仄見家③
半年が経った。
その日私は、酷い風邪をひいて寝込んでいた。父は看病しようかと聞いてきたが、体調が悪い時に「母さん」の話をされたら余計に悪化しそうだったので断った。そもそも父と1日も一緒にいるのが、その時の私に取ってはすでに辛いものだったのだ。
どれだけ大好きな相手でも、何度も奇行を見せられてはウンザリもする。最低だとは思うけど、でもその時の私にとってはまごうことのない本音として、「勘弁してよ」があった。
本当、最低。
父は少し寂しそうな顔で、「帰りにポカリ買ってくるよ」と言って仕事に行った。まともな時の父だった。
少し時間がたったあたりで、なんだか無性に切なくなって、布団の中で泣いた。時計を見ると、もう12時過ぎだった。熱が出ている時の時間感覚というのは妙で、1秒は長く感じるのに、数時間経つのはあっという間だ。そんなことを考えている間にさらに18時を周り、外は既に暗くなり始めている。
私は布団の中で、今日は父と少し話したいな、とそう思った。朝、冷たく当たったのを謝って、前みたいに仲良くできたら、と。病人特有のセンチメンタルだったのかもしれない。
鍵が開く音が、妙に鮮明に聞こえる。もう夜か、そう思いもぞもぞと布団の中から顔を出した。
「ただいま」
父さんの声だ、どうやらまともらしい。
「おか──」
大きな声で返事をしようとする私に重なって、父は次の言葉を吐いた。
「母さん、夕雨の調子はどうかな?せっかくだし、風に効く料理でも作ってあげようか」
私は唇を噛んで、布団の中に潜った。何回か父がノックしたり、様子を見にきたけど、全部寝たふりをして無視した。
もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。声を出さないように気を張りながら、それでも嗚咽が漏れて、何回も何回も泣いた。涙がようやく枯れるころ、私は夢と現実の、ちょうど間のような状態になっていた。
体が重く、頭の中にいろんなイメージが立ち現れては霧散していく。そのうち、それは一つの形に収束していった。
けむくじゃらの四足動物が、悲鳴のような耳障りな鳴き声をあげる、そんなイメージ。
どうやら一匹ではないらしいそれは、体毛を擦り付けるようにして私の全身を這い回る。私はそれが気持ち悪くって、もぞもぞと布団の中で体を動かすけれど、そうすると今度は布団が生き物のように足や胸絡みついた。
じっとりとした不快さの中、私はやがて完全な眠りへと落ちていった。
目が覚めたのは夜明けごろだった。頭はやたらとスッキリしていて、体も軽い。病み上がりというのは普段健康な時より調子がいい気がするから不思議だ。
「変な夢、見たな」
自分で自分に確認するように、私は呟く。外からわずかに光が差し込んでいて、相対的に私のいる空間がひどく薄暗く感じられた。
父ももう寝ているだろう。私はリビングに向かうことにした。何か飲み物が飲みたかったのだ。
「うわっ」
自室のドアを開けた途端、血生臭い匂いがして後ずさった。血と油の匂いだ。
また父が変な料理モドキでも作ったのじゃないか。最初に思ったのはそれだった。
次に、とうとう近所の動物を使ったのではないかという想像が浮かぶ。
冴えた頭の中で嫌な考えが、ぐるぐると巡っていた。
私は恐る恐る階段を降りる。段差ひとつごとに、どんどん匂いが強くなっている気がした。
「ちょっと父さん、また変なもの──」
そこまで言おうとして、そのまま失語する。
最初に目に入ったのは、血だった。視界がとにかく赤くて、目をすがめる。状況を理解するのに、数秒を要した。
端的に言ってしまうと、キッチンで父が死んでいたのだ。
「は、え?」
父は流し台に尻をはめ込むように寝転んで、ナイフで腹を掻っ捌いていた。鼠蹊部から胸の下にかけて、ぱっくりと肉が開いている。
そこから腹膜がずるんと飛び出し、重力に従って垂れ下がっている。散乱した内臓は、腸だけはかろうじて分かったがそれ以外は何が何だかわからない。全部赤黒くて、ズタズタに切れているのだ。いや、そうでなかったとしても内臓の同定など私にはできなかったけれど。
なんでこんなことを、と思う前に、ああ食べようとしたのだろうとわかった。
父の口の中には、飛び出した腸の先端が咥え込まれ、内側から頬を圧迫している。噛みちぎろうとして勢い余ったのか、折れた歯が唇から突き出していた。
石だの虫だの髪の毛だのの果てに、とうとう内臓を。異様に冷めた思考の後で、嫌悪感と吐き気が迫り上がってくるのを感じた。
「うえっ、おええええええっ」
汚らしい声がこだまする。
死んでる。死んでる。死んでる。
なんでなんでなんで。
明らかに死んでいる父に、全く意味のない希望を持ちながら近寄る。ガタン、と大きな音がして、洗い場の縁に引っかかっていた足が落ちた。靴下が半分脱げて、ダルダルになっている。
父の顔は、焦点が合わず、鼻水がダラダラと垂れた酷いものだった。目脂がべったり付着して、まつげに絡んでいる。
「父さん、父さん父さん」
返事が来るわけがない。肩を揺すろうと触れて、その体温の低さと、死んだ人間の体の重さにゾッとする。
私は、急いで警察を呼んだ。しどろもどろな説明に、年配の警官がやや横柄な声音で対応する。父が死んでいるから、とにかく来てくれ、それだけの内容を伝えるのにかなり時間を要してしまった。
それからパトカーが来るまで、30分ほどだっただろうか?私はなんだか急に立っていられなくなって、体育座りをしてカタカタと震えながら待った。
父に向き合わなかったことへの後悔、自責、もしかしたら自分が犯人だと思われるかもしれないという利己的な不安。それらがない混ぜになり、今だに自分のことなんか考えてる自分が嫌で嫌で仕方がない。冷めていた頭が、今はズキズキと重苦しく痛んでいた。
トテトテ。
どこかから足音がした。軽い足音だ。猫か何かが歩き回っているような。あたりを見回しても何もいない。なのにその足音は、どんどん大きくなる。とてとて、とてとて、とてとて。
何?今度は何?
次々と襲ってくる意味不明な事象の数々に、私の精神は限界だった。
とて、とてとて。足音がする。すぐ近くで、どこか遠くで。私は、半狂乱になりながらリビングを出た。よろよろ廊下を歩いて、玄関近くまで行く。
チャイムがなった。
「すみません。警察のものです」
その声に、少しホッとする。
早くドアを開けたいのに、鍵を開ける手が震える。すいません、今開けます。すいませんすいません。何度もそう言って謝るうちに、誰に謝ってるのかわからなくなった。父さん、すみません。ごめんなさい。
ドアを開けると、さっきの声の主だろう。年配の警官がいた。その近くに、若い警官が二人。
「お父さんが亡くなられたって」
「あ、は、はいっ、あのはい。リビ、リビングにっ、あの、内臓を、うっ、あっあっあっ」
転びそうになりながら、靴を脱いだ警官たちをリビングの方に案内する。とて、とてとて。また足音が聞こえた。思わず耳の近くを掻きむしってしまう。不安な時の癖だった。
「あの、こ、ここです」
私は、警官たちに父の死体を見せた。相変わらず、酷い姿の死体。どこから出てきたのか、ゴキブリが鼻の上を這っていた。
「あの、朝起きたら、こうなってて、あの」
必死で絞り出すように説明する。早くこの悪夢みたいな状況に終わって欲しかった。
でも、警官たちはどこか真剣みのない顔をしていた。捜査らしきことを始める様子もないし、無言で怪訝な顔をしている。
「え、あの、父さんの死体って、あの、これからどうなっ、あうっ」
「いや、仄見さん」
年配の警官が口を開いた。
「は、あの、はい」
「死体なんて、どこにあるんですか?」
は?
私は硬直した。何を言ってるんだこの人は。
こうして、目の前で父が死んでるじゃないか。
こんなグロテスクな姿で、まさか眠ってると思ってるわけでもあるまいに。
「いや、あの子のキッチンに、あの」
父の手を持ち上げて私は抗弁する。父の指先は油で濡れていて、私の服の裾をべたりと汚した。
「はぁ、キッチンに」
しかし年配の警官は、相変わらず困ったような顔をしたままだ。
「洗いっぱなしの食器はずいぶんありますけれど……死体、なんてどこにも」
とてとて。足音が聞こえる。
嘘だ。そんなわけない。だって現にここに。
「ひいいっ」
悲鳴を上げながら、私は尻餅をついた。警察官の後ろに、全裸の父が無表情で立っていたのだ。隣に、顔の潰れた女を伴って。
「ああ、お父さんですか。いま、通報がありまして」
年配の警官は、突然目をぐるぐるさせると、振り返らないまま話し始めた。
「通報?」
「ええ、あなたが死んだって、娘さんから」
「私がですか?いやぁ、妻と娘を残して死ねませんよ。ひぃううっふふ」
全裸の父は、口角だけを上げて笑う。
「あはは、いいお父さんですね」
年配の警官は、そう言いながら相変わらず父の方を向くことはなかった。その足元で、さっきまで立っていたはずの若い警官たちが四つん這いになってぐるぐるしている。
「あの、え、あえっ?」
「こーら、夕雨、ダメじゃないか警察は忙しいんだから、迷惑をかけないようにな」
父が、父が。ぐちゃぐちゃの死体の父と、全裸で喋ってる父。その隣の女。
わからない。何もわからない。
「はひぃふんっはははっ、母さんもそう思う?」
「ははは、おしどり夫婦ですね」
「ほら夕雨、警察の人に謝って。いたずら電話かぁ?ひうひひっ」
「いやいや、いいんですよ。ああでもそうだな、でもちゃんと謝ったほうがいいかもしれないですね。だって」
──こんなになる前に、何か出来たはずですし。
「ああ、それはそうですね。夕雨、ダメだぞ?寝たふりなんかしたら」
「そうですね。それは本当に、我々としてもなぜ父親がおかしいと気づいていながら無視してしまったのかは、最優先で捜査しなくては」
「ひうひうひうっ、大事件ですね」
「ハハハハハハハハ殺人と変わらない」
足音が、聞こえる。とてとて、とてとて。
年配の警官が父の死体から腹膜を破り取って、私の顔に当てた。
「逮捕逮捕、通報ご協力ありがとうございます」
そう言いながら、後ろ歩きで部屋を出る。若い警官たちも四つん這いのまま廊下に出て行った。私の見えないところで、ドアが開いて閉まる音がする。
「へ、あ、ああ」
腰が抜けたまま、私は呆然としていた。
「夕雨、おはよう」
父が、死んだはずの父が言う。母もその隣で頭を揺らしている。
「大学、行かなくていいのか?ほら、朝ごはん」
私は、もうなんだか、全部がどうでも良くなって。
「うん、おはよう」
と言って、立ち上がった。
服を着替えて、シャワーを浴びて、玄関に向かう。父と女が私を見送るように寄り添っていた。
「いってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
これが、父が死んだ日の話だ。
父がなにを思って死んだのか、私はなにも知らない。
隣にいる女が、母親なのかどうかも。
ただ一つ確かなのは、私が父を見殺しにしたという事実だった。
それ以来私は、幽霊と暮らしている。
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