桜・幕間一話 My Precious “Bad Day”

「あれ、ゴムねえじゃん」

 そう言った夏目君が、わたしに顔を向けた。「わり、買ってなかったわ。どうする? 今日はやめとく?」

 これから事に及ぼうとしているところだった。火照った期待感だけがぽつねんと立ち尽くしているような気分。夏目君が会いに来てくれるまで、そうしていることだろう。

 何が何だかわからなくなるくらいもみくちゃにしてもらうことを心持ちにしていた。端的に言うなら、夏目君が欲しくてたまらない。

 言葉にせずとも──目を合わせるだけでその気持ちは伝わったようで、

「──ああ、うん、わかったよ。コンビニで買ってくる」

 と夏目君は言った。

 そして、わたしはその背中を見送った。

 にゃー。

 ルーちゃん──黒猫のルナのことをわたしはそう呼んでいる──の声は、早く帰ってきてね、と言っているかのようだった。

 ルーちゃんのほうを見る。ちりんと首輪の鈴が鳴った。

 その切なげな音が契機となったというわけではないけれど、わたしは夏目君と出会った日のことを思い出す。

 あれは小学四年生の五月のこと。わたしが夏目君のいるこの町に引っ越してきたのだ。



◆◆◆



 両親の仕事の都合で五月という中途半端な時期での転校となった。

 そのことについてお母さんは、

「こんな時期にごめんね」

 と心苦しそうに眉間にしわを作っていた。

「ううん、大丈夫」

 と答えつつわたしは、たしかに大変かもしれない、と思っていた。

 わたしは話すのが得意ではない。

 それに加えて、五月というのも良くない。なぜなら、すでにグループができあがっている頃合いだから。新参者を受け入れてくれる余裕が、友達関係の隙間があるだろうか、と不安でもあった。

 転校初日の朝、まずは職員室に行き、わたしが所属することとなった四年一組の担任の出丸いでまる先生に挨拶をした。出丸先生は優しそうな若いお兄さんだ。人のよさそうな柔らかな目元が印象的だった。

 けれどそれは、頼りなさとずるさの裏返しのようにわたしには思えた。反発よりも追従を選ぶ性質が表れているように感じていたのだ。

 出丸先生は苦笑まじりにほほんで、

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。一組はいい子ばかりだからね」

「……」

 本当かな、と懐疑心が言う。

 出丸先生の言う〈いい子〉というのがどのような子を指すのかわからない。大人にとってのみ都合のいい子のことかもしれないし、そもそも社交辞令の一種なのかもしれない。

 不安は拭えない。しかしわたしは、こくりとものわかりよくうなずいた。素直じゃない、かわいげのない子とは思われたくなかった。

 出丸先生がわたしの応対をどのように受け取ったのかは不明だけれど、彼は満足げに、「うん、それじゃあ教室に行こうか」と言い、移動を開始した。

 はい、と答え、後に続く。

 この街田第一小学校は、街田市で最も古い小学校らしい。先日お母さんと訪れた際に校長先生が、もう少しで創立百五十周年になる、とか何とか言っていた。自慢げでもあったと思う。

 歴史を感じさせる──ぼろっちい学舎を歩いていると、『4-1』と記されたプレートが見えてきた。

 心臓がきゅっと締めつけられ、鼓動が浮き足立つ。

 プレートの下まで来てしまった。出丸先生が、ためらいなく引き戸を開けた──がらがらと耳障りな音。

 おはよう。出丸先生はそう言いながら入っていく。

 もうどうしようもないので、わたしも、えいっと引き戸のレールを跳び越えた。

 ──瞬間、生徒たちの好奇心に満ちた視線がわたしに突き刺さった。きっ、と唇を結ぶ。うつむかないようにして黒板の前の教卓の所までがんばって足を動かす。

 到着すると休む間もなく出丸先生が、

「今日は転校生を紹介するよ」

 と言った。彼は慣れた手つきで黒板にチョークを走らせ、わたしの名前を書いた。

「それじゃあ自己紹介して」

 そう言われ、控えめにざわつく教室に向かってわたしは口を開いた。

「は、はじみぇまし、て……」

 あろうことかんでしまった。かぁぁと顔が熱くなる。何でこんな時に限って、と思う。

 くすくすと忍びきれていない笑い声が聞こえてきた。それは木霊こだまするかのようにして教室全体に広がる。

「はいはい、静かにね」やんわりとたしなめる出丸先生の声が遠く感じる。

 早く言い直さなくちゃ、と焦り、再び舌を動かそうとする。けれど、

「あ、あの、その、かり、えと──」

 と細切れになった言葉、意味を成さない文字の塊がぽろぽろと零れ落ちるばかり。それが焦りをいっそう加速し、一度は沈静化した嘲笑が再び活性化しはじめた。

 くすくす、くすくす──。

 わらわれているというのは、もしかしたらわたしの思い込みかもしれない。本当は優しく見守ってくれているだけかもしれない。

 でも、もう駄目だった。一度つまずくと大きく崩れてしまって立て直せない──小さいころからのわたしの悪い癖だ。

 頭の中でネガティブな感情と思考がぐるぐると渦を巻いていた。くらくらする。泣き出していないのが奇跡、そんな有様ありさまだった。

 結局、出丸先生がわたしの出身地と名前を説明した。

 情けなさと申し訳なさ、そして不安でいっぱいだった。

 指定された席に着く。最後列の廊下側の席だった。

 溜め息が洩れた。

 どうしてこうなんだろう。机に向かう勉強なら簡単なのに、現実の世界となると途端に難しくなる。

 どこかに神様がいるとしたら彼あるいは彼女は意地悪に決まっている、といつも思う。どれだけ努力しても大きな成果を挙げることなんて絶対にできない平凡な才能、好かれることも嫌われることもない平坦へいたんな性格、すぐに忘れられる目立たない容姿、数えきれないほどの不満はあっても不幸とまでは言えないありきたりな環境、そういうものだけをすべての人に与えていれば、きっとこの世界は退屈と幸福に満ちたすばらしいものになっていただろうに。

 うつむいて机の傷を眺めていると、ページを繰る音が気になった。隣の男の子が文庫本を読んでいるのだ。

 記憶によると、たぶん、わたしが教室に来た時からずっと読んでいる。朝の会を進める出丸先生にも、うじうじとした空気をまき散らすわたしにも一切の関心を見せずに彼は、手元の文庫本に視線を落としていた。

 そんなにおもしろいのかな。 

 目の端でこっそりと彼の顔を盗み見る。

 ……アンニュイ味のガムを噛みつづけたらこうなるだろうな、というつまらなそうな顔をしていた。

 それなら何でほかのものには目もくれずに読書に没頭しているの。変なの。

 不意にその男の子が鬱陶しそうにわたしを一瞥いちべつした。冷たく気怠げで、けれど知的な彼の瞳に射貫いぬかれ、どきりと心臓が跳ねた。そして、そのまま鼓動は走り出してしまった。

 何か言わなければいけないという強迫観念がむくむくと膨らむ。胸が苦しい。

「──そ、それ、おも、しろいの」

 何とか絞り出せたのは、そんな言葉だけだった。しかし、

「……」

 男の子からの返事はない。

 無視された……?

 急速に心が不安定になる。

 声が小さくて聞こえなかった? 少しボリュームを上げてもう一度声を掛けたほうがいいのかな。でも、話しかけられたくなくてわざと無視したのだったら──と、そこまで考えた時、それに気がついた。彼の耳にはワイヤレスのイヤホンがあったのだ。さらさらとした黒髪に隠されていて見えなかった。

 ほっと胸を撫で下ろす。よかった。聞こえていなかっただけみたいだ。

 パタンと音がした。本を閉じたようだった。タイトルが目に入った。『黒死館殺人事件』と言うらしい。

 たぶんミステリー小説だ。ということは大衆文学だろう。それなら読みやすいだろうし、今度読んでみようかな。共通の話題があれば少しは仲良くなれるかもしれない。



 転校生はたくさんの生徒から質問攻めに遭うというけれど、どうやらわたしの場合は違うらしかった。一時間目が終わるなり、ある少女を中心とした、容姿に優れた女子三人のグループがやって来て話しかけてくれたことが原因のようだった。

 その美しい少女は──左右に陣取る女の子たちがごく自然な流れを装って伝えてきた内容によると──このクラスどころか四年生全体で一番顔が広く、つまりは人気者らしく、有り体に言えば四年生女子の頂点に君臨しているということだった。

 そんな彼女たちの邪魔をしないようにと他のクラスメイトたちは自重しているのだろう、とわたしは理解した。

 そして、絶対にこの少女に嫌われてはいけない、と気を引きしめた。

 前の学校にもこういう子はいた。流石に学年単位ではなかったものの、かわいらしいルックス、高いコミュニケーション能力、恵まれた運動能力、裕福で優しい両親のすべてを持ち、みんなの憧れと尊敬を集め、一方で恐れられてもいた。気に入らない子をいじめていたからだ。

 前の学校でいじめを主導していた少女とこの少女は違うかもしれない。けれど、同じかもしれない。あるいはもっと──。

 気を緩めるなんてできっこなかった。

 学年一の人気者だというこの少女は、黄色のトップスと黒のボトムスを身に着けていた。まさに女王蜂のようだと思った。四年生という巣を支配する女王蜂クイーンビーだ、と。

 だからわたしはこの少女を──最も警戒しなければならない存在であるにもかかわらず──心の中では〈ビーちゃん〉と呼びはじめていた。あまりにもぴったりでやめられそうになかった。

 授業の合間の短い休み時間のぎりぎりまでビーちゃんたちはわたしの机を囲んでいた。

「わからないことがあったら何でも聞いてね」

 最後にそう言ってビーちゃんは、自分の席に戻っていった。

 思ったより優しそうな感じだったな、と安堵の息をつく。

 出丸先生の言うように、本当にこのクラスはいい子ばかりなのかもしれない──あ、でも、と隣の席の男の子を見やる。

 彼は、立てた教科書の裏で持ち込みが禁止されているスマートフォンを退屈そうにいじっていた。当然、授業はまるで聞いていないようだし、必然、ノートも取っていないし、もっと言えば立てている教科書も今現在行われている授業とは違う教科のものだった。

 この男の子はいい子ではないな、と確信した。

 妙に納得できる結論を得てわたしは満足だった。



 国語の授業でたどたどしい朗読を披露したことを除けば、午前中は大きな問題もなく過ごせたと思う。

 そして、お昼休みはビーちゃんたちのグループに学校を案内してもらうこととなった。

 たわいのない会話は退屈ではあるけれど、誰かと仲良くなるには必要なことだ。彼女たちとも、どこに住んでいるか、好きなものは何か、得意なことは何か、といった話をした。お互いの服や髪型を褒め合ったりもした──少なくともわたしの言葉はお世辞ではなかった。同性のわたしから見ても、彼女たちは華やかで女の子としての魅力にあふれていた。

「次は図書館に行こっか。うちの図書館は広いらしいよ」 

 とビーちゃんが言ったところで、隣の席の男の子、夏目君のことが頭をよぎった。たぶん図書館という言葉が、つまらなそうに小説を読む彼の姿を思い起こさせたのだろう。

 心がそわそわしはじめた。

 と同時に、授業中に感じていた疑問が再び顔をのぞかせた。というのも、夏目君はすべての授業をまともに聞いていないのだ。授業中の彼は、本を読むかスマートフォンをいじるか3DSでゲームをするか寝るかのどれかだった。問題児すぎる。

 学校を何だと思っているんだろう? そんな調子でテストは大丈夫なのかな? などとお節介なことをわたしは思っていたし、今も思っている。

 だから、わたしは尋ねた。

「えと、夏目君って、いつも、ああなの」

 すると次の瞬間、ビーちゃんの愛くるしい顔に、あるいは和やかな場の雰囲気に亀裂が走った。ような気がした。けれどその気配は、一度まばたきをすると完全に霧散していた。いや、初めからそんなものはなかったに違いない。やっぱり気のせいだったのだ。

「あはは」ビーちゃんは八重歯を見せて笑った──いつか映画でた吸血鬼を連想させた。「やっぱりびっくりしたよね」

「うん」ぞくりとしつつわたしは、うなずいた。「出丸先生も、怒らないし」流石に3DSは没収されていたけれど、「どう、なってるの」

「朝陽は誰に何を言われてもまっっったく気にしないし反省もしないから」

 ビーちゃんがそう言うとグループの女の子たちも、うん、とうなずいた。そうなんだよねー、先生も諦めてるんだよ、困った子だよねー、などと苦笑している。

「それに」とビーちゃんは続ける。「あれで勉強はできるから先生もモクニンしてるみたい」

 黙認、の言い方がいかにも慣れていない言葉を言うようで親近感とほほえましさを覚えた。頬が緩みかける。

 そうなんだ、とささやくように応じたわたしにビーちゃんは、

「勉強は得意?」

 と尋ねてきた。どう答えるべきか一瞬迷ったけれど、結局は正直に、

「たぶん、得意な、ほう」

 と答えた。授業でつまずいたりテストで悩んだりしたことはない。教えてもらえば、するりと理解できる。きっとわたしの脳は、受動的な学習に向いているんだろう。

「へー、羨ましー」

 続けてビーちゃんは、「あたしは全然駄目」と言った。「机に向かってるとむずむずしてくるんだよねー」

「だよね」とグループの一人がうなずき、もう一人のグループの子は、「わたしはそこまでじゃないけど、でも好きではないかな」と言った。

 ね、今度勉強教えてよ、と軽い調子でビーちゃんが言った。

「うん、わたしに、わかる、ことなら」

 わたしが控えめに答えると、ビーちゃんはにこりとした──また八重歯が見えた。

 やっぱり少し怖い。

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