第34話 少女たちは失われた四季に咲く①
一筋の光も差し込まない闇の中を歩き続けた僕たちは、程なくして一度足を止めた。というのも気温の低下が著しく、寒さが一層厳しくなってきたからだ。
トンネル内は地震や経年劣化の影響か、内部を覆うコンクリートがところどころ剥がれ落ち、中には岩が崩落している箇所もあった。辺りには大小様々な岩が転がっている。
僕らは天井の様子を注意深く観察し、崩落の危険性が低い場所を選んで、腰を下ろした。
「まったく、いくらなんでもぶつなんて酷いです」
冷却シートを手に椿カナデの頬を手当てしながら、夜桜カレンが憤慨する。彼女の傍らには、家庭用の救急セットが広げられていた。
――これから〈果て〉へ行く。
椿カナデを除く〈四季〉の面々に、一連の事情と共にそう連絡した際、念のため彼女の怪我のことも伝えておいたのだが、どうやらそれが功を奏したらしい。しっかりと道具を持参してくれた夜桜カレンに、僕は内心で感謝する。面と向かって言うと、「カレンちゃんがしたくてしてるのです」と言われそうだった。
「いいのよ」
貼られたばかりの白いシートを撫でながら、椿カナデは微笑む。
「そういう親なんだから」
そこに蔑みや諦めの感情は見えなかった。怒りも悲しみも。
応急処置すらされなかった頬にようやく貼られた一枚の冷却シートを撫で、彼女はただただ穏やかに笑む。僕と夜桜カレンは、揃って目を丸くした。
そこへ百合野トオルが顔を出す。手には見慣れない服が抱えられていた。
「はいこれ、カナデとカレンの分。終わったら着なよ」
「わぁ……! これ、コートですか?」
分厚つくて重い生地で作られたそれは、防寒性能の高そうなコートだった。あたたかそう、ともすれば暑そうにも見える。知識では知っていたが、現物を見るのは初めてだった。寒くもなく暑くもない、一定の気温を保たれたシェルターの中では、今や売ってすらいない代物だ。
辺りを這う冷気は一層強まり、今や肌を刺すような寒さに変わっている。しかしそれは、気候の保たれたセントラルから離れている証拠――第一サブシェルターに近づいている証でもある。ここから先は、普段着で進むには危険だった。
「よくこんなものあったね」
そう驚きを示す僕に、百合野トオルは淡々と答える。
「死んだウチのじいちゃんばあちゃんが物を捨てられないタイプでさ。死んだ後も遺品整理が追いつかなくて、一部屋まるまる物置状態になってたんだ。そこから借りてきた」
返せないかもしれないものを持ってくるのは、借りたとは言わないのではないか。
何ともいえない顔をしていると、内心を見透かしように「いいんじゃないの」という声が飛んでくる。
「〈中〉じゃもう着る機会なんてないんだし。活躍させて上げた方が服も役割を全うできて喜ぶでしょ。はい、あんたはこれ」
と言って萩原アカネは僕にウィンドブレーカーを押しつけてくる。広げると、随分と大きかった。男物には違いないが、細身の僕では随分と肩が余りそうだった。彼女もまたそれと似たような機能性の高そうなパーカーを着ている。
「随分本格的だね」
「うちの父さん、結構歳いってる方なんだけど、小さい頃はシェルターがまだできてなくて、〈外〉暮らしだったんだって。それで家族で山登りとかキャンプ? っていうの? よく行ってたらしいの。その頃の物が捨てられなくて、ずっとしまってあって、だから借りてきた」
お前もかと内心でツッコむ。
僕はウィンドブレーカーをしばらく眺め、それから静かに袖を通した。
彼女たちの父母や祖父母にとってこれらはきっと、大切な思い出の品なのだろう。
僕らはシェルターの中で生まれて育った。
父母の多くは、幼い頃に〈外〉で暮らしていた記憶がある。
祖父母の世代は、まだシェルターがなかったという。
僕らはシェルターの中で暮らすのが、生まれた時から当たり前だった。そして〈外〉を知ることなく、シェルターの中で死んでいくものだと思っている。
けれど父や母、それに祖父母の世代は、今の暮らしのことをどう思っているのだろう。
彼らにとっての当たり前は、きっと僕らの当たり前ではない。
もう戻ることはない日常。失われてしまった『当たり前』の一欠片。それがこの、一枚の服には詰められている。
だからきっと、何十年経った今も棄てられることなく、眠っていたのだろう。
「ありがとう」
「……あんたにお礼言われると、なんかむずむずする」
憎まれ口も、慣れたものだった。
「はい、はい! カレンちゃんマフラー巻いてみたいのです!」
手当を終え、救急セットを片付けた夜桜カレンが勢いよく挙手する。その申し出を受けて、百合野トオルが彼女の首にチェック色のマフラーを巻いてあげた。どうやって結ぶのか何度か迷って、結局結び目を前側で垂らす格好に落ち着く。地味だが清楚な結び方だった。
「ほ~これがマフラー……」
「どんな感じだ」
「あったかいですが、なんか首がむずがゆい感じするのです。チクチク? イガイガ?」
「じゃあ返せ」
「嫌なのです」
初めて使う防寒具を巡って、夜桜カレンと百合野トオルの間でプチ戦争が勃発する。楽しげな笑い声が、トンネル内に反響した。
それを微笑ましく見守っていると、萩原アカネがペンのような物を差し出してくる。
「あとこれ」
「これは……?」
「携行ライト」
萩原アカネがとんとん、と自身のリストデバイスを指で叩く。その手には細い光を発する携行ライトが握られており、代わりにリストデバイスは、電源が切られているのかうんともすんとも反応しなかった。
「デバイス、切っといた方がいいでしょ」
そうね、と頷いたのは椿カナデだった。
「辿られても面倒だものね」
「でもこれじゃ時間、分からなくないか?」
「大丈夫。アナログ時計持ってきた。携帯用の光発電機もあるから、ライトのバッテリーは心配しないで」
そう言って腕時計を巻いた左手首を見せる萩原アカネ。僕と百合野トオルはその準備の良さに感心して、音を立てずに拍手する。
一方で夜桜カレンだけがただ一人、意図を理解できず、頭にハテナマークを浮かべて首を傾げていた。助け船は、椿カナデが出した。
「私たちがいなくなったことは、程なくして警察に連絡が行くと思うわ。早ければ今夜……遅ければ明日の朝にはかしら。そうしたらおそらく監視カメラの映像を即刻精査されて、私たちが第一に繋がるトンネルに入ったことはバレる。集団失踪となったら、おそらく警察の権限でサーバーに残ったメッセージのやりとりも全部見られるだろうし。そうしたら後は、GPSの履歴を辿って捜索が始まるはずよ」
「おぉ~なるほどなのです」
感心する夜桜カレン。
「ほんっとプライバシーも何もないクソな国だよな、ここは」
「女の子クソとか言っちゃダメですよ~。トオルちゃん、お下品です~」
「じゃあカレンだったらなんていうわけ?」
「んー、公然覗き魔?」
「公然わいせつ罪みたいね、それ」
言い得て妙だなと僕は思う。
そんなことを言いながら、僕らは次々とデバイスの電源をオフにしていく。辺りを照らす光が一度激減し、それからパッパッパッとそれぞれに配られた携行ライトに光が灯る。最終的に、太さもバラバラな五本の光がトンネル内を照らした。
んふふっと声を上げて夜桜カレンが笑う。
「なんだかいけないことしてるみたいで、わくわくしますね」
いけないことしてるんだよと、おそらく彼女以外の全員が思った。
思って、ぷ、と誰かが噴き出す。音の方を振り向くと、椿カナデが声を殺して笑っていた。
「ふふ、ごめんなさい。夜桜さんは本当に、夜桜さんらしいなって」
「――カレンちゃん、ですよ」
突然の自己紹介に椿カナデは目を丸くする。そんな彼女に夜桜カレンはにこりと笑みを深めて、もう一度繰り返した。
「カレンちゃん、なのです。夜桜さんなんて、他人行儀なのです。今度そう呼んだら、怒っちゃいますよ?」
そう言って、ほらほら呼んで下さい、と言わんばかりに両手を広げる。それはどこかハグを求めているポーズにも似ていた。
椿カナデはそんな夜桜カレンを見て、二度三度まばたきを繰り返して――それからゆっくりと口元を緩めた
「そうね。ありがとう、カレン」
「――はいなのです!」
そうして腕の中に飛び込んでこなかった椿カナデの代わりに、夜桜カレンが彼女に飛びついた。
僕たちはそれからまた歩き始めた。
少し歩いたところで、再び隔壁が姿を現す。けれど二時間ほど前に通り過ぎたそれとは違い、目の前の隔壁はその下半分が大きく消失していた。扉には鋼鉄を切断し、無理矢理道を開いた痕がある。
十数年前に起こった第一の事故。当時、この隔壁を開いた時、向こう側には逃げ場を求めた人たちが折り重なって倒れていたという。
しかし当然、今はその人山もない。
僕らは無言で、その扉をくぐった。
そうしてしばらく歩き、最初に声を上げたのは誰だったろう。
「あ……」
そこには、廃墟の街が広がっていた。
立ち並ぶのは、半ば崩壊した住宅にマンション、病院に、遊具の錆び付いた公園。住宅の壁には青々とした蔦がびっしりと生い茂り、ビルの窓はほとんどが割れて枠だけになっている。道路には朽ちて倒れた街路樹の幹だけが転がり、――落ちてきたのだろうか。天井を構成していたはずの鉄骨やアクリル板の残骸が、そこら中に散乱している。野生動物でもいるのか、それとも風が吹き込んだのだろうか。コンクリートを突き破って背を伸ばしていた茂みが、ガサリと音を立てる。
そこは確かに人間が生きていた世界だった。
かつて、僕らが生きていた世界だった。
僕らの知る世界は、確かにそこになかった。
呆然と、目の前の光景を眺める。
その時、夜桜カレンが「あっ」と声を上げた。
「上! 上、見て下さい!」
真っ直ぐに突き上げられた人差し指の先を追って、全員が顔を上げる。
そして、息を呑んだ。
割れた天井ドーム。その隙間。
「星……?」
そこに、満天の星が瞬いていた。
澄み切った真っ黒な空に、点々と散らされた光。その輝きは水の中の砂粒にも似ていて、砕いた宝石にも似ていて。けれどそれらよりずっと眩しくて、ずっと細やかで――
「ねぇあれ、月じゃない?」
別の方向を指して、萩原アカネが声を弾ませる。
煌々と輝くとはこういうことをいうのだろうと、僕はその時思った。
振り向いた先。そこには大きな、白い、満月が浮かんでいた。
その月光はシェルターを照らす光よりずっと弱く、脳裏に思い浮かべていたよりずっと強く、僕らの立つ地上を照らしている。
夜だった。
本物の、夜だった。
アクリルの天井に投影された作り物とは違う、本物の夜空がそこにはあった。
「……綺麗ね……」
椿カナデがぽつりと零す。
誰も、何も、応えなかった。
でも誰もが心の中で、頷いた。
五人並んで、空を見上げる。
肌を刺すような寒さを肺いっぱいで吸い込んで、頬を赤く染め、視界を白い吐息で覆いながら、見上げる。
そこは確かに、人間が生きていた世界だった。
かつて、僕らが生きていた世界だった。
僕らの知らない、世界だった。
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