そして桜は夏に咲く
虫野律(むしのりつ)
夏・第一章 今時ラブレターかよ
①
突然のお手紙、たいへん驚かれているかと思います。ごめんなさい。
でも、どうしてもお伝えしたいことがあり、筆を執らせてもらいました。
わたしの気持ちを全部書き連ねようとすると便箋が何枚あっても足りなくなっちゃうから、一番大切なことだけを単刀直入に言います。
あなたが好きです。
潮君はわたしのことなんて気にも留めていないと思うけど、でも、好きです。
付き合ってほしいとか潮君もわたしと同じ気持ちになってほしいとか、そういうことは求めていません(そうなれたら、とは思うけれど……)。
ただ、わたしの言葉をあなたの心のどこかに置いておいてほしいんです。それだけでわたしは満足です……。
PS 恥ずかしいので、読みおわったらこの手紙は捨ててください。
▼▼▼
ラブレター、和風に言えば、恋文とか
それは、愛を伝えるという名目の怪文書であり、黒歴史確定の性欲の具象化物である。すなわち、官能小説の親戚と解すべきということにほかならない。
読んだ第三者の心は共感性羞恥により多大なるダメージを負う。ある種の精神攻撃と言えよう。
「うん、まあ、よかったじゃん」
そう口にして俺──
人が
とはいえ、自分が貰ったのだとしてもそれはそれで面倒な気分になるのは明らかなのだから、やはりラブレターというものは仲の悪い親族との遺産分割協議に匹敵する厄介さを
潮は、まるで薄氷でできた芸術品を扱うかのような慎重な手つきで机から便箋を拾い上げ、ラブレターが入っていた洋封筒──白地に黄色の花が一輪だけ描かれている──にしっかりと仕舞ってから、「おい、夏目!」と語気鋭く言った。「もっと大切に扱えよ! 俺の未来の彼女がかわいそうだろ!」
ボリューミーな声量だ。遠くの、特別快晴というわけでもない地味な空を飛ぶ謎の鳥にも届きそうなくらいの通りの良さもある。おそらく腹式呼吸だろう。喉も開いているはずだ──お前なかなか素質あるよ。
だが、問題がある。ここは教室だ。そんな所で騒げば耳目を集めるのは必然。朝の
さて、ここで我が私立
教室の前の辺りに集まっているのは一軍男女混合グループ。バスケ部やサッカー部などパリピ度の高い運動部所属のコミュ強の陽キャで構成されるそれは、こちらをおもしろそうに見ている。未来の彼女って何だよー、と
はい、次。教室全体に点在するは二軍グループ又は個人。卓球部などの運動部っぽさの低い運動部、文芸部や科学部など地味なイメージの文化部、成績も見た目もそこそこの帰宅部などが主な構成員だ。彼ら彼女らは、表情にあからさまな変化はないものの迷惑そうな雰囲気を漂わせている。はあ、と文庫本を読んでいた文芸部の子の
で、一軍と二軍を避けるように集まって──あるいは集まらないで──こそこそと陰気な空気を生成している三軍。これにはブサくてボサいガリ勉やオタクが属する。幸いなことにうちのクラスにいじめは存在しないので彼ら彼女らも平和に過ごしているが、今ばかりは親の敵でも見るかのように憎々しげな目をしている。ちっ、とオタク男子の舌打ちが聞こえた。ちっ。オタク女子のも続く──君ら仲いいな。
──え? 俺と潮はどこにいて、何軍なのかって?
俺の席は窓際やや後方で、今はそこでダラダラしている。スクールカーストというくくりで言うなら二人とも〈カースト外〉になるんじゃねえかな。
俺の立ち位置や周りからの評価を俺が語っても、それは客観の皮を被った主観でしかない。したがって信憑性に欠けるだろうから、それは
潮は、元野球部のお調子者で、一軍から三軍までどの位置のやつとも普通に話して普通に盛り上がれる。多趣味だから誰とでも何かしらの共感できる話題を持っているのだ。やや小柄で、けっしてイケメンなどではない、猿に似た愉快な顔立ちというのも敵を作らないことの一翼を担っている、と俺は見ている。
ちなみに、潮の目下の目標は童貞卒業らしい。しかし、残念ながら彼はモテない。若い時分の恋愛においてはルックスの占める割合が大きいということだろう。
と思っていたのだが、珍妙なこともあったものである。
「まさか潮に
そんな言葉をしみじみとつぶやいた。本音ではないが、わざとではある。
「まさかって何だよ、まさかって」潮は
「まあな」ところで、と俺は尋ねる。「何でわざわざそのラブレターの話を俺にしたんだ?」
「そりゃあお前」と潮は俺を見据えた。「夏目に差出人を捜してもらうためだよ」何を当たり前のことを、とばかりに、さもこちらが非常識であるかのようなニュアンスがあった。
いろいろと不服も疑問もあるが、とりあえず聞きたいのは、
「差出人捜しってどういうことだよ?」たしかに便箋には記されていなかったが、「封筒にも書かれていないのか?」ちらと封筒に目をやった。
「そうなんだよー」潮は椅子にもたれて安っぽい蛍光灯の輝く天井を仰いだ。「きっと緊張して忘れちゃったんだよ。ドジっ子だな、うん」
「それは
「はあ、まったく、これだから性悪説の信奉者は」腹の立つ顔で潮は首を横に振った。「そうやって疑ってばかりじゃ楽しくないだろ。疑わしきは罰せずって言うじゃん。疑いがあるって程度なら何も考えずに信じてればいいんだよ。そっちのが絶対楽しい」
「詐欺には気をつけろよ。特に結婚詐欺な」
潮は俺のありがたい忠告を馬耳東風し、「そんでさ、差出人捜しについてだけど」と真剣な面持ちになった。「早速、今日から捜査を開始してほしい」
「え、何で引き受けることになってんだ? めんどくさいんだけど」甚だ納得いかない。
「まあそう言うなって。今度、昼飯
「三食分なら前向きに検討しなくもない」
潮は、にかっと唇を横に広げてやや
検討するとしか言ってないのだが?
と、ここでC組を統べる女王様が登場した。ま、女王様っても普通に一軍グループのリーダー格ってだけで、「朕は国家なり」「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」などと言ったりするヤベー女ってわけじゃない。
女王様こと
春風は、その、鋭角な印象を与えるがよく整った小さな顔に眠気をにじませ、「ぉはよー」と一軍の配下──じゃなくて友達にやる気のない挨拶をし、そしてセミロングの明るい金髪──今日は緩く外巻きにしている──を揺らしながら俺たちのほうへ歩を進め、「よっす」と言って俺の隣に腰を下ろした。そこが彼女の席なのだ。
「うい」と俺が返し、
「よう、眠そうだな」と潮が続く。「まあまあギリギリじゃん」
「ん、昨日、配信がなかなか終わんなくて」春風はぐでっと机に頬を押しつける。「あー、無理ぃ、もう寝るわぁ、朝陽ぃ、後は頼んだぁー」
春風とは小・中と一緒で、
だからというわけではないが、俺は、「ちょっと待て」と言って、夢の世界へ旅立とうとメイクばっちりのまぶたを下ろした春風を呼び止めた。
「なぁにぃ」非常に
「ラブレターをどう思う?」
「……」春風はパチリと目を開けた。むくりと上半身を起こし、「何、いきなり」と
「深い意味はない」反応を見ようと思っただけだ。動揺するようなら嫌疑は強まる。
「また何か変なことしてんの?」
「まあそんなとこ」
春風は、「どうしてめんどくさがりのくせにいつも妙なことに首突っ込むのよ」とぼやくように言ってから、「……ラブレターね、わたしはナシ。ホントにわたしが好きなら顔見て直接言えよって感じ。その程度の度胸もないやつは論外」
「自分が告られる前提なんだな」
「エグいモテるからね、実際」
「自分からはいかないのか?」
春風は眉間にしわを寄せて、「何なの」とつぶやきつつも、「相手によるだろ、そんなの」
「ごもっとも」白っぽく見えるが、どうだろうか。「邪魔して悪かったな。もう寝ていいぞ」
「別にいいけど」と、それから、「もう邪魔するなよー」と言い、今度こそ春風は睡魔に身を委ねた。
窓から差し込む四月下旬のぬくい日差しは、さぞかし強力な睡眠導入剤なのだろう。春風はものの一分と
担任の
影沢先生が聞き取りづらい声で自信なげにもそもそと連絡事項らしきものを話しているのを聞き流しながら、ラブレターの差出人について考えていた。
潮が言うことには、今朝、教室に来たら自分の机の中に入っていたという。つまり、彼が下校した昨日十五時半ごろから登校した翌朝すなわち本日八時ごろまでの間に犯行はなされたということだ。……はっきり言ってこれだけじゃ容疑者を絞るのはほとんど不可能だ。
ただ、素直に考えるならば、潮の席を知っている人物、という限定はできそうではある。であれば、この二年C組の生徒の中に下手人がいる可能性が高いということになる。
が、この枠組みも共犯の可能性を考慮し出すと一気に崩壊する。クラスメイトの人間関係すべてを把握するのなんて無理だし怠すぎて調べたくもないし知りたくもない。
次いで、筆跡鑑定というワードが頭をよぎった。ラブレターは人の手で書かれたものだったから、あるいは可能かもしれないが──いやでもなあ、と懸念材料がその有効性を否定しようとする。
現実的に考えて俺が選択できるのは伝統的筆跡鑑定と呼ばれるものになるが、これは極端な言い方をしてしまえば鑑定人個人の感覚による非常に不確かなものでしかない。実際、伝統的筆跡鑑定の証明力には限界があるとしてその鑑定結果を否定した最高裁判例もある。
結局のところ、その程度のものなのだ。まして素人の俺に、その、職人芸めいた見極めができるのかという根本的な問題もある。
潮の交遊関係から探っていく、いわゆる
潮に心当たりはないようだし、彼の広漠たる交遊関係からめぼしい女子を見つけ出すのは、自分と同じ誕生日の人を街中で探すぐらいの難易度だろう。無理ゲーではなくともクソゲーだ、間違いなく。
そうなると、地道な聞き込み捜査で犯行推定時刻の現場での目撃情報を集めるしかない。んだろうな、やっぱ──これはこれでクソめんどくせえ。もう諦めて抹茶アイス食いてえ。
と、どこからか、というか俺の机の中から軽快な電子音が聞こえてきた。スマホの通知音だ。メッセージが来たのだろう。見ると、うちの母親からだった。
『帰りにいつものキャットフード買ってきて』
夏目家では黒のアメリカンショートヘア、要するに普通の黒猫を飼っている。名前は〈ルナ〉。母親が『美少女戦士セーラームーン』のファンだったために、作中に登場する黒猫にちなんでそう名付けられたのだ。
下校ルートにあるペットショップに寄るだけなので否やはない。『り』と送って俺は、顔を上げた──目の前に
「休み時間と放課後以外は電源を切っておくという校則の存在は、もちろんご存じですよね」影沢先生は言った。「もう何回もお話ししましたもんね」
「まあ知識としては知ってますよ」俺は正直に、誠意をもって答えた。
「そうですよね、それではこれは預からせていただきます」影沢先生は俺のスマートフォンを取り上げた。「わたしなんかに触られたくないかもしれませんが、これもルールですので」
「いや、それはいいんすけど」いや、授業中に暇潰しする手段が減るから本当は全然良くないんだけど、と思いつつ視線を横に流し、
「この『眠り姫』は放置でいいんすか」
「えっ」
春風はSHR中もスヤスヤである。起きる気配はない。たぶんキスをしても起きない。いや、ディープキスならワンチャンあるか?──ん? 今動いたような?
影沢先生は場都合が悪そうに視線を揺らす。「え、ええと……」
おいおい椿ちゃんをいじめんなよー、と潮が笑う。周りのやつらもくすくすと忍び笑い。
「……」影沢先生は消しカスの散らばる床にぽろぽろと言葉を落とす。「春風さん、何だか怖くて苦手なんですよ。起こしたら何をされるか……」
「見た目と口調に惑わされてますよ、それ。こう見えてこの人、地元では〈仏の春風〉と呼ばれて拝まれてるんすよ」
無論、そんな事実はない。が、
「そうなんですか?」
影沢先生は信じかけているようだ。マジで?! と潮の声も飛んだ。
「ええ、もちろんす」俺は大きくうなずいた。「試しに起こしてみてくださいよ。二度目までは
「わかりました」
影沢先生がおっかなびっくりといった様子で春風の肩をつつく──その直前、春風は目を開けた。
ひっ、と影沢先生は息を
「流石にその反応は傷つくんですけど」春風はまず影沢先生にそう言い、次いでこちらにあきれたような目を向けた。「つーか、意味不明な通り名
「つい、出来心で」
疲れたように息をついてから春風は、「ねえ」と静かな声で俺の鼓膜を
「気にしてたんだな」ウケるー。「とりま、髪の毛黒くしてメイクをナチュラルにしたらマシになるんじゃね」
「それは無理」
だよな。
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