旅人(その3)

 砦よりも上層は、下層ほど厄介な魔物が出る事は少なかったが、それでもルカ一人で出歩いて安全というわけでもない。それに砦への出入りを誰何しあらためるのが門番の仕事なのに、その門番自身が周囲の制止を振り切ってその場から離れていくのは褒められた行動ではなかった。引継ぎもろくに済ませていないままであるし、一歩でも砦の外に出るというなら無許可というわけにも本来はいかないものだ。


 待て、止まれ、とアランが呼びかけるのも気に留めず、ルカは斜面をまっすぐに登っていく。さすがに砦育ちはルカのようなまだまだやせっぽちの子供であっても充分に健脚で、ぼんやりしているとアランでも置いて行かれそうになる。

 崖場の内側の淵をぐるぐるとらせんを描くように山頂部へと続いていくその坂道を、四分の一周ほど進んだだろうか。

 振り返れば砦が幾分かは小さく見える。その正門の前で交代の歩哨たちが、あいつら何やっているんだ、という面差しで面倒くさそうにこちらを見やっているのが分かる。だが先を歩くルカがその場で立ち止まって崖下を見下ろせば、その視線は砦が置かれている岩棚よりもずっと下方を注視しているのが分かった。


 あとから追いすがったアランだが、そんなルカの視線の先の暗闇にどれだけ目を凝らしても、眼下にはただただ漆黒が広がるばかりだった。


「何か見えるのか、お前には」

「……」


 一緒に下方を見下ろすアランの方が遠目は効く方だ。その彼の目にも何も異変が見出せないのなら、そこにはやはり何も無いのだろう。


「あの晩何を見たつもりか知らないが、これで気が済んだか?」


 そのように問いかけて、あらためてその横顔を見やれば、裂け目の深淵を見下ろすルカのその目尻の端に、粒の大きい涙のしずくがあるのに気づいて、さすがのアランも狼狽した。


「お、おい……」


 呼びかけには何も答えず、ルカはただ無言のまま目尻を指でぬぐった。


 その時だった。

 見下ろしていた深淵の奥底から視線を上げて、アランはふと断崖の向かい側を見やる。らせん状の岩棚の通路をそのまま目で追いかけていけば、丁度二人のいる反対側のあたりに、こちらへと向かって下ってくる二つの人影が見えたのだった。


「……珍しい。旅人が下りてくるぞ」


 えっ?と問い返したルカに、アランは親切に指さし示したが、ルカの視力ではまだ捕捉出来る距離では無かった。アランの遠目が効くのは仲間内でも誰もが認めるところだが、その細い目つきでいったい何が見えるのか、とその外見ゆえによく揶揄されてもいた。ともあれ、指し示された方角にじっと目を凝らしているうちに、確かに彼方の崖場をゆっくりと下ってくる人影らしきものが、ルカにも判別出来たのだった。


「こっちに来る……よね?」

「だろうな」


 先人がここに砦を築こうと思い立ったように、ルカ達の砦のある辺りは比較的開けた平板な岩棚になっている。裂け目のてっぺんから砦に至る道は元々はろくな足場もない崖場だったが、この地に砦を建設するためにはさまざまに資材を搬入する必要があり、その折に荷車を通せるくらいまでに平らにならされていたのだった。長い年月の間に部分的に多少の崩落があるにはあったが、落石などは年に何度か砦の者たちで取り除いたりもしていたし、徒歩で通行する分には特段の不都合はないはずだった。


 無論、そのように整備された道を無視して岩から岩へと飛び移るのが全く不可能というわけでもなかっただろうが、途中どのような魔物に襲われるか分かったものではなく、足を滑らせればどこまで滑落したものかも分からない。命を大事にしたいのならば、そのような無茶はしないに越したことは無かった。……もっとも、命が大事ならそもそも〈裂け目〉などにやって来ないのが普通だっただろうが。

 そうやって二人で彼方に注視していると、ふとアランが近くに動くものの気配を感じて、慌てて振り返った。みれば、二人が立っている位置から斜面の下側、砦への帰り道を塞ぐかのように、痩せた一匹の獣が立ち尽くしているのが見えた。


「……チェスターか。脅かすなよ」


 アランは一人呟いて、胸を撫で下ろした。

 灰色の毛並みの、痩せてはいるが立派な体躯の狼だった。サバクオオカミと呼ばれるその種類の狼は、ハルムダールの大荒野に広く見かけられるごくありふれた獣だった。一般的に体つきは大きく、仮に襲われれば旅人にとっては脅威と言えたが、警戒心が強くともすれば臆病なほどで、人間とみれば見境なしに襲い掛かってくるほどの凶暴性は無いとされている。数は少ないながら、魔物の跋扈するこの裂け目の内側でも割合頻繁に見かける、当たり前にいる獣だった。

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