夜ではなく夜の憑依として

晶蔵

第1話 夏のはじまり

 ちなみが軽井沢の家を初めて訪ねたのは、中学二年生の夏休みでした。

 中軽井沢の駅から車で十五分ほど、なだらかな林の中に切り開かれた別荘地で自動車がないと不便な場所ですが、緑豊かで静かな環境に都会育ちの彼女は感動したものです。

 建物は木造の平屋で、敷地は広く、レンガで組まれた門柱は堂々としていました。宵になると小さな黄色い電球が門の上に灯っていた光景を懐かしく思い出します。ゆっくりと藍色に暮れていく木々の間に金色の光が広がり、昼と夜の境目の秘密の扉が開くのです。ふくろうが鳴き、集いていた虫たちの声は静まります。

 あの時間はどこか遠い場所へとつながっていました。

 すぐそばにあるような気がするのに決して手は届かないのです。なんだか心細くなって暗がりをふり返る彼女に、大丈夫だよ、と繰り返していたのは近所の均という男の子でした。ちなみよりいくつか年下でやはり夏休みの間、東京から避暑にやって来ていたのです。

 あしたまたね、

 と二人はちなみの家の前で別れるのでした。見送っているとチェックのシャツを着た均の背中は、次第に木々の投げかける影に包まれてしまいます。時折、小道の上でほの白い輪郭が跳ねるように動き、やがて完全に闇にまぎれてしまいます。

 均の姿が消えてしまうと、そこにいるのは、自分と、背後に寄り添うように漂っている夕闇の気配だけなのでした。

 記憶の彼方で足音が響いています。

 両親はいつの間にか先に行ってしまい自分は取り残されました。一人で歩まねばならないのです。頼りになる人はいません。父の芳郎の仕事はテレビ番組の制作で留守がちでした。たまに帰ってきても疲れ切って倒れるように寝込むだけです。母の鈴代はそんな有様に嫌気がさしたのか、家を出るかもしれない、と芳郎を脅していました。彼女も美容師として働いており、それなりに忙しかったのです。夏休みの始まる頃には二人が大喧嘩して家の雰囲気は最悪でした。責任のないちなみまで邪魔者扱いされ、いたたまれないのです。結局、夏休みの間は父方の祖母のところで過ごしなさい、ということになりました。「軽井沢で避暑」となれば、優雅に聞こえますが、心中は穏やかではないのでした。

 祖母の君江は油絵を描くのが趣味で、居間にはイーゼルが置かれていました。セルロイドの眼鏡をかけ、小太りの身体を花柄のワンピースで包み、いつも動き回っている元気な人で、大きな声でよく笑いました。軽井沢の家は、元々は祖父の達郎が建てた別荘ですが、没後、君江が一人で移り住み、そこに叔母の加奈も同居していました。加奈は祖母に似て活発な人で、ちなみが一人で軽井沢の駅に着いたときは車で迎えに来てくれました。当時はまだ新幹線もなく、山小屋のような駅舎があるだけの小さな駅で、ひんやりとした空気に慄然としたのを覚えています。改札で花飾りのついた大きな帽子を振って合図している派手な女が加奈でした。目がパッチリとして、分厚い唇に濃いルージュを塗った叔母はいつも髪を後頭部に束ねて化粧の薄い母親とはずいぶん違った類の大人に見えました。そしてはちきれんばかりの胸元が嫌でも眼に飛び込んできます。乳房の成長が気になる年頃でしたから、すごいなあ、と思わず見とれるのでした。

 駅前に真っ赤なスポーツカーが止められており、叔母はサングラスをかけるとエンジンをうならせ、激しくギヤチェンジを繰り返しながら高原の道路を走り抜けたのでした。ベレットという古い型の国産車でしたが、イタリア人のデザインなのだと自慢していました。

 到着した瞬間の感動を忘れることはありません。

 敷地のほとんどは木々に覆われており、小さな前庭は芝が敷かれていました。そよ風に枝が揺さぶられ木漏れ日が庭に踊っています。洋館風とでも呼ぶべきでしょうか、板張りのサイディングを施した建物で薄いベージュに塗られていました。祖母は絵を描いていたらしく、絵の具のしみのついた長いエプロンをつけパレットと筆を手にしたまま玄関に出てきて、あら、お帰り、と声をかけてきます。初めて訪ねたのにお帰り、という言葉をかけられたことでなぜかじん、と胸の奥に来るものがありました。玄関には靴脱ぎがなく、板張りの床の上でスリッパに履き替えます。天井は高く、正面に大きな振り子時計が据えられていました。

 内部は思ったよりも広く、ちなみも隅の小さな部屋が与えられました。これがとても嬉しかったのです。埼玉の自宅は団地で、勉強用の四畳半はあてがわれていたのですが居間と障子で隔てられただけのものでした。テレビの音はうるさかったし、押入れには母親の衣類が入っていたためしょっちゅう出入りされ落ち着かなかったのです。

 部屋の奥にはベッドが据えられ、机と椅子もありました。物語の主人公になったみたいだと感じたものです。窓を開けると目の前は花壇で蒸れた草の匂いが立ち上っていました。

 さあ仕事よ、と君江が両手を打ち鳴らします。

 仕事?

 そう、荷物を解いたらまずはトマトの収穫、ジャガイモの皮むき、それから芝刈りと洗濯物の取り入れ。やることはいっぱいあるんだから。働かざるもの食うべからず、

 そう宣言されて目を丸くしました。

 母親の鈴代はいつも黙々と一人で家事をこなし、手伝おうとすると邪魔だから、と剣呑にするのです。あんたなんかどうせ役に立たないから、と。

 さっそくぶかぶかの麦藁帽子を借りて庭に出たのでした。家も、帽子も、庭も慣れない匂いに満ちていました。ハチが飛んできては悲鳴を上げ、足元を這いずるトカゲに飛び上がり、泥だらけになってしまった手でぬぐったので顔まで真っ黒になり、と初日は激しい格闘のうちに過ぎました。

 夕食の頃にはへとへとでこんな有様でこの先どうなるのか、と思いやられたものです。とにかく空腹でジャガイモのスープやトマトのサラダを次々にお代わりしました。風呂に入って、あてがわれた小部屋に行くと、机の上のランプを灯しました。毎日考えたことをノートに書く習慣があったのです。必ずその日のうちに書くこと、さもないと大切なことを忘れてしまうから、これが父の言いつけでした。シェードは桃色で小さな光の輪が広がります。

 ノートを開き、さてなにを書こうか、とペンを手にしたところまでは覚えています。そのまま寝入っていました。気がついたのは、外で風が吹いたからでしょうか、カーテンが揺れていたのです。

 窓辺に立って外を伺うと、空の低いところに赤い月が出ていました。満月を過ぎたのか少し欠けているように見えます。森からは虫の声が控えめに響いていました。わずかな月明かりの下にすべては穏やかなたたずまいを見せるのです。

 そのとき、白っぽいものが視野を過ったのでした。

 なんだろう?

 目が慣れてくると人間だということがわかりました。手にした布地のようなものをひらりと振り回しています。誰だろう、と見つめているうちに怖くなってきました。家から持ってきた折りたたみ式の目覚まし時計が枕元にあったので覗き込むと午前一時を示しています。

 途切れがちに声も聞こえてきました。

 歌でしょうか。女の声です。言葉までは聞き取れませんがお化けではなさそうでした。もう一度、窓から身を乗り出して眺めていると、人影は芝生の上をゆっくりと踊るように行ったり来たりしています。どうやら叔母の加奈ではないか、と思えました。

 

 朝食の席で、昨日の夜、庭で歌っていませんでしたか、と叔母に尋ねると、あら、おかしなこと言う人ね。と笑われました。あたし、お酒を飲みすぎちゃってぐーすか寝ていたのよ、と。

 祖母はちらり、と鋭い目で叔母を睨みます。あんたね、いいかげんになさいよ、不良みたいな真似は、と。

 叔母ではないとすると自分の見たのはなんだったのだろう、そう加奈はいぶかしみました。寝ぼけていたのか、夢だったのか。そうとも思えません。祖母でも叔母でもないとしたら誰なのか。

 その日は、畑仕事の資材を買い出しに行くとのことで農協へ出かける叔母に同行することになりました。前日とはうってかわって古びた小型トラックに乗せられ、舗装されていない道路を揺られます。

 あれが隣の鈴木さん、一番近い家よ、

 と示されたのは巨大なログハウスでした。すごい、と歓声を上げると、カナダ製だと説明されます。

 お金持ちなのかな? 

 叔母は首をかしげて口笛を鳴らします。ご主人がすてきな人なのよ。商社を辞めて会社を経営しているって。息子さんが一人居てときどき見かけるわよ。いつも網を持っていてね、虫に詳しいのよ。背はあんたより大きいけどあどけない感じ。お父さんに似てこっちもなかなかハンサムなの。

 叔母の運転は荒っぽく、わだちがあると、ドン、と車体ごと跳ねるのでした。

 ちなみちゃん、彼氏はいないの?

 唐突な質問が一緒に飛んできます。

 カレシ? 

 そうよ。好きな男の子。いるでしょ?

 クラスのメンバーの顔が思い出されます。誰かと誰かが付き合っている、なんていう噂もありました。でもたいていは片思いで恋愛はまだ遠い世界です。同級生の男たちはまるで子供じみていて、とても憧れの対象になどならないのです。愛はキビシイわ、などとふざけてつっつきあいコバルト文庫やハーレクインロマンスを読みふけってドラマチックな恋愛を夢見ていたものです。

 いないよ。

 嘘だァ、と叔母は笑います。あたしにだけ告白しなさいよ、と。ブラスバンド部の工藤先輩、と小声で告げると、どんな人なの、顔立ちは俳優の誰に似ているの、どういう点が好きなのか、話しかけるきっかけはないのか、など根掘り葉掘り聞かれたのでした。

 いいなあ、若いって、と最後はため息で結ばれるのです。よせばいいのについ、

 叔母さんの初恋は?

 と尋ねたものだから大変です。自分が中学生のころはどんなに積極的だったか、ユウジだかヒロシだか、惚れぬいた男と家出しようかとも考えたこと、相手が現れず泣いて一夜を過ごしたこと、裏切られたと考えて殺そうとまで思いつめたことなど延々と続くのでした。中学生にしてはすごい話ですね、と言うと、この後はもっとすごいのよ、とウインクして寄越します。

 一ついいこと教えてあげる、と。

 叔母によれば、恋愛において最重要なテクニックは追いかけてはいけないということで、むしろ追いかけられるように仕向けることなのだそうです。追えば逃げられる。逃げれば追われる。これが普遍的な法則なのだ、とのことでした。

 でも現実はうまくいかないのよねえ、と当人も嘆き節です。

 追いかけて欲しい人は振り向いてもくれないし、反対にこれだけはイヤって感じの人が追いかけてきたりするのよ。もちろん、これは内緒だけどさ、とさらにウインク。

 肥料、虫除けのネット、弦を巻きつけるポールなどを購入し、家に戻ると前日に続いて畑仕事です。庭の脇に造成された家庭菜園はさほど広くもないのですが、作業に入ると思ったよりも大変で腰が痛くなりました。天気がよく汗だくになります。祖母はリビングで静物画を描いていました。カレーライスの昼食を済ませ、午後は高校で教諭をしている叔母が夏休みの宿題をみてくれる、という約束でしたが気がつくとベランダの籐椅子でいびきをかいて眠っていました。

 せっかくの美人が台無しね、

 と祖母は鼻の付け根にしわを寄せてニッ、と笑いました。確かに口を開けて寝こけている叔母の横顔はどう見ても美人ではありませんでした。トレードマークの花飾りの帽子も枕代わりにつぶされて台無しです。大人の女は怖い、とその時は思ったものです。ドレスをまとって化粧を決め、顎を上げて微笑んでいる普段の叔母は男をくらっ、とさせるパンチ力があるのに、農作業で汗だくになり、昼飯からビールを飲んでいびきをかいている姿はまるで別人なのですから。

 暇になったので、庭にパラソルを広げて今度は浅間山の絵を描き始めた祖母の後ろに座り、東京から持って来たコバルト文庫の新刊を開きます。ふと視界に入ったカンバスを見上げると、高原の風景が描かれていますが目の前の景色とはずいぶん違って見えました。空は濃い藍色で夕暮れのようにも見えます。

 写生ではないの?

 と質問すると君江は少し難しい顔をして、絵は目に見えたものを写すだけではないのよ、と教えてくれました。もちろん、デッサンの技術は大切。でもそっくりに描くだけだったら写真と同じでしょ。カメラを使えばいいじゃない、と。芸術には違う意味がある。心の眼で見るのよ。そうすれば空間も時間も越えられる。いつも成功するわけじゃないけどうまくすると本当の姿を捉えることができるの。だからね、絵が目標とすることは見えないものを見えるようにすることなの。あたしはそう思う。

 へえ、とちなみは立ち上がってカンバスを眺めました。

 天の藍と地上の翠が得もいわれぬ調和を感じさせます。色の組み合わせがステキです、と言うと祖母は穏やかに微笑んでいました。しばらくすると、

 こんちわ、

 と声がして、虫取り網を手にした男の子がやってきました。叔母から噂を聞いていた隣の子のようです。背はちなみよりも少し高く、近鉄バッファローズの野球帽を被っていました。野球にはまったく関心がなかったちなみにチーム名がわかったのは父親が近鉄のファンで、いつもテレビで試合を見ていたからです。

 鈴木均君よ、祖母が紹介しました。

 どうも、と互いにやや気まずい視線を交わしていると、今日はなにを探しているんだい、と祖母が尋ねます。なにと言うわけではないのですが、さっき見たことのないトンボを見かけたので追ってきたのです、と礼儀正しく答えます。

 トンボねえ、まだ季節としては早い気がするけど。

 オニヤンマはだいぶ出ています。

 へえそうなの。

 高原の短い夏は虫たちにとって貴重な時間なのです。人間のようにあれこれ悩んだりはしない。やるべきことは定まっており、黙々とアヴァンチュールにいそしむ。これも摂理でしょうか。

 お茶でも飲んでいきなさい、と祖母に言われ、均がリビングに上がったので、ちなみは冷蔵庫から麦茶を出しました。その帽子、バッファローズね、と言うと彼は顔を輝かせました。あたしの父さんもファンでさ、とうろ覚えの選手の名前をいくつか並べると、うんうん、と大きく頷きます。

 いいなあ、と均は言うのでした。僕の父は野球なんか興味ないって言うんだ。テレビで試合を見ようとしてもうるさいって消されちゃう。

 へえ、そうなんだ、とちなみは均のよく日に焼けた顔とすらりと伸びた身体つきを眺めるのでした。手にしている籠には虫が入っているようです。

 のぞいてみるとカミキリムシでした。ちょっと大きいから捕まえたけど、後で逃がす、とのことでした。蝶は好きかと尋ねられたので、虫は好きではない、と答えました。女は蝶々がいいのか、と思ったけれどそうでもないんだな、と笑います。軽井沢は高原なので珍しい種類がたくさんいるのだそうです。

 あえて言えば、好きなのは兎かな、と言うと均はきょとん、とした表情になりました。栗鼠もいいよ、と。ああ、と均は手を叩きます。栗鼠はいるよ。俺、見たことある。本当? ただ夏じゃないなあ。冬だったな、と言うのです。

 そうか、動物か。狸や狐はいるよ。あと猪とか熊もいるらしい。見たことないけど。

 熊なんて怖いじゃない。

 逃げたら危ないんだ。出会ったらじっと睨まなきゃいけない。そのまま少しずつ後ずさりするんだ、こんなふうに、と均は立ち上がると上目遣いにちなみをにらみつけて、実演して見せるのです。その様子がなんだかおかしくてちなみは噴き出しました。

 あたしが熊ってことなの?

 そうです、と尚も均はおかしな表情でちなみを笑わせるのでした。熊の話は叔母の言葉を思い出させます。そうか、と考えるわけです。逃げたら追われるっ、てのは自然界も同じのわけで、逃げないふりをしながら遠ざかればいい。ならば追う方は? 追わないふりをして知らないうちに近づけばいいということになります。

 これって大発見?

 さっそく叔母に教えてあげたいのですが、相変わらずお昼寝中なのでした。

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