第43話 殴らなきゃ男じゃない

 イスメトは荘厳な宮殿の中を歩いていた。


 美しく磨かれた大理石の床。立ち並ぶ白い列柱。

 壁や天井には極彩色の装飾画が施されている。神殿装飾とは違う。なぜなら神聖文字ヒエログリフが見当たらないからだ。


「……っ」


 時折走る肩の痛みに、イスメトは歯噛みした。

 その痛みは現実世界との繋がりを嫌でも思い出させる。自分が何のためにここにいるのかを再認識させてくれる。


 ここは荒神すさがみセトの中。

 闇が神の感情を反映して作り出した、セトの精神世界だ。


 まっすぐ続く廊下を抜け、長い階段を上りきる。

 その先に現れたのはだだっ広い空間だった。

 毛皮や絨毯が敷かれた部屋の最奥には、ごうしゃな椅子が置かれている。


 まるで玉座だ。


【よォ……また会ったな小僧】


 その上に片膝を立てて座る男。

 そいつはこちらを見るなり、口の端をつり上げたように見えた。


 見覚えのありすぎる異形頭。

 だが一つだけ、イスメトの記憶と異なる箇所がある。

 それは目だ。


 赤い瞳は変わらずだが、そのこうさいには闇がうごめき、血走ったように黒い亀裂を走らせている。

 まがまがしい。

 沸き上がる嫌悪感はイスメトの眉根に皺を作らせた。


「お前はセトの半身か? 本物のセトはどこだ!」


 現実世界同様、右手に握られていた〈ペセジェトの槍じんぎ〉を構える。


【本物? ククク……あァそうか。テメェは俺がニセモノだと思ってやがるのか】


 異形は笑い、椅子を蹴倒しながら立ち上がる。


【いいか小僧。俺が奴の半身なんじゃない。奴が俺の『シュト』なのさ。奴はセトという神の半分どころか、十分の一の力も使えちゃァいない】


 異形は自身の顔を手で覆う。

 いつかどこかで見たような仕草。

 その手が顔から離れると、さらに見慣れた男の容貌が現れた。


【何とかの顔も三度までと言ったか……?】


 目の前の存在があまりに彼と同一すぎて、イスメトは動揺する。

 が、すぐに思い出す。

 コイツはどんな存在にも化けて演じる、混沌の化身だ。


 それに万が一、コイツの言うことがすべて事実だったとしても。

 自分のやるべきこと、〈願い〉は、何一つ変わらない。


【最初は弱き己自身に。二度目は神々の築いた秩序に。そして三度目は、終わりの見えぬ戦いと裏切りの果てに――】


 男は〈支配の杖ウアス〉を自身の肩に打ち付けながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 隙があるようでいて、全くない。


【もはやことわりに従う道理は無しと、三度も同じ結論を出しておいて……なおも抗う愚かなシュトよ。今さらお前はどこへ向かい、何を成そうと言うのか】


 目の前の男はこちらを見てこそいるが、紡がれる言葉は会話の体をなしていない。

 まるで自問自答をするかのようである。


【俺を解き放てば世界など――秩序など! すべて食い尽くしてやれる! ようやく……ようやく!! それだけの力を得るまでに至ったのだ!! 何をためらう理由があるッ!?】


 突然、男は癇癪かんしゃくを起こしたように戦杖せんじょうを振るう。それはイスメトを捉えるでもなく、近くにあった柱を幾つも粉砕した。

 無残な瓦礫がれきの山が、荒ぶる神の足跡のように増えていく。


「お前は……世界を壊したいのか?」


 イスメトが問いかけると、男はピタリと破壊活動をやめた。


【壊す? 違うな。これは救済だ】


 返されるのは、飢えた獣のような眼光。


【この肉体うつわもそう言っていただろう。ことわりを外れ、何千年と生きてきたからこそ、この依代も理解したのだ。この世に真の安寧など訪れぬとな】


 肉体、とはザキールのことか。

 確かに彼は大昔の話をさも見てきたかのような口ぶりで語った。

 混沌による呪いが、人外の長寿を授けた可能性はある。


【歴史は繰り返す……安定は腐敗を招き、腐敗は崩壊へと繋がる。人々が願い、神々が創ろうとする秩序など、所詮は絵空事にすぎない】

「だから……全部壊すのか? 神様の役目を放棄して」

【役目だァ? ハッ! その『戦神』とかいう役目自体、矛盾の塊だがなァ!?】


 男は戦杖を床に打ち付け、たけだけしくえる。


【いくらニンゲンどもが安寧を求めて争おうとも、この世に恒久平和など存在し得ないことは自明の理! 仮に実現したとして、今度はどうだ? 戦神の存在意義が消滅し、俺はどのみち虚空に消え果てる運命だ!!】


 その怒りの炎は、いったい誰を焼くためのものか。

 あるいは対象が存在しないからこそ、なおさら強く、果てしなく、燃え上がるのだろうか。


【他人から与えられた役目なんざ所詮、穴の空いた器。いくら砂を注ごうが、時とともに下へこぼちる。そんな欠陥だらけの砂時計から、最後の一砂が落ちるまで待ったところで――世界は何も変わりゃしねェ】


 男は指先から砂を生み落としながら、乾いた笑みを浮かべる。


【ならいっそ、すべてを壊しちまった方が、新しい秩序の芽生えに期待できるってモンだろォ……なァ?】

「――ウジ虫」


 イスメトは思わず口走る。


【……あァ? オマエ、今なんつった……?】


 途端、男の目が暴力的な輝きを宿した。

 視線で焼き殺さんばかりの鋭利な眼光。

 だが、イスメトはひるまず、そのそうぼうにらみ返した。


「さっきから……っ、ぐだぐだウジウジ鬱陶しいって言ったんだ! このウジ虫野郎ッ!!」


 イスメトの紫紺の瞳にもまた、怒りの炎がともっていた。


「どうせ壊れるから? どうせ死ぬから!? 人も神も世界も――存在する意味がないって言うのか!!」


 その怒りは、自分たちの人生を否定されたことに対するものではない。


「ならやっぱり……お前はあいつのニセモノだッ!!」


 すべてを諦めたような目で。

 あいつと同じ顔と声で。

 あいつが絶対に言わないようなことを吐いてあいつの在り方を穢した。


 そのことが、何よりも許せなかった。


 イスメトが動く。同時に相手も床を蹴る。

 人器と戦杖が、互いの柄を打ち鳴らす。

 だがその攻防は数秒と続かず、間もなくしてイスメトは全身を床に叩き付けられた。その手を離れた槍が、カランと虚しく床を転がる。


【ハッ! アホかオマエ。言っただろう? 俺はヤツの数倍、数十倍の力を――】

「っ、だからどうした! いくら強がったって、僕の中でオマエがあいつの足下にも及ばないっていう事実は変わらないぞ!!」

【あァ……?】


 たった一度の打ち合いで、全身が悲鳴を上げている。

 肉体ではなく、存在そのものを削り取られるような痛みと軋み。

 それでもイスメトは地を這って手を伸ばし、人器を再び掴んだ。


「あいつは死者を愚弄しない! 人の努力をわらわない! プライド高くて意地っ張りで、不器用だし乱暴だし道徳観とかぶっ飛んでるとこあるけど……それでも、あいつは――!」


 あいつは父さんのために、怒ってくれた。


「生きることが無意味だなんて、絶対に言わない――ッッ!!」


 イスメトが床を蹴ると同時に、男もまた戦杖を構える。

 ギィンと鈍く金属音が響いた。

 イスメトは突き出した槍が打ち払われる瞬間に相手の得物の上を滑らせ、そのままつばぜり合いのような状態へと持ち込む。


「永遠の平和が欲しいなら、手に入るまで戦えばいいだろ! 戦神の存在理由? そんなの、無くなってから考えるのがお前だろ! 不滅の神なんじゃなかったのか! 何度だってやり直せよ! 最初に掲げた野望すら貫けないようなヤツが、その先のことでウダウダウジウジ悩んでんじゃねぇよッ!!」

【――ッ!】


 苛立ったように振るわれた男の豪腕が、槍を押し返す。

 その衝撃だけでイスメトの体はいとも簡単に後方へ吹き飛ばされた。

 だが、今度は受け身を取れた。


「いつか終わるモノに意味を見いだせないのは、オマエが逃げてるからだ! 理想を得るための戦いから! 夢に敗れる恐怖から! 必死にいて、もがいて……生きることから!」


 まるで、いつかの誰かみたいだと思った。


「っ、そんなただの臆病者に! あいつは負けないッ!! 負けてたまるかァァァ――ッ!!」


 片膝をつく形で、構えを崩さず持ちこたえたイスメト。

 その足はすでに、次の一歩を蹴り出している。

 左に持ち替えられた槍。それを握る手に浮かぶ刻印――その最後の三本が、光となってはじけ飛ぶ。


 セトは言った。

 コイツは自分の半身だから、セトの力でははらえないのだと。

 そうだ。この攻撃でコイツを倒せる保証など最初からない。


 あんなに色々と考えて、皆を頼って、ここまで力を温存してきた。

 ホルスにまで協力してもらった。

 それでもイスメトがここに来たこと自体、全く意味がないことかもしれなかった。


 ――それでも僕は、最後まで足掻くと決めたから。


 吹き荒れる豪風を身にまとい、イスメトは男の懐に潜り込んだ。突き出した槍は、男の喉元へ届くよりも先に戦杖に打ち払われる。

 手首に伝わる嫌な感触。

 槍はあっなくイスメトの手を離れた。


【クハッ! 馬鹿め! 俺の技が俺に通用するとでも――】


 だがそこで、男は一抹の違和感を感じ取ることになる。

 このガキの利き腕は確か右だったはずだと。


 この技は正真正銘、最後の奥の手。

 にもかかわらず、なぜ握りを左へ変えた――?


 その答えは、目の前にあった。


【ゴ、ガ――ッ!?】


 見開かれる禍々しい双眸。

 イスメトの振り抜いた右の拳はまっすぐに、神の左頬にめり込んでいく。


 最初から、槍はおとりだった。

 物質世界では神器を通してでしかこの技を放つことができない。だからコイツは必ず、武器を弾くことに全力を注ぐと思った。


 だが、ここは魂の世界だ。

 魂の世界では自分の信じたことが実現する。


 ならお前には、この攻撃が一番、効くはずだ。


『テメェの最も大事なモンをけがされてよォ、何も言わねェ、殴りもしねェ! それがテメェの考える誇り高き戦士か!』


 そうさ、殴らなきゃ男じゃない。

 そう言ったのはお前だろ、セト。


「セトを……ッ、返せェェェェェ――ッ!!」


 稲妻のごとくほとばしる神力は、イスメトの拳を通して男の中へと流れ込んでいった。

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