(仮)天使にくちづけ
もにゃにゃ
1 はじまりの天使
ここは天国と地獄の境目。この境目は、いつだって死者の魂であふれかえっている。まるで渋谷の交差点だ。天使見習いのエルは、宙に浮いたまま寝転がった姿勢で肘をつく。右を向けば天国の門へと続く道、左を向けば地獄の門へと続く道。いわば、分かれ道だ。天国行きの道は白淡く光っていて、風も吹いていないのに柔らかく揺れており、綿毛が飛んでいる。一方、地獄行きの道はとたんに薄暗くなり、黒いマグマのようなヘドロが押し合い
エルは、立派な天使になるために、いろいろな教育を受けている。地上でいう、いわば学生だ。天使道徳学、天使体術、守護天使学、神学、信仰学、悪魔学、人類学、占星術学…―立派な天使になるためには、色々学ばなくてはいけない。今も授業と授業の間だ。
この境目は、見習い天使が近づくのは禁止せれている。だから天使たちが少ない。魂たちは騒がしいが、浮いてさえいれば
魂とはいえ、うっすら透けているが、生前の姿は保っている。エルがぼーっと見つめる先で、小太りのおじさんと、目の吊り上がった若い女の魂がぶつかった。舌打ちをしあっている。互いを酷く
「ああいう奴等はだいたい地獄いきなのよねぇ。魂が汚すぎるわぁ」
天使見習いのララは、天然パーマの毛先を指先にくるくる巻き付けながら、つぶやいた。語尾が伸びた、気の抜けた様な話し方をする。宙に浮いたまま、足を組んでいる。両手を上げ、背中の羽根をぐっと伸ばして伸びをした。
「さあエル、いきましょ。バラキエル様の占い授業が始まるよぉ」
ララは宙を蹴ってふわりと
「天使様!天使様!天国へ連れてってくれ!」
魂たちの手が、波のようにうねる。天界の交差点は一層混雑を増した。それをよそ目に、ララはさらにもう一段舞い上がると、腰に手をあてて口をとがらせた。
「ここにいるとろくなことがないよぉ。魂たちの見守りはガーディアンに任せて、私たちはいきましょー!」
宙で足を組み、エルを見下ろした。エルは、相変わらず横になっている。生返事もない。ララは腕を組み眉根を寄せた。
「もー!エルー!」
白い羽を小刻みにパタパタはばたかせ、地団駄を踏んだ。両翼をぴんと伸ばし、宙からエルのもとに滑空する。ララの体から、輝く粉が舞う。天使の輝きに、魂たちはたじろぐ。きらきらと、頭上に粉が降り注ぐ。モーゼが海を
「俺は占いなんて興味がないんだよ」
相変わらず寝転がるエルは、あくびをひとつして目をこすった。眼下でうねる魂の波。その時、遠くから、胸に直接響くような声が聞こえた。
「こらー!魂たちを荒らすなー!」
ざわつく交差点に気づいたガーディアンエンジェルズ達が、槍や盾を持って飛んできた。エルはどきりと肝を冷やし飛び起きる。ガーディアンエンジェルズはいわば警察のようなもの。つかまりでもしたら師匠のバラキエルに怒られる。それだけじゃない!最悪、神にも怒られて裁きを受けるかもしれない!
「ララ!お前騒ぎを起こすな!」
真っ白な両翼を大きく広げ、宙を蹴る。魂たちがまたどよめく。もはや混雑なんてものじゃない、大混乱に陥っている。両手を掲げて天使を捕まえようとすし詰め状態になっている。子供から大人、老人、動物、虫、植物、生きとし生ける有機物のすべてが天国に行くため天使を捕まえようともがいている。エルはちらりと下を見た。顔面に輝く天使の粉を浴びて、魂たちは金色のとうもろこしのようだった。
ガーディアンエンジェルズは魂を鎮める部隊とエルとララを追う部隊とで二手に分かれた。ガーディアン達は洗練された天使たち。見習い天使には到底かなわない程の速さで、エル達を追い詰めていく。
「エルー!どうしよぉ!!!」
エルのあとを追うララは、涙目になりながらスピードを上げる。ララは、見習い天使界で一番足が速い―羽がはやいというべきか―。
「ララ!お前!こっちくんなよ!」
「そんなこといわないでぇ!」
「俺を巻き込むな!」
ララはぐんぐんスピードを上げて、エルとの距離を縮める。
「私一人のせいにしないでぇ!」
ララは手を伸ばし、エルの足首をつかんだ。エルは大きくぐらつき、バランスを崩した。金色のとうもろこしのような魂たちが「おお」とどよめき一瞬場を空ける。エルが落ちそうになるその場所に、小さな空間があく。瞬間、エルは目をみはった。魂たちの隙間から、小さな猫が顔を出した。その猫は、もみくちゃにされながら、その場を動けずにいた。強欲な魂たちに蹴られ、踏まれ、動けずにいる。自分の身を守るため、猫は小さな体を硬くして、より小さく縮こまった。エルは手を伸ばす。その時、猫は興奮した魂の足で大きく蹴られ、左側にとんでいった。宙で体を伸ばす猫。大きな円を描き、飛んでいく。猫と、目があった。たった数秒が、スローモーションのように再生される。
「エルー!?」
遠く彼方で、ララの声が聞こえた気がした。
なんだか、だんだん遠くなっていく。
いやに寂しそうな声だ。
だんだん、寒くなってきた。
あぁ、俺はもしかして――――
でも、もうそれからエルがどうなったかは、私にはわからなかった。
「そこのお姉さん」
「あなたよ、あなた」
天音はイヤホンを外した。あれ、そうだ私イヤホンしてたんだった。イヤホンを見つめる。外したイヤホンから音楽がうっすら聞こえた。天音はイヤホンを回してみるが、その後声の方を見つめた。なんだか胸の奥で聞こえたような。不思議な声だ。従わざるを得ない気持ちになってしまう。声の方を振り向くと、ウェーブのかかった長い髪をながした、色白の男がこちらをみていた。男、いや、女か?駅前で店が立ち並び、きらびやかなはずなのに、陰になって、顔がよく見えない。
「私、ですか?」
天音は不振そうに眼を細めた。声の主はゆっくりうなずいた。
「そうよ、あなた。疲れた顔のお姉さん。」
男は一歩前にでて、天音に近寄った。でも、なぜか顔はまだ見えない。
「あなたに伝えたいことがある」
男は長い髪を肩越しになびかせた。口角をあげて人差し指をつきだした。
「あなたはこれから、大きな光に包まれることになるわ」
「大きなひかり?」
「そう。大きな光。でも光に甘えてはいけないわ。いつの時も、慈悲深くあらねばいけません。あなたには、それができるかしら」
男は、天音の頬に手を伸ばした。暖かくて、
「え、わ、私は」
息がうまく吸えない、手から額から汗が噴き出す。天音は生唾を飲んだ。日の出のようなオレンジ色に輝く瞳の奥が、天音の脳内まで見透かす。でも、なんで、男の顔がよくわからない。天音は両手を握りしめて身を縮めた。
男の鐘のような声が脳内に響く。
「いつの時も、慈悲深くあることを、誓いますか?」
両眼を硬く結んで、腹の底から大きな息をだしていった。
「ちっ、誓います!」
街の雑踏が消えて、水を打ったように静まり返った。男の上品な笑い声だけが響く。男は、天音から手を離し、一歩下がる。また、顔が陰に隠れてしまった。でも、笑っている。嬉しそうに自分を抱きしめている。少し前かがみになってから言った。
「また会いましょう、天音」
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