俺に降りてきた妙手、それは、

〈七条雪芽アイドル化計画〉

 である。

 先日、街田市立総合病院で知り合ったじいさん、九重英一は東証一部上場企業を経営している。そして、見舞いに訪れていた二十代らしき女は、薬研曰くアイドルだという。

 つまり、九重の会社はアイドルビジネスを行う芸能事務所を運営している可能性が高い。そうでなかったとしてもコネクションがあるのは間違いない。俺はそう考えた。

 確認のためにスマホで検索してみると、大当たり──ごりごりにアイドルビジネスを展開しているようだった。

 であれば、九重に七条先輩を上手く売り込むことができれば、彼女を芸能界にねじ込むことも不可能ではないはずだ──否、先輩のポテンシャルを考慮すると勝ちは確定している。年齢、ルックス、スタイル、家柄、歌唱力(の才能)、偏差値、運動神経──完璧だろう。粗を探すほうが難しいレベルだ。むっつりクソレズというのも商品アイドルとして都合がいい。男関係のスキャンダルのリスクがないからだ。管理する人間からすれば垂涎すいぜんの逸品だろう。

 他方、七条先輩には、アイドルだから結婚どころか男女交際すら自重しなければならない、という大義名分を提供できる。誰かの理想──偶像を演じるのが得意みたいだから適性もあるはずだ。好きでやっているわけではないのかもしれないが、仕事なんてそんなものだろう。好きなことをやって生きていけるなんてのは、神を必要としない超人にしか許されない。拷問され、路傍にぶちまけられた吐瀉物としゃぶつと大差ない猟奇的な死に様をさらしても全世界の0.000002%にも満たない人しか悲しまないような畜群ちくぐんには、文句垂れながら送る無意味でカスみてえな一生こそがふさわしい──ま、七条先輩には1%ぐらいには認知される少しばかり派手な畜生メスブタになってもらうんだが。

 さらに、政治家をしている七条先輩の親父さんにもうまみはある。娘を人気アイドルにできれば自身の知名度向上に役立つし、彼女の口から大衆受けする親父さんとのエピソードでも語らせれば、父娘揃って、最も数が多く操作しやすい低能ミーハー連中の好感度を稼げる。すなわち、得票数の増加である──この実利主義的な説得は奏功し、あるいは娘への情もあったのだろう、親父さんも、快諾とはいかなかったようだが折れてくれたようだった。

 最後に、これが一番重要なんだが、かまちょ不具じじいの会社から紹介料をせしめられる可能性さえあるのだ。

 つーわけで、じいさんの名刺にあったアカウントにメッセージを送ったところ、

『ほう、非常に興味深い話だな。では、事務所の者に話を通しておこう。』

 と遅滞のない返信が返ってきた。商機は絶対に逃さない! というがめつい意志を感じた。

 そして、そのおよそ三分後、

『所長に連絡したが、一度会って話したいそうだ。都合のいい日時はあるか。』

 と来た。仕事が早すぎて少し引いた。

 恐ろしいスピード感でトントン拍子に話が進み、俺と七条先輩は、九重の会社が運営する女性アイドル専門の芸能事務所、〈マリアプロダクション〉の色部いろべ竜児りゅうじなる人物との待ち合わせ場所へ向かっていた。

 この〈マリア〉は聖母のほうだけではなく娼婦のほうをも表すダブルミーニングになっているそうだ。欲張りじじいには、〈二兎にとを追う者は一兎いっとをも得ず〉という大変ありがたいことわざを送りたい。

 二十三区内の某駅近くにある全席個室の寿司屋すしやが目的地だ。和風モダンとでも言うべき、木の自然な色合いとシックでシティーライクな黒が調和したデザインの門構えの店だった。たぶん高い。奢りじゃなかったら敬遠する。

 という印象だったが、七条先輩は面接のほうに意識──不安が集中しているようだった。入り口の前で固まっている彼女に、

「ホント、肝が据わってないっすよね、七条先輩は。ヒヨってもいいことなんてないっすよ」

 と軽い言葉を掛けた。

「いやしかしな、これは実質オーディションなわけで──」

「四の五の言ってないで、ほら、行くっすよ」と幼児をあやすように言い、手を引いて暖簾のれんをくぐった。

 色部は、病院に来ていた五十歳ほどに見えたあの男だ。彼の浅黒い肌はエネルギーに満ち満ちていて、濃密な現役感をまとっていた(ナチュラルに身体を要求してきそう)。そんな彼は七条先輩を見ると、

「社長から『アイドルにしたい少女がいる』と急に言われた時はいくら積まれたのかと勘繰ったが、こいつはなかなかどうして」

 と獲物を見つけた猛禽類もうきんるいのように目をぎらつかせた──七条先輩はびくりと震えていた。

 さあ、セールストーク開始だ、と舌を躍らせる。

「自信を持って断言できます、この七条は必ず売れます。見てください、この十全十美じゅうぜんじゅうびな顔とスタイル」ここで七条先輩を立たせて犬のように回らせた──先輩は従順ではあったが若干頬を膨らませていた。「アイドルはもちろん、モデルや女優もいけますよ」

「ふうむ、身体も悪くない。グラビアメインでもやれそうだな」色部は顎をさすり、応えた。

「ええ」俺は神妙にうなずいた。「僕たちの高校ではミスコンがあるのですが、その時の水着姿も大変魅力的で校内でバズっていました」す、とスマホを出し、某猿から入手した水着画像を見せる──七条先輩は恥ずかしそうにうつむいていた。「どうです? 母性的かつ官能的、しかし年端の行かぬ少女のように無垢むくでもある。まさに御事務所の理念に合致します」

「いいね」色部は不躾ぶしつけな視線で七条先輩を見て、「うむ、実に脱がし甲斐がいがありそうだ」などと時代にそぐわぬセクハラ発言──七条先輩は理不尽にも俺の背中をつねった。が、気にせず続ける。

「さらにですね、彼女は歌唱力もあるんです」

 色部はこの情報にこそ目の色を変えた。

 推し量るに、歌を売りにできるタレントが不足しているからだろう。調べたところによると、以前病院で見た女性が長年マリアプロダクションの歌唱力担当だったようだが、二十代も半ばということで引退──アイドル業界では卒業だったか──する予定だそうだ。

 吊り上がりそうになる口角を抑えつけて俺は言う。

「彼女には歴史あるカラオケ大会で圧倒的大差で優勝した実績があります。僕もたまたま観客として聴いていたのですが、まさに独擅場どくせんじょうといった具合でした」

 準優勝の俺との決勝戦での点差は二点もなかったし純粋な観客でもなかったが、真摯な表情を繕って目を見てはっきりと断言した──七条先輩は、「えっ」と小声で零していた。

「その時の選曲はかの名曲『天城越え』。けっして付け焼き刃で歌いこなせる歌ではありません。彼女は間違いなく〈本物〉ですよ」

「──すばらしいね」色部は軽快に言った。「その言葉が真実だとしたら、雪芽君と言ったか、君は我が事務所の救世主になりうる逸材だ」

「あ、ありがとうございます」七条先輩は恐縮したように縮こまって頭を下げた。

「では──」

 俺が期待の眼差しを送ると、色部は委細承知とばかりに首肯した。「すぐに本格的な実技審査を行おう」

「ありがとうございます」誠実に聞こえるように俺は言った──その後ろで七条先輩の不安そうな、「ありがとうございます」

「何、審査といっても心配はいらない」色部は七条先輩に言葉をやる。「雪芽君なら歌やダンスが駄目でも戦える。社長の推しでもあるから契約締結自体は現時点でもほぼ確定している。ただ、どうプロデュースするかを考えるためには君のことをもっと知らないといけないんだ──わかるだろう?」

「はい、それは承知しております」七条先輩はアナウンサーのような聞き取りやすい発音で答えた。「しかし、初めてのことだらけで緊張してしまいまして──気を遣わせてしまい、申し訳ございません」

「ははは、初々しいねえ」色部は目を細めた。

 そして、かったりぃ話が終わると、俺はつぶ貝を口に運んだ。ランチで二万円もするだけあってうまいが、俺はチェーンの回転寿司でいいかな。



 二日後、実技審査は滞りなく終了し、七条先輩は晴れてプロダクション契約を締結した。

 さて、ここからが俺にとっての本番だ。すなわち、銭闘せんとう開始である。

『前に言っていた紹介料の件だが』スマホの向こうで九重が言った。『七条君の容姿と歌唱力を高く評価し、また夏目君への感謝を示す意味でも三百万円を支払いたいと考えている』

「またまたご冗談を」俺は朗らかに威嚇する。「彼女の価値はそんなに低くないでしょう?」

『ほう、わたし相手に価格交渉をしようというのか』不敵な笑みを浮かべていることを物語る倨傲きょごうな口調だった。『いいだろう、少し遊んでやろう』

 例の違法ゲロ、鯖の味噌煮フレーバーのチョコミントラテを一口吸い、

「それではお言葉に甘えて──一千万円を要求させていただきます」

『──はっ』鼻で嗤う声。『いくら何でもそれはボリすぎではないか』

「俺はそうは思いません。一つ、彼女には、いえ、俺たちには選択肢があります」

『……どういうことだ』九重の泰然とした心の水面に懸念の波紋が静かに広がる、そういう気配。

 その中心にコンクリートブロックを投げ込むように、

「すでにご存じかと思いますが、彼女はあの七条家の人間です。華族はその制度が廃止されてもなお、互いに強い繋がりがあります。そして、釈迦に説法で恐縮ですが、旧華族の人間は芸能界にも少なくありません。俺の言いたいことはわかりますね? 十分な報酬を頂けないようなら、御事務所と競合する芸能事務所に彼女を鞍替くらがえさせることも容易い──もう一度だけ申し上げます。一千万円、これが適正価格です」

 公園唯一の遊具である、みみっちい砂場で遊ぶ少年が不思議そうに俺を振り向いたが、すぐに砂遊びに戻った。

 以前リサ先輩と遭遇した公園のベンチで俺は電話していた。人けも疎らで防犯カメラもなく誘拐犯も大満足のここは電話にも最適で、学校から解放されるなり近くのヘブンに寄ってから訪れたのだ。

『──くっくっくっ』受話口から聞こえてきたのは楽しげに喉を鳴らす音。『なるほど、やはりわたしの目に狂いはなかった。すばらしいハッタリだ』

「ははは、自虐ネタがお上手でいらっしゃる」

『ははは、盲目ギャグだよ。わたしの鉄板ネタさ』

 石を投げ合うように空々しい笑い声を交わし──やにわに九重は転調した。『七条家の人間の気質は知っているかね?』

 あ、駄目だこりゃ、と悟り、「……」俺は二の句を諦めた。

『彼らは皆、あまりにも生真面目だ。参議院議員の父親もその彼の父親もそうだった。その血は確実に雪芽君にも流れている。彼女の性格からいって信義則しんぎそくに反するような急な契約解除や事務所移籍を認めるはずがない。父親だってそんな非行は当然許さない──したがって、夏目君の発言は単なる虚言と解釈するしかないんだよ』ふ、と九重は父権主義的な上から目線の微笑を吐いた。『しかし、その度胸と口八丁は評価に値する。四百万までなら出してやってもいいぞ』

「わかりました、では別の話をしましょう」悪いがもう少し付き合ってもらう。「七条雪芽の精神はある種の危うさを孕んでいる──それにはお気づきですか?」

『さてな、年頃の娘さんだ、誰しもそういう部分があってしかるべきなのではないか』

「いいえ、彼女の場合はそんなレベルではありません。神が、広範な才能と水際立った美の代償としてそうしたのか、彼女の心は極端な〈べき思考〉に支配されています。先ほどの七条家の気質とも重なるところではありますが、これは簡単に言えば〈バチクソに不器用でハチャメチャに頑固者〉ということです」

『そういう人間もいるだろう。特段不思議なことではない』

「ええ、ええ、おっしゃるとおりです」と追従めいた言葉を送り、「ところで、彼女は臆病でもあります。これは、病的な完璧主義ゆえの失敗することへの強い恐怖だけが原因ではなく、彼女の心に深く根を張る人間不信ぎみの性質もその一因なのです。しかし、幸運なことに俺は彼女に気に入られています。その理由は割愛させていただきますが、彼女は俺の前ではぐうたら地雷女の素をさらけ出してくれますよ」

『何が言いたい』わかっているだろうに九重は問うてきた。

「シンプルな話です。俺なら彼女を操れる。無論、七条の気質による制限や技術的な限界はありますが、例えば彼女が御事務所の方針と対立した際には、そちらに都合のいいように誘導することもやぶさかではないと申し上げているんです」

 これは、裏を返せば対立を煽ることも可能だということ。

 事務所とタレントの通常の力関係ならこんな調子に乗った対等な交渉は、まずできないだろうが、歌唱力のあるアイドルが喉から手が出るほど欲しい事務所の状況と七条先輩のカタログスペックが奇跡的に噛み合っている今なら成立してしまう。

 価格交渉は対話ではない。もっと原始的な力のぶつかり合いなのだ。

 砂場の少年が自身の力作であるところの歪な砂の塊──何かのキャラクターか?──を蹴飛ばし、いずこかへと消えていくと、

『……なるほど、どうやらわたしは君を見誤っていたようだ』九重は言う。『君は優秀な駒などではなかった。冷徹かつ冷酷に人を利用する独裁者だ』

「いえいえ、滅相もないことでございます。そのような大それた存在ではありません。俺なんてどこにでもいる凡人ポーンにすぎませんよ」

『そうかね、君がそう言うならそういうことにしておこう──話を戻そう。紹介料だが……』一呼吸分の間を空け、九重はそれを口にした。『五百万出そう。今回はこれが上限だ。これ以上の反論は受け付けない』

 よし、と内心喜ぶ。が、声音はクールに、「満額ではない理由を教えていただけますか」

『君は七条雪芽を操作できると言ったが、ダーティーな手段をいとわなければわたしたちにだってその程度は可能だ。したがって、君の、さながら「北風と太陽」の太陽のような人心操作に頼るメリットは汚れなくてすむということしかないのだよ──とはいえ、汚れはリスクだ。商品の劣化を早めもする。最近は無責任な大衆の監視が過熱しているから特に、クリーンなままでいられるならそれに越したことはない。その点は誠実に評価すべきだ。以上から要求の半額が妥当と判断した』

「──わかりました」目標金額を達成したのだからこれ以上は時間の無駄だ。色気は出さずに引くべきには潔く引く。「その判断を受け入れます。お時間頂きまして感謝いたします」

『いや、わたしも楽しかったよ。若者とのゲームはやはりいい。若返ったと錯覚できる』

「いい加減死んでも後悔はねーんじゃねーの?」

『はっはっはっ、やはりそちらの口調のほうが君らしいな。違和感しかなかったぞ?』 

「うるせーでございますよ、強欲クソジジイ」

 通話を終了すると、

「ぐうたら地雷女で悪かったな」

 と隣に座る七条先輩が口を開いた。むすりと不機嫌そうに、ということはない。

「何のことっすか?」

 俺は空とぼけてラテに口をつけた。やはりクッッッソまじぃ。人が飲んでいい物ではない。

「いくらむしり取ったんだ?」七条先輩が尋ねてきた。

「七条家の人間からすればほんの目腐めくさがねっすよ」

「旧華族といっても富豪というわけではないんだが」七条先輩はぼやくように言ってから、「君には感謝している。だが、今の電話を聞いてしまうとその気持ちも消えてしまいそうになるよ」

「そんなもん消えてもいいっすよ」目の高さまで持ち上げたラテを揺らし、「貰うもん貰えたら俺はオッケーなんで」

 わずかばかりの空白の後、「ふふ」と七条先輩はほほえんだ。

「何すか」

「ありがと」

「いーえ」

 このまばゆいほほえみは、さて、どれほど稼ぐのだろうか。〈泡高一〉が〈日本一〉になる日が来てしまうのだろうか。クソレズトップアイドルが爆誕してしまうのか。

 そんなことを思って、しかしラテを欲望のままに大きく吸い込むと、脳内報酬系が活性化して頭蓋が爽快な幸福感で満たされ、すべてどうでもよくなった。あへあへ~。

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