旅人(その1)

 そもそも、辺境のそんな場所にそのような砦があることなど、世間にはほとんど知られてはいなかっただろう。

 王国の北部、辺境域に大きく広がるハルムダールの大平原。そのさらに北西の最果てに、カイエス山はあった。


 その山の名が知られているのは、何もその山容が秀麗な名峰だからというわけででも、王国内でも名だたる峻険な天然の要害というわけでもなく、むしろ外からの見た目で言えば山とも丘ともつかぬ、ごく平凡な地形の隆起に過ぎなかった。

 人々が関心を寄せるのは、その山の頂きだ。山頂部にあたるその場所には、俗に〈大地の裂け目〉とも、単に〈裂け目〉とだけでも呼ばれる、地の奥底へと続く深い深い大渓谷が広がっていたのだった。


 その巨大な竪穴は、火山が噴火したあとの火口の跡地とも、地殻の変動で生じた地割れのあととも、大平原が荒れ果てて荒野になる以前の遠い過去より、長年の風雪によって穿たれた渓谷であるとも――あるいは遥かな神話の時代に神が地上に下した怒れる鉄槌の痕跡だとも、さまざまに言われているが本当の所は定かではない。


 ひとつまことしやかに言われているのは、王国の北に広がる辺境域を脅かす魔物どもが、まさにこの大地の裂け目より湧き出しているのだ、という言説だった。

 そのような魔物を根絶しよう、などというのはいかにも無謀な思いつきだったに違いない。確かに広大なハルムダール平原の中でもひときわ魔物の姿が目に付く土地ではあったが、そもそもが魔物の発生源が本当にこの裂け目であるかどうかをまともに観測した事例すらない。だが事実、その目的のために王国はカイエス山のふもとに一つ砦を構えていたし、それとは別にもう一つ――そう、王都から直線距離で言っても一番遠くにある、もっとも最果ての砦として、裂け目へと深く下っていく途上にその砦はあったのだった。

 その存在を知る人々からは、〈裂け目〉砦、と呼ばれていた。


 朝になって、その裂け目砦の表門の界隈はちょっとした騒動になっていた。

 自警団の若手二人が歩哨の任についていたはずなのに、交代の者たちが時間になってそこに向かってみると、一人が――これは言うまでもなくルカだ――地面に大の字になって倒れ伏していたのだ。残る一人に至ってはその場に影も形も見えなかった。

 当然、何事かがそこであったのだ、という風に騒然となった。魔物の襲撃を受けて一人が負傷し、もう一人は行方知れず、その場からどこかへ引きずられていくなりしたか、それとも崖下に運悪く転落でもしたか……という図式を大人たちは思い描いたが、真相はさほど緊迫したものではなかった。


 まず倒れていたルカだが、どこにも外傷が無かった。当人も怪我や痛みを訴えるでもなく、実際に打ち身の一つも負ったわけではなかった。何故倒れていたのか、と問いただしても、流れ星が落ちてきた、などと不明瞭な事を言うばかりだった。


「だって、本当の事だもの。あれだけまぶしい光がこの裂け目に落ちてきたのだから、見間違えるはずなんてない」

「だったらお前以外、誰もそれを見ていないのはどうしてなんだ」

「見てない?」


 ルカは心底驚いたように目をまん丸に見開いた。


「誰も? 誰もあれをみていないの?」

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