第2話 グリューワインとフラミンゴのお菓子の家(3)

「すっかり温まられたご様子で安心いたしました。次はスイーツをどうぞ。ここちらもドイツの伝統菓子、レープクーヘンです」


 差し出された白いお皿には、分厚めのクッキーのようなものが盛られている。

 チョコレートがけされたもの、ホワイトチョコレートでコーティングされているもの、粉砂糖が振ってあるもの、ナッツや赤いチェリーが埋め込まれているもの。

 形はさまざまで、丸や星、雪の結晶や人形型まであった。


「かわいいですね! 宝石箱から取り出してきたみたいでわくわくする! クッキーみたいですけど、どう違うんですか?」


「クッキーのようにも見えますが、実はケーキの仲間なのです。一般的にクッキーやケーキに使う牛乳や卵、バターは使わず、太陽の半分を溶かして作った、と言っても過言ではない量の金の蜂蜜を使い——」


 太陽の半分? そんなに? と私はくすくす笑った。グリューワインのせいで少し頭がぽーっとしているみたいだ。

 セノイさんも軽く頬をほころばせる。


「さらに大量のナッツを砕き入れ、スパイスと併せて混ぜ込み、生地を作ります。

 出来上がりの硬さはお店によって異なりますが、当店では中はしっとり、外はざくっと焼き上げ、クーベルチュールチョコレートでコーティングしております。ずっしり重く、お腹にも溜まるボリュームです。グリューワインとの相性も抜群ですよ」


 セノイさんが言い終わるか否かくらいのタイミングで、私はレープクーヘンを持ち上げた。本当だ、想定していたよりみっちとした重さが指に伝わる。

 いただきまーす、と口に運ぶと、薄く上品なチョコレートのコーティングがぱりっと小気味よい音を立てた。


 続いて、ざくっ、ほろっとした歯触りに目を細めながら、口の中に広がる複雑で力強くて、どこか懐かしいスパイスの香りに巻き込まれていく。

 太陽の半量もの蜂蜜を入れているだけあって(!)目が覚めるように甘いけど、アーモンドやくるみといったナッツの香ばしく重たい味わいが、どんどんとあとを引く。

 だめだ、こんなおいしいものを知ってしまったらもう引き返せない、という味だ。


「あなたなしじゃいられない、というような?」


 私、心の中を実況でもしてた!? という焦りに、思わずナッツを喉に詰まらせそうになる。んぐぐ、と唸ると、セノイさんはすぐにハーブティーを出してくれた。


「失礼、軽口が過ぎましたね。カモミールティーです。底にサイコロ状に小さく切ったリンゴを入れております。甘い香りが引き立ちますよ」


 優しい笑顔に騙され——うん、なんかわかんないけど騙されていると思う……もしくは遊ばれながら、カモミールティーでリラックスし直す。

 ふとまぶたを開けると、そこには日常を忘れてしまうほど見事な百合たちが揺れている。風にそよぐ姿は歌っているみたいで、喜びに興奮気味だった心がしんみりといだ。


 ふと、命がけの恋を失ったことを寂しく思い出す。

 涙が流れる。3年分の甘い毒が熱く流れていく。


 はっと視界の裾に気づいて斜向はすむかいに目をやると、いつの間にかセノイさんが同じテーブルについていた。

 ちょっと気怠げに椅子の肘掛けに両腕を預け、軽く手を組んでいる。


 長いまつげに隠された伏し目の先には、先ほど入り口で見たお菓子の家があった。

 座ったのも、お菓子の家を運んできたのもいつの間に、とはもう思わなかった。ここはそういうところなのだ。


 ちらりといたずらっぽく瞳を上げた彼は、まるで内緒話をするようにささやいた。


「困りましたね、壁の色が決まらなくて。レープクーヘンの素の色も素朴でいいけれど、もっと華やかなほうが楽しいでしょう?」


 そうか。私が食べたものより、こっちは薄くて硬そうでクッキーっぽいけど、これもレープクーヘンなんだ。

 そして、建て替え中だって言ってたな。


「そうですね、私は華やかで、楽しいほうが好き。ぽっと体温が上がるような、まるで」


『恋をするような』


 ふたりの声が揃って、私たちは思いきり笑った。素のままの色の壁を剥がしながら、セノイさんが聞く。


「何色がいいと思いますか?」


「決まっています、フラミンゴピンクです」


「かしこまりました」


 セノイさんが食器をテーブルの端によけてくれ、お菓子の家が載った銀のお盆を私のほうにすっと滑らせる。

 お菓子の家の足もとにはたくさんのレープクーヘンが転がっているが、セノイさんがとある一角をそっと手のひらで示した。私はその辺りを慎重に掻き分け、お目当てのものを探す。

 最下層にそれはあった。フラミンゴ色にアイシングされた、壁用の四角いレープクーヘンだ。


 私は絞り袋に入ったアイシングで、喜々として壁や屋根をくっつけていった。

 ただのフラミンゴのお屋敷じゃ芸がない。もっと華やかに、楽しく、例えばマリー・アントワネットが「それいいわね!」って言ってくれるようなものを作りたい。


「セノイさん、シルバーのあのパチンコ玉みたいなチョコレートとか、ペールピンクやブルーのドラジェ(※)なんかも持ってきて!」


 彼は赤い切れ長の瞳を困ったように下げ、「アラザンですよ」と笑ってそれらを持ってきてくれた。ふたりで協力して、アイシングで壁に貼りつけていく。

 思い出してきた。仕事が楽しくて楽しくて仕方なかった頃を。

 頭の中にデザインの設計図がぱーっと広がって、ラインストーンを置いていく指がまるで追いつかなかった。


 わくわくはお客さんにも伝わって、どんどんきれいになっていくネイルを一緒に息を呑んで見守った。

「為家さんに頼んで本当によかった」「来月もまたよろしく」と言われるたび、生きていてよかった! という喜びで胸が気球みたいに膨らんだ。


 懐かしい。自分を押し殺さなくても、自分らしくいることでみんなが喜んでくれる世界。

 どうして忘れてしまえたんだろう。毒にまみれた日々のほうがいいだなんて、なんで思えていたんだっけ。


 セノイ助手に手伝ってもらいながら夢中でパーツを組み立てるうちに、私だけの素敵なお家が現れていく。

 ここは私の世界。誰にも踏み入られることのない、かわいくて愛おしい私だけの家。


 いつの間にか力がみなぎっていく。熱い血潮が体を超えて、オーラまで満たしてしまいそう。

 たぎる、沸く、注ぎ込みたい、太陽の半分にもなる蜂蜜みたいな私の命を!

 

「できた……!」


 最後の屋根飾りをつけ終えると、私は大きく溜め息をつくなり、すとんと椅子に倒れ込んだ。集中しすぎて、いつの間にか中腰で作っていたらしい。

 ぱちぱちぱち、と優雅というか、マイペースというか、な拍手が聞こえてくる。


「素晴らしい! 感服いたしました。為家様の卓越したセンスと創造性、集中力が、こんなに美しいヘクセンハウスを作り上げた。

 華やかでいて唯一無二、そしてダイナミック。パワフルで高尚な為家様がお住まいになるのに、今度こそぴったりですね」


 惜しみない褒め言葉に、思わず頭を掻いてしまう。


「お住まいに……というか、あの、なんですか? ヘク何ハウス?」


「ヘクセンハウス、です。ドイツのクリスマスシーズンによく見る、手の込んだ美しいお菓子のお家ですよ。直訳すれば『魔女の家』となります」


 魔女の家? どうして? と小首を傾げたけれど、思い当たることがあった。そういえば、ヘンゼルとグレーテルが魅了された、おいしそうなお菓子の家の家主は魔女だった。

 なんだかおかしくなって、ふふ、と微笑みながら言う。


「じゃあ私、魔女なんですね。これからここに住むんだもん」


「女性は皆、魔女ですよ。ご存じだったはずなのに、たちの悪い毒にやられてお忘れになっておいでだったのですね」


 セノイさんが赤い目をきらりと細めると、右目の下の涙ボクロが頬に押されてふっくら盛り上がった。 


 謎めいていて、上品なお店の執事さんらしくどこかつん、と気位が高い感じはするのに、気づけば隣で談笑しているような不思議な距離感の人。

 ウインクなんてしちゃうけど、それはキザというよりは単にお芝居の世界から抜け出てきた人だから、という気がする。

 

 いいな。次は儚げ美人のミステリアス彼氏とか、狙ってみる? 

 そんなことを考えていると、セノイさんがぶるっと身震いをして、一瞬こちらを伺うような不審げな顔つきをした。


「あの、セノイさん今、眉をひそめましたよね?」

 

「まさか、為家様。執事たる者、そのような不遜ふそんな振る舞いをするわけがございません」


「いや、絶対ひそめましたよね? 嫌な顔しましたよね?」


「いいえ、しておりません」


「いやいや、私見ましたよ。絶対に今——」



※ドラジェ……糖衣菓子。多くはピンクや黄色、ブルーなどの儚げでかわいらしい色合いをしている。ここでは平たくて丸い形状のものを使用。

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