第3話 亡者を呼ぶ霧
その日の晩だったでしょうか。ちょっとした椿事が起こりました。ぐっすり眠っていたはずですが、玄関の方で人が行き来する音がして目が覚めました。なんだろう、と思っているとパトカーのサイレンが鳴ってただ事ではないとわかりました。目をこすりながら玄関に出て行くと、表のドアは開け放たれ寝巻き姿の君江が呆然と立っています。加奈と警官がその前いました。加奈もネグリジェのままです。表を見るとベレットが斜めに止まっていて、ヘッドライトの光が棒のように深い闇を切り裂いて伸びています。その後ろに白バイとパトカーが赤い回転灯をきらきらさせながら待機しています。
どうしたの?
という問いは無視されました。加奈は部屋に引き下がり、やがて洋服に着替えると出てきました。警官は叔母の腕を取り押さえるようにして引っ張り、パトカーの後部座席に乗せています。耳をつんざくようなサイレンが鳴り響き、パトカーとバイクは行ってしまいました。玄関の前にはドアが開いたままのベレットがぽつんと残されています。君江はふらふらと歩み寄るとスポーツカーの重たいドアをバタン、と閉じました。森からわいて出る白い霧は音もなく家へ迫ってきます。
叔母さん、どうしたの?
と尋ねると君江はやっと意識を取り戻したかのように、大丈夫よ、としゃべるのです。間違いだから、と。そのままリビングに入り、カウンターに置いてあった飲み残しのお茶で唇を湿らせています。
悪いことしたの?
違う。ただ、夜中に寝巻きを着たまま、車を運転していたんだって。あたしはぜんぜん気がつかなかったけど、困った人よね。
寝巻きのまま?
そうなの。本人は覚えていないって。そんなことありえるかしら。夢遊病ってのは聞いたことあるけど。歩き回るくらいならまだしもまさか自動車の運転はありえないよね、
と当惑しています。眠ったまま自動車を運転する。どう考えても危険です。ちなみは最初の夜に目撃した光景を思い出しました。
あたし、叔母さんが夜中に庭で歌っているのを見た、
と告げると祖母は椅子に座りじっとちなみを見つめました。あんた、前にもそんなこと言っていたね、詳しく聞かせてよ、と問われたので月夜の情景を思い出しながら語るのです。なるほどね、と祖母は言うのでした。あの人はやっぱり夢遊病なのかもしれない。気をつけなくてはね、と。
翌朝、戻ってきた叔母はさすがに蒼ざめており口数も少なくなっていました。
警察で聞かれたのは野菜泥棒についてだったそうです。そのころ、夜中に畑のレタスやキャベツが盗まれる事件が頻発しており、刑事が張り込んでいたところ怪しい車が猛スピードで突っ込んできたので追跡したとのことでした。スピード違反の切符は切られましたが、泥棒とは関係なさそうだ、ということで無事釈放されたとのことです。
怖いわね、
と加奈は言うのです。泥棒たちのことです。彼らは深夜、どこか遠いところからトラックでやってきて、めぼしい畑を見つけるとできたての野菜を根こそぎ持って行ってしまうのです。警察では言わなかったけど、あたし見たような気がするのよ。黒い影が畑を横切ってレタスを運んでいるのを。アリみたいにずらりと並んで。悪いことをしているようには思えないの。むしろ兵隊さんが勤勉に任務をこなしている感じ。月の青白い光が照っていて切り絵のようにきれいなの。あれも夢だったのかしら。
祖母は首を横にふりため息をつきました。いずれにしても、あんた、夜の間は車の鍵をあたしが預かりますよ、と。
霧に追われていた、加奈は警察でそう話したそうです。
峠を越えて高原へと侵入してきた霧は、木々の間をゆっくりと通り抜けた後、速度を増して道路をすべるように包み込んでしまう。あれに飲み込まれたら視界だけではない、自分をも見失ってしまう、そんなふうに感じてついアクセルを必要以上に踏み込んでしまった、と釈明したらしいのです。
確かに霧の夜はろくなことはない。
君江もそう繰り返しました。
彼女によれば魔物なのです。白いヴェールの彼方では誰かが笑っている声が響きます。音楽と、踊りと、酒と、既に姿を消してしまったものたちがみんな揃っている。さあ、愉しもう。過ぎ去った日々の栄光に乾杯して。男であろうと女であろうと、誰しもが歓迎され職業も年齢も問われない。ただし一つだけ条件があるのです。それは記憶を差し出すこと。すべてを忘れること。霧に包まれるとわたしはもはやわたしではないし、あなたはあなたではない。時は停止し過去と未来の合間で現在は凍結されてしまうのです。
だから窓を開けてはいけないし、ドアも閉じておいてほうがいい。誰かがノックしても開けてはいけない、出かけるなんてもってのほか、悪いものがさまよっているからよ、そうあたしは聞いた、と君江は語ります。
森に迷い込んだまま行方知れずなった狩人たちが、猟犬を駆って、あの世とこの世の境目まで昇ってくる。あたかも昨日、姿を消したばかりのようにやあ、と愛想のいい笑いを浮かべて。だが彼らの問いかけに決して答えてはいけない。相手にしたらたちまち亡者のしきみに連れ込まれる。情けもないし、理屈も通じない。獲物を求めて永久にさまよう定めなのです。終わるということがない。
普段は沼地の淀んだ水面から黒ずんだ頭をもたげてひっそり様子を伺っているだけだが、霧の衣が腐乱した身を隠してくれるのを良いことに、ここぞとばかりに湧いてくる。かつて志のある修行者が供養のために祠を立て、亡者の苦しみを和らげようと森に篭ったこともある。彼がいる間はなにも出てこなかったが、修行期間が果てて僧が去り、いつしか祠の存在も忘れられると元に戻ってしまった。
祖父の達郎はしばしば愛犬を連れて亡者狩りに出かけたのでした。
君江が止めても聞かない。俺にはこれがあるさ、とロザリオを手にしていたが、もちろん気慰みに過ぎない。その代わり、いつも口笛を吹いていた。もののけどもを嚇かしてやる、と。
一度、達郎が宵になっても戻らないことがありました。
君江は心配でしたが言いつけどおり鎧戸を閉じ、暖炉の薪をくべながら待っていたのです。夜も更けて玄関の戸をたたく音がしました。一回、二回、と繰り返す。達郎は鍵を持っているはずだ。火の前に佇んでいると、呼びかけは執拗になります。万が一、鍵を落としたということはないか。亡者に追いすがられているのではないのか。次第に不安が高まり心配になったのです。とりあえず様子を見に行こうとすると、バチッ、と薪がはぜました。戸惑っているうちにノックは止み、代わって口笛が響いて鍵を開く音がするのです。達郎が全身ずぶ濡れになりながら愛犬と共に戻ったのでした。
あのときは本当に怖かったよ、
と君江は言うのです。達郎はもののけどもの土地に迷い込み、惑わされたとのことでした。道が途切れ、池に転落したのです。革のコートと毛糸のセーターが水を含んで重くなり危うく沈みかけましたが、犬が助けてくれたのだそうです。
あなたの帰る前に誰かがドアを叩いたのよ、
と告げると達郎はきっと鋭い目になりました。まさか開けたのではないだろうね、というのでもちろん、と答えると扉の前に戻って施錠を確かめたそうです。もし開けていたら? 君江が君江でなくなっていたのかもしれません、達郎は最悪の可能性を悟って警戒したのでしょう。
その頃はまだ明確な悪が存在していたのです。悪は悪らしく、善と対峙し、容赦なく牙をむきました。守る側も正面を見据えて闘えばよかったのです。
今は悪のありかが曖昧です。
白と黒が混ざり合い次第に灰色に溶け出しています。騙し騙され、騙し合いながら後退し道を見失うのです。
おばあちゃんは亡者を見たことがあるの?
とちなみが尋ねると君江は目を細めました。
霧の日、夕方になるとね、たまに遠くで口笛が鳴るのよ。空耳かもしれないけど。決して嫌な感じはしない。でも自分たちとは違う存在だってわかるの。窓の向こうを通過するとき、ひんやりとした感じがしてね、
そんなふうに教えてくれるのです。でも、絶対に近寄ってはダメよ、と。へえ、とちなみは朝靄の漂う庭に目を転じました。天候は回復しつつあり、次第に明るくなってきます。太陽の光が時折、雲の割れ目からさすと、濡れそぼった草木が輝きます。花壇には花が咲き乱れ、穏やかな朝でした。
あたしは反対したのよ、と後に母の鈴代からは聞きました。
あれもやはり夏休みで、高校生になっていたちなみは父親に内緒で名古屋まで会いに出かけたのです。待ち合わせたデパートの喫茶店に現われた鈴代は白いスーツに身を固め、颯爽とした姿でした。埼玉の団地で暮らしていた頃とは別人のように見えます。事業が成功して二軒の店舗を経営していると聞いていました。目元に皺が寄り、年齢は隠せませんが、メリハリの利いた化粧で華やいだ雰囲気に見えたものです。毎日、父親と喧嘩していたころとは違って、穏やかな笑顔で成長した娘を迎えてくれたのですが、ちなみのほうはどうしても違和感をぬぐいきれませんでした。もはや彼女がよく知っていた母親ではないのです。
ねえ、大丈夫なの?
とアフターヌーン・ティーセットを注文した後、母親は問いかけるのです。今からでも遅くない、名古屋に来てもいいのよ、と。二人が離婚する際、彼女はどちらの親と暮らすか決めなければなりませんでした。両親とも本人の意向を尊重する、と言いましたが正直、どちらがいいとも思えませんでした。父親の芳郎の家に残ったのは住み慣れた土地から離れるのが面倒だった、ただそれだけなのです。高校を出るまでの数年、耐えたら家を出ようと思っていました。
馴れてしまえば父親があまり自宅にいないことはかえって楽でした。家事さえこなせれば、それまでと生活は変わりません。高校では商業簿記と会計を学んでいる、と伝えると鈴代は嬉しそうに頷きました。
いいじゃない、あたしもそうだったけど手に技をつけるの。男の人に頼らなくて生きていける。とっくにそういう時代よ、と。そして加奈の話になったのです。今だから言うけどさ、と。
母親によれば加奈は職場の同僚といわゆる不倫の関係になっているとの噂があり、ついには男子生徒に対して色目を使っていると密告されて休職する羽目になったというのです。とにかく異性関係が乱れていた、と。そんな叔母がいる家に娘を滞在させるのは教育上良くないとはわかっていた。しかし父親との関係がこじれ、他に選択肢はない状態だった、というのが鈴代の言い訳です。話がついたらすぐにあなたを連れて名古屋に出るつもりだったのに、と。
叔母さんは悪い人ではない、
とちなみは辛うじて反論しました。ただ霧に惑わされただけで、と。鈴代は驚いたような表情になりましたが、そうか、そうね、と肩をすくめ、関心の対象にすら値しない、といった態度を示すのです。ポットに入った紅茶と豪華な三段の皿に飾られた菓子類が出て、会話は途切れました。
喫茶店を出ると二人はテレビ塔のある大通りを横切って、鈴代の店に行きました。フランス語の店名が掲げられた白いファサードは外国のようで、ちなみも目を見張りました。店内はモダンな内装で向き合う鏡が澄んだ光を宿していました。普段、通っている自宅近くにの美容室とは大違いです。スタッフはみんな凝った髪形で、服装もモードを感じさせるものでした。チーフらしき若い男は挨拶しながらまなじりをすっと細めて笑います。
いらっしゃい、と呼ばれてちなみも鏡の前に坐りました。
母親は慣れた様子で髪をさわります。なんだか照れ臭いような、怖いような感覚もありました。彼女が二言、三言指示を出すと、ハイ、と威勢のいい返事が飛び交い、きびきびとスタッフが動きます。髪を洗われ、見たこともない手さばきでカットされ、トリートメントまでされると、なんだか自分が喪われていくような奇妙な思いに囚われます。これはあたしではない、と。
なんなのよその顔は、と母親はたしなめます。笑って! そう、女の子の魅力は顔の造作ではないのよ、表情が命。髪はそれを引き立てる額縁なの、と。
ちなみは無理やり微笑もうとしたのですが、どうしてもちぐはぐになってしまいます。
あたしには無理だ、と思いました。この店に自分の居場所はない。そこは心と身体が分離してしまった大人が自己を演出するために訪れる場所なのです。いいか悪いかは別として、今の彼女にはそぐわないし、必要もない贅沢なのでした。
帰りがけに鈴代は封筒を渡してくれました。現金十万円。化粧品でも買いなさい、と。あなたはこれからが花盛りよ、人生の春を謳歌しなさい、後悔しないように、と。その言葉をかみ締めながら地下鉄に乗っていると、母は叔母のことをうらやんでいるのではないか、と思えてきました。だから悪しざまに言うのではないのか。実は加奈の奔放な生き方こそ正解で、それと比べて地味だった自分の芳郎との日々を惜しんでいるのではないか、と。だから若さを取り戻そうと必死に美容に励むのですが、喪われた時は決して取り返せない、そういうことではないのか。
鈴代のメッセージは矛盾しているのです。一方で叔母の異性関係を責め、他方で若さを謳歌しろ、と。娘であるちなみにとってはいささか悲しい解釈でした。地下鉄の車窓に映る自分の姿は青白い亡霊のようで醜いものでした。
高原の青空と蝉の声、月夜の神秘的な光と祖母の家のほんのりとランプの灯った窓辺に思いを馳せ、あそこに戻りたい、とちなみは念じたのでした。
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