桜・幕間二話 The Sickness Unto Loneliness

 夏目君とは、たまに話すようになった。

 けれど、ほかの子とは相変わらず。ビーちゃん以外からは、こちらから話しかけても授業や行事で最低限必要な言葉しか返ってこない。例外とはいってもビーちゃんだって意地悪してくるときにしか寄ってこないのだから、無視されるのよりもたちが悪い。

 でも、いいの──嘘。本当は全然良くない。グループを作らなきゃいけないときにいつも最後まで残されるのは悲しいし、休み時間に一人なのは寂しいし、みんなの心の中を想像するとどうしようもなく苦しい。

 ──でもいいんだ。良くないけど、いいの。たまにではあるけど夏目君と話せるから。

「夏目君は、カーリーの新曲、聴いた?」

 わたしは尋ねた。会話が途切れることを恐れてがんばって話題をひねり出したのではなく、自然と出てきた問いだった。

「聴いたよ」夏目君はぶっきらぼうに答えた。

 廊下を喧騒けんそうが駆け抜けていく。窓から見下ろせるグラウンドでは男子がサッカーをしている。

 わたしと夏目君は、誰もいない昼休みの音楽室にいた。

 友達のいない教室はうるさいだけの静寂の空間だ。そんな所で一人で口をつぐんでいると、頭の中でネガティブがエコーしつづけてしまい、やっぱりつらい。だからわたしは、逃げ出して当てもなく廊下を歩いていた。

 すると、音楽室の中に一人分の影を見つけた。それが夏目君だった。特に音を出していたわけではないのに、彼はドアの所から中を覗いているわたしに気づいた。目が合い、わたしはドアを開けていた。

 そして、影は二人分になった。

 夏目君にとってはどちらでもいいことなんだと思う。一人きりだろうがわたしが隣にいようが、彼の世界は揺るがない。わたしが入っていった時にもまるで変化しなかった気怠げな瞳を見ているとそう思う。

 悲しい。切ない。なのかな。この気持ちは。でも、教室にいる時のように孤独に凍えることはない。不思議な感覚。

「夏目君も、かわいいと思うの? カーリーの歌」

 カワイイ! なんて感情が夏目君の心に収録されているようには思えないし、乙女心全開のカーリーの歌に共感しているところも想像できないけれど、そう尋ねていた。

 スマートフォンに固定されていた倦怠感けんたいかんに満ち満ちた夏目君の視線が、ちらとこちらを向いた。

「かわいいっつーより疲れる。色恋に浮かれる女を外から眺めてても苦笑いしか出てこねえよ」

 くすりと笑みが零れた。何というか、予想どおりの感想だった。

 何? と夏目君がまた、わたしを見た。

 ううん、何でもない、と小さくかぶりを振った。

「それなら、疲れない歌を、教えて」

 ──あなたのことを教えて。めんどくさそうな顔しないでよ。知りたいの。どんなことだっていいから。ねえ、聞かせて。

 メロディーが聞こえる。小さな声で誰かが歌う、かわいいストーリーが──。



 梅雨入りしたというお天気お姉さんの言葉は嘘ではなかったらしく、外はしとしと、バケツを満杯にするには少し時間の掛かりそうな弱気な雨が降っていた。

 昇降口の所から空を仰ぎ見た。重々しい灰色の雲がどこまでも続いていた。

「……無理そう」

 わたしのつぶやきは、べたべたした風にさらわれて誰にも届かない。 

 授業が終わり、帰ろうと上履きを履き替えて傘立てを見たら、わたしの水色のミルキートーンの傘がなくなっていた。

 誰かが間違えて持っていったのかもしれない。特徴的なデザインだけれど、持ち手にはイニシャルを書いたマスキングテープを貼っていたけれど、そういうおっちょこちょいな子もいるはずだ。

「……」

 ──ビーちゃんなのかな。

 理屈じゃなく直感はそう言っていた。でも、証拠なんてない。それなのに決めつけるのは、いかにもスマートじゃない。

 わたしの両親は共働きだ──部署は違うけれど同じ会社で働いている。今日も遅くまで仕事だろう。電話して迎えに来てもらうことはできない。

 天気予報によると今日はずっと雨。待っていても事態は良くならないだろう。

 そうなると、選択肢は一つしかないように思われた。つまり、走って帰るしかない、雨の中を。

 ちらと夏目君の顔が頭をかすめた。

 少女漫画だったらこういうときには傘を持ったヒーローがどこからともなく現れ、仕方ないな、と言って相合い傘を許してくれる。そして、若者の恋愛離れを嘆いた恋の神様のテコ入れにより何らかのイベントが起こされ、二人は急接近──、

「はあ」

 虚しい空想は溜め息になり、しけった空気に消えていった。

 そんな都合のいい事あるわけない。現実は一人で何とかすることを要求する。おっかない虫が出たときも荷物が重くて手が痛いときも頼れるのは自分だけということのほうが多い。

 今回もきっとそうだ。

 最後にもう一度、綿菓子のようにふわふわしていて甘くて恥ずかしい期待を抱いて下駄箱げたばこの奥へ視線をやり、それから雫の舞台へと駆け出した。



「三十七度六分……」それはそうか、と息をつく。

 ずぶれで帰宅した、その翌朝、頭の中で小人たちが工事をしているようながんがんと響く乱暴なモーニングコールで目を覚ましたわたしは、体温計を引っぱり出してじっとりと汗ばむ脇に挟んだ。

 ピピ、と電子音がして体温計を確認すると、ぎりぎり微熱と言えないような、でもがんばれば微熱と言い張れなくもないような、微妙な数字が表示されていた。

「何度だったー?」

 キッチンにいるお母さんの声が、ソファーに座るわたしの所まで飛んできた。遅れて足音が近づいてきて、お母さんの本体も来た。

 お母さんはチャコールグレーのパンツスーツにストライプ柄のブラウスを着こなし、デコルテにはバーモチーフのペンダントが控えめに輝いている。

 かっこいいな、といつも思う。スーツもペンダントも憧れてしまう──けれど、今は脳がふやけていてそれどころではない。

 体温計を渡すと、お母さんはわたしと同じ反応をした。「微妙ね、すごく──どんな感じ? 病院行ったほうがよさそう?」

「ううん、大丈夫」首を振ると、明日はパーマ風にしようと思って寝る前に結った三つ編みも釣られて左右に揺れた。「たぶん風邪薬飲んで寝てれば治るよ」

 病院に行くのは億劫おっくうだった。それに、お父さんやお母さんに仕事を休ませるのも気が引ける。そんなにひどくないなら市販薬で何とかしたい。

「ううん」とお母さんは悩む仕草をしたけれど、「わかった。じゃあ、今日は学校はお休みしてうちでおとなしくしてなさい」

「うん」

「一人で大丈夫そ?」

「大丈夫だよ、これくらい」と苦笑を作る。「心配しすぎだよ」

「そう?」

 疑わしそうな黒い瞳に言う。「たいしたことないって。気にしないで仕事行って」

 結局、お父さんとお母さんは、体調が悪化したらすぐに連絡するように言いつけ、二人揃って仲良く会社へ向かった。

 言われたとおりベッドに潜り込む。熱い。怠い。痛い。



 午後になっても体調は楽にはならなかった。食欲もない。何かをする気力もないけれど、ベッドから見る景色にも飽きていた。頭痛い。

 平日昼間の住宅街は、しんと静まり返っている。人けが感じられなくて寂しい──あっ。

 寂しさを意識してしまった。目を逸らそうとしていたのに。失敗した。その事実を認めてしまうと、孤独の暗がりは無限の広がりを見せる。

 その闇と熱で弱っている身体は、赤と黒みたいに相性抜群だ。漠然とした不安が胸の中を駆け巡る。熱くて寒い。秒針の音が耳に障る。

 動画でも観ようかな。気が紛れるかもしれない。スマートフォンに手を伸ばした。



 遠くで鳴っているのは何の音だろう。まどろみの中で考え、

「──?!」

 はっと気づいた。動画を観ながら寝入っていたらしい。そして、音の正体は玄関の呼び鈴だ。

 誰だろ。

 このまま居留守を使おうかとも思ったけれど、どんな人が来たのかだけでも確認しておくことにした。重い体を持ち上げ、急いで階段を下りた。インターフォンの小さな液晶画面を確認。

 そこに映し出されていたのはランドセルを背負った、風邪のわたしよりも怠そうな少年──夏目君が欠伸あくびを噛み殺しているところだった。

 え、どうして? と疑問に思うなり、あ、そっか、と解答に思い至った。たぶんプリントとかを届けに来たんだ──え、待って。ということは、夏目君のおうちはこの近くなの?

 その思考と同時進行でわたしの身体は、ほとんど無意識に、まるで見えない糸に操られるかのように玄関の鍵を、そして扉を開けていた。

「待たせてごめんね」

「おう、びっくりした。いきなり開けんだな」夏目君の口調と表情は言葉とは裏腹に平坦だった。「つーか、三つ編みじゃん」

 かっと恥ずかしさが込み上げてきた。これは人に見せるための三つ編みじゃない。痛まないようにしつつ癖をつけるためのものだ。しかも、パジャマ姿で。よりによってどうして──頬が更に熱くなっていく。

「ど、どうしたの、今日は」

 わたしはぎこちなく尋ねた。白々しさは隠しきれていない。と思う。

「これだよ」と言って夏目君が渡してきたのは、宿泊研修についてのプリントだった。

 山のほうにある施設に泊まり、スコアオリエンテーリングや星空観察などをするらしい。わざわざみんなで遊びに行くのかな?

「じゃ、俺は帰るから。お大事に」

 プリントに目を落とすわたしに向かって夏目君は言った──孤独の気配に心がおびえ、わたしは反射的に答えていた。

「あ、あの、待って」

 見返り美人になった夏目君は、「何?」

 けれど、「えと、その、何ってわけじゃ、ないんだけど、もう少し、その」と続くべき言葉を口にできない。

 一人きりで寂しいからもう少し一緒にいてほしい、とは言いづらい。夏目君からすれば、ただのクラスメイトに突然そんなことを言われても、何で俺がそんなことしてやらなきゃいけねえんだよ? となるだろう。

 でも、心は誰かを求めている。でも、困らせたいわけじゃない。でも、寂しい。でも、嫌われたくない。でも、もっと話したい。でも、でも、でも──、

「ふっ」

 夏目君が鼻で笑った声が耳に入ってきた。

 あきれられたのかもしれない。けど、何だか耳が気持ちいい。そんなふうに思っていると、

「お前のせいで余計な仕事が増えて疲れたから、少し休んでっていいか?」

 と夏目君のほうから尋ねてきた。わたしの心中を見通したのかもしれない。

 今はその鋭さと優しさに甘えたい。こくりとうなずき、ありがと、とささやき、「上がって。散らかってるけど」と促した。

 夏目君が敷居を跨いで玄関の扉を閉めたところでようやく、学校とは違う邪魔の入らない空間で彼と二人きりになるという事実を、触れることのできる生々しい実体を持った現実として正しく認識した。どきどきするのは熱のせい。だけではない。かもしれない。

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