第3話 夕暉のホットミルクと雪どけフォンダンショコラ(1)

 耳に冷たい、金属とガラスの触れ合う音がする。赤くきらめくのに、ところどころ暗い色をしていて、どろり。瓶詰めのイチゴジャムをフォークで掻き回す夢を見て、私ははっと目を開けた。

 温められたバスのシートに揺られるうちに、ついうつらうつらしてしまったらしい。


 乗り過ごさなくてよかった、まだ家の最寄駅は先だ。なんとなく辺りを見回し、キャンバス生地のトートバッグの中から、さっき行った病院の診察券が飛び出していることに気づく。


『ID 8701 生田みつる 様』


 反射的にまずい、と思って財布の中に仕舞う。会計のときに余分な時間をかけたくなくて、バッグの内ポケットに放り込んでおいたのが災いした。

 でも、すぐに「まずいことなんかなんにもない」と思い直す。


 皆と同じように少女時代を過ごし、普通に成人して、普通に結婚までしているのに、気づけばいつの間にか普通の人たちとは違ってしまった。

 ここのところ、よくそんなことを思うようになった。すっかり母親業が板についた友達に、「みつるは子ども欲しくないの?」と聞かれることが増えてきたからだ。


 自分の子をとろんと見つめながらの、なんの毒気もない素朴な問いに、毎度びっくりする。

 いくつもの理由と謎が一気に押し寄せて、私を圧倒する。


 一瞬の沈黙のあと、曖昧な笑顔で「うーん、かわいいとは思うんだけどね」と濁す。

 実際に子どもは嫌いじゃない。すくすく健康に育って、善意に守られて、笑顔に溢れる暮らしをしてほしい。


 私みたいに願うばかりでなく、言葉が通じずに泣き叫ぶ危うい命をつきっきりで守る親も、心底偉いと思う。

 でもさすがに、先ほど病院の待合室でたまたま出くわした瑠梨るりが、例の質問をしてきたときには、言ってしまった。


「『欲しい』っていう欲望で、先の責任なんか取りようのない命を『なんとかなる』で産むのって、怖くない? 

 一度も考えたことないの? どんなに愛を持って育てたつもりでも、どうして生まれてきちゃったんだろう、て思う子だったら? って」


 いつもの私はここまで不躾ぶしつけじゃない。

 でも、「子ども欲しくないの? えっ、欲しくないの!?」「なんで? かわいいよ~、産んじゃえばなんとかなるって」「私、次は女の子が欲しいんだ」と無邪気に畳み掛けられて、気がつけば。


 瑠梨は憮然ぶぜんとした表情を隠さなかったけれど、やがてその瞳に憐れみを浮かべて曖昧に微笑んだ。

 まるで私が「かわいいとは思うんだけどね」と笑ったときのように。そして、受付に名前を呼ばれると、晴れやかな笑顔で去っていった。


 子どもが産まれたら、皆おめでとうって言う。私だって言う。だけど、命を生み出すって果たしてそんなにいいことだろうか。だって、生きるってなかなか大変じゃない?


 毎朝起きて伸びをするたび、また1日が始まったな、とくたびれた気持ちで思う。満員電車に揺られながら、定年までこれが続くのかと思うとうんざりする。いや、定年なんて贅沢なものは、もう私たちくらいの世代からなくなるんじゃないか。


 なんとなく選んだお弁当を「あ、いま食べたいのこれじゃなかったわ」と思いながら食べ、欲しいけど高いなってものを諦めて似た感じのイマイチなほうを買い続けるうちに、自分の中の何かが死んでいく。


 裕福な人にも恵まれた人にも競争があって、くだらない勝ち負けがある。人に生まれたからには皆、肉の牢獄に閉じ込められ、頭の中の声に責められ、夜中にその日一日のあれやこれやを思い出して「あーっ」って叫んで生きている。

 川の流れに削り取られて小さくなっていく石みたいに、どこまで続くのかわからない日々に摩耗していく。つまりそう、生きることはそれ自体が労働だ——。


 さんざん繰り返して飽き飽きしている思考を巡らせるうちに、じわっと酸っぱい唾液が込み上げてきた。私は慌ててブザーを押し、知らないバス停で降りた。

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