ってるよね』と街で見かけた、後ろ肢を前に投げ出して疲れきったおじさんのように座る、いわゆる〈おじさん座り〉の三毛猫の写真が送られてきた。これは午後の授業中のことだったんだが、ボス猫だろうか、あまりにふてぶてしい顔つきのおじさん座りに、俺は失笑してしまった。
数学教師やクラスメイトが訝しむ視線を向けてくる中、ルナの画像用フォルダから、騙されて動物病院に連れていかれるもその建物を見てすべてを悟った瞬間の、驚愕と絶望と諦念に染まったルナの顔の画像を送りつけておいた。
この時点で音海が本気で俺を狙っていることは察していた。しかし、その性愛をそのまま信じることはできない。たいした関わりがなくとも、生理的に無理! というのとは逆に理屈ではなく性の本能が
だが、俺はこの謎めいた女を遠ざけようとは、それほど思わないようになっていた。無論、うざいLINEにほだされたわけではない。現在、何の依頼も抱えておらず暇だったからというのが一つと、そして半端に提示された謎の真相を知りたいという好奇心がその理由だった。
俺は態度を軟化させた。最初よりは小まめにLINEを返すようにしたのだ。音海も、文面のうえではという前提でだが、楽しそうにしていた。
そうして金曜日になると、少子化の加速で内心焦りはじめているだろう実質Fランのヤリマンカス私大にはやはりヤリチンカス教授しか在籍していなくて退屈なのか、またしても真っ昼間の授業中にこんなLINEが来た。
『ねえねえ』『低音のコツとかってわかるー?』
そして我が泡高にも俺にとって意味のある授業をする有益な教師は存在していないので、すぐに返信した。
『リラックスして喉開いて息をちょうどよく流しつつ声帯を調整しつつ胸に響かせるだけ。でも、低音は才能だから限界ある。無理せず自分に合ったキーで歌ったほうがいい』
他方の高音は、才能による限界は当然あるが、例えば十年以上歌のことを最優先にして一心にボイストレーニングに打ち込みつづけるなどの平凡で地道な努力でカバーできる。この点から素の地声が男みたいに低い女のほうが音域に関しては有利と言えるのだが、音海はソプラノ適性の高そうな声質だった。しかし、
『諦めたくないのだ』と来た。そしてついに、『朝陽君、今度教えてよ』と誘いのメッセージ。
直接会ってもっと深く探り、もってその心理を
『お主に教えることはもうない。免許皆伝じゃ』
と返した。すると案に相違せず、
『そんなつれないこと言わないでー。お姉さんにコーチングしよ? カラオケ行こ?』
と言う。
なので予定どおり、『ロハじゃあ聞けないっすね』と解決案を示してやった。
『もう~仕方ないなあ。ちゃんと教えてくれたらスイーツ奢ってあげる』
やはり意思のある玩具を思いどおりに操作するのは心地よい。俺はほくそ笑み、しかしまだいけるだろ、と判断し、『もう一声、カラオケ代も』と打った。
と、後ろから声がした。「また女性に奢らせるんですね」
少し前に行われた席替えで斜め前の席になった春風が、振り向いた。今度は何してんのよ、と問うている顔つきだったがそれには答えず俺は、首をねじって後ろを向いた。スマホを覗き見たらしき影沢先生が、あきれるでも怒るでもない平らかな目で俺を見ていた。
俺は肩をすくめた。「将来のための職業訓練っすよ」
影沢先生は訝しむように眉根を寄せ、「ホストにでもなりたいんですか」なんて、あながち間違いとは言いきれないことを言う。
日曜日に音海のマンションの最寄り駅で待ち合わせということになった。当日になると俺は湿った曇り空の下、電車に乗り、きっかり十分前にそこに到着した。
もう着いているという音海を捜して歩いていると、目視はできるが会話するにはいくぶんか遠い距離で目──今日の彼女は眼鏡をしていなかった──が合った。すると彼女はうれしそうに相好を崩し、小さく手を振った。その〈うれしそう〉の仮面の裏には何があるのか、はたまたがらんどうの何もない意識空間がひたすらに広がっているだけなのか早く知りたいものだ、と思いつつ片手を上げて応えた。
音海の左手薬指は、今日も寂しそうな肌色のリングをさらしていた。
「早いっすね」が俺の最初の言葉だった。
「そうかな、こんなもんじゃない?」音海が返した。「あ」と、それから少しだけ悪い笑みを浮かべ、「早く会いたくてって言ったほうがよかった?」
「どっちでもいいっすよ」
「少しくらいは照れてくれてもいいんだよ?」
「ワーハズカシーナー」
デートするための口実だとわかってはいたが、だからといって歌うのが嫌なわけではないので、LINEで話していたとおり低音を教えるためにカラオケ屋へ向かった。
音海が予約していたのは合コンの時より一回り小さい、薄いソファーのある部屋だった。
「ちょっと寒くない?」入室するなり音海は、ノースリーブボーダーから生えている白く細い肩をさすりながら言った。
どうして女という生き物は自分から脱いでおきながら室温に文句を言うのか。
しかしそれに苦言を呈しても詮なきこと、俺はエアコンの設定温度を上げた。フライドポテトを注文し、まずはこちらから歌うこととなった。
『
「秋帆さんも上手いほうだと思いますよ」建前を忘れたわけではない俺は言う。「別に原キーにこだわらなくてもいいんじゃないっすか」
「ううん、そうかなあ」音海は小首をかしげた。「でも、原キーのほうがかっこよくない?〈できるファン〉って感じしない?」
「〈できるシンガー〉は自分の音域で魅了してくるもんっすよ」
「もー」音海は、控えめながら確かに品を作った声音で応えた。「ああ言えばこう言うの禁止ー」
もー、ふにゃふにゃするの禁止ー、と女声で言い返そうかと思ったが、その台詞を吐く自分を想像して、割とマジでキモいな、と思いとどまった。
くすっと音海は少し違ったニュアンスの笑み──大人の余裕つまりは年下だからと相手を侮る傲慢の音を含んでいるそれを零した。「そんなに警戒しないでよー」彼女の真意を探ろうという思惑が外側ににじみ出てしまっていて、彼女にはそう──ライオンにおびえるシマウマのように見えていたのだろう。「いきなりハードなことはしないって」と続けた。
「その言い方だと最終的にはハードなあれこれもするってことじゃん」
「それはまあそうよね」音海は何でもないことのように首肯した。「リスクが低く、かつ十分なリターンがあれば人を殺しますか?」と問われたサイコパスが、「何を当然のことを」と答える時もこんな顔をしそうだ。
「こえー」俺は応えた。「自分、チェリーなんで優しくない人はちょっと無理っす」
「えー、嘘ー」音海は普遍の黄と欲望の赤が混ざったような、つまりは
「正直──」者っすから、と言いかけたところで俺のスマホがLINEの通知音を鳴らし、その言葉を胃に押し戻した。
見てもいいよー、と音海は言ったが、
「いや、いいっすよ」と俺は答えた。「後でで大丈夫っす」
「ふうん」音海は
気のせいっすよ、とペラい誤魔化しを口にしようかと思ったが、意味ねえな、と、「まあだいたいそんな感じっす」と認めた。
ふふん、と音海は勝ち誇った顔で、「素直でよろしい」と言った。「それで、彼女さんには今日のことは何て言ってきたの?」
「予定がある──みたいなことは言ったかもしれませんね」
「女の子と会うとは言ってないんだ?」音海の目と唇が、闇に浮かぶ三日月のように妖しく湾曲していく。
「まあそうっすね」俺は、熊に遭遇した不運な登山者のように横長のソファーの上をじわりと後退して距離を取った。
「なあんだ」しかし音海はニマニマしつつ、「朝陽君もその気だったんじゃない」ひたひたと寄ってくる。体温の香りと少し濡れた息遣いが伝わる、かすかに触れる位置まで来てようやく彼女は止まり、腰を落ち着けた。上半身を少し傾けるようにしてこちらを見て、「どうする? もう、できるとこに移動する? それとも、もうちょっと歌ってからにする?」
視界の端に指輪焼けがあった。
「……一つ聞いてもいいっすか?」
「なあに?」
「その左手の指輪焼け、どういう意味っすか?」
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