第32話 椿カナデは冬に眠る

 最初に異変が起こったのは、試験の翌々週。合否結果の通知があった、週明けの月曜日だった。

 その日、教室に椿カナデの姿はなかった。


「カナデちゃんが欠席なんて珍しいのです。風邪でしょうか?」


 いつも通り食堂で昼食を食べながら夜桜カレンはそんなことを言っていたけれど、僕は内心、嫌な予感がしていた。


 その次の日も、椿カナデは学校に来なかった。

 僕らはさすがに、顔を曇らせた。クラス内には、彼女が受験に失敗してショックで寝込んでるんじゃないかなんて笑い話が飛び交い始めていた。夜桜カレンと百合野トオルの件を忘れたのかと、僕は言いたくなった。


 三日目。やはり椿カナデの姿はどこにもなかった。


「カナデちゃん……何かあったのでしょうか」


 何かあったことは間違いないだろう。けれど何があったかは分からない。少なくとも、交通事故や急な大病ではないだろう。その類いなら彼女はクラス委員長でもあるのだし、突然の欠席について何かクラスに通達があるはずだ。


 事態は何も動かないまま。その日の放課後、僕はなんとなしに図書館に足を向けていた。


 共通試験が終わり、残る試験は二月初旬に行われる後期期末考査だけだ。受験に比べたら遥かに楽で、根を詰めるほど勉強する必要もない。必然、図書館を訪れることはなくなっていた。


 階段を昇り、二階のフリースペースに足を運ぶ。奥の自習ブースでは期末考査に向けて勉強する一・二年生の姿があったが、受験も終わった現在、フリースペースはガラガラだった。


 彼女の姿は、どこにもない。

 いるわけもなかった。


 ――帰ろう。そう胸中で呟いて、踵を返したその時だった。

 何気なしに窓の外を見下ろして、目を見張る。

 図書館の中庭。揺れる梢の下に並ぶ、冷たい石のベンチ。

 そこに、見慣れた赤髪があった。


   *


 天井は、重い鉛色の雲が映し出されていた。

 僕はゆっくりと、静かに彼女の元まで歩いて行った。

 芝生の上には寿命を迎えた広葉樹の葉がいくつか落ちていて、踏む度にサクリと軽い音を立てる。

 その音で気付いたのだろう。彼女はゆるりと顔を上げた。


「あら、どうしたの」


 力無く笑む。初めて見る彼女の笑みは楚々として柔らかく、雪のように儚げだった。

 けれどその左頬は、強い力で殴られたかのように真っ赤に腫れていた。


「その頬……」

「頬? あぁ」


 愕然とする僕とは対照的に、思い出したとばかりに呟く。


「大したことじゃないわ」

「でも――」

「ねぇ」


 食い下がろうとした僕の声を遮って、彼女が問いかける。


「試験、どうだった?」


 僕は一瞬、言葉に詰まった。逡巡した。答えていいか、迷った。なんとなく、答えてはいけない気がした。けれど結局、答えた。

 合格したよ、と。

 どこに、とは言わなかった。

 彼女はややあって「そう」と、僕を見て微笑んだ。廃れた笑みだった。


「よかったわね」


 その他人行儀な一言が、彼女の結果が良くなかったことを端的に表わしていた。。

 僕は呆然と佇んだまま、座る彼女を見つめていた。


 彼女はくたびれていた。いつも綺麗に結われていたはずの三つ編みは解けかけ、とこどころから髪が跳ね出ている。夏でも留まっていたシャツの第一ボタンは外され、スクールリボンはよれて斜めになっている。

 けれどそれを直そうともせず、ぼんやりと辺りを眺めている。

 生い茂る木の葉が風に揺られ、ザァと音を立てた。


「……親とケンカしたの」


 腫れた頬に触れて、彼女は零した。


「どうして合格できなかったのって、最初はただの言い合いだったのだけれど、ヒートアップしちゃって。避けられなかった。運動神経はダメダメね、私」


 そう言ってどこか自嘲気味に笑う。


「こんな顔で教室に顔出すわけにもいかないじゃない。学校なんて、初めてサボったわ。これ、親には内緒ね。あの人たちは、私が普通に学校に行ってると思ってるから」


 クスリと笑う。

 言うわけがない。言える手立てもない。そんなこと、普段の彼女なら最初から分かるだろうに。


「……警察か、相談所に」

「いいのよ」


 虐待だと。暗に述べる僕に、彼女は微笑んだ。


「悪いのは、合格できなかった私なんだから」


 重い鉛色の天井を見て、今にも消えてしまいそうに。

 それなのに僕はその横顔を、不覚にも美しいと思ってしまった。

 僕は今度こそ食い下がった。


「でも」

「いいの」

「よくない」

「いいのよ」

「よくない!」


 押し問答を繰り返して、気付けば僕は声を張り上げていた。

 その一言が、彼女を打つ。

 彼女は奥歯を食い縛って、直後、僕を振り返った。

 振り返って、立ち上がって、僕を睨んで、


「あなたに何が分かるのよっ!」


 叫んだ。臓腑の奥底から絞り出したような声だった。

 悲鳴は中庭を覆う図書館の壁に跳ね返って、響いて、空に抜けて、消えた。

 彼女が、唇を戦慄かせる。


「あなたに、何が分かるの。血反吐を吐くような努力もしないで合格したあんたに」


 彼女の目の端から、大粒の雫が零れ落ちる。

 一粒、二粒、それから涙は透明な一つの流れになって、数えることが出来なくなった。雫は彼女の頬を伝い、顎から滴り落ちる。足下の草が、雨粒を浴びたかのように雫を弾いて、揺れた。


 事実、それは雨だった。

 僕らの閉じた空から一粒、また一粒と降り始めた雨が、僕らをゆっくりと濡らし始めた。

 恵みの雨、命を育む水。

 けれど僕らの世界では、何も生まない、見せかけの水滴。


「勉強なんて頑張って、何になるのよ」


 涙雨と共に、彼女の思いが零れていく。

 ずっと、ずっと、抱えてきた。抱えて抱えて、見て見ぬ振りをして、走ってきた。走って走って、けれど転んで、投げ出された想いは地面にぶちまけられて、かき集めることさえできない。


「結局みんな、死んでいくだけじゃない」


 僕らはいつか死ぬ。

 それは生物である限り、当たり前の原理だ。


 老衰で、天寿を全うするのかもしれない。

 病気で、ベッドの上で薬を入れられ、眠るように死ぬのかもしれない。

 交通死事故に遭って、即死するのかもしれない。

 あるいはまた、ある日突然、シェルターのシステムが停止して、灼熱地獄に蒸されて死ぬのかもしれない。


 僕らはいつか死ぬ。

 命を繋いで、死んで、繋いで、死んで、繋いで。


「死んでいくだけの世界じゃない」


 そうして少しずつ、閉じた世界シェルターと共に朽ちていく。

 止まらない人口の減少、経済の衰退。公共の福祉のために個人の自由は奪われ、AIによる徹底した監視が安全を育む社会。突然のシステムの停止に、老朽化するシェルター。


 世界はいつか、死ぬ。

 失われた四季のように、僕らの世界もまた、いつか。


 ――僕は、息を呑んだ。


 若者には未来がある。

 何にでもなれる。

 どこへでも行ける。

 何だって、叶えることができる。

 そんなのは嘘だ。


 ――僕は拳を握る。


 僕らは、ただの歯車だ。

 緩やかに死んでいく世界を維持する為の。

 そのために生まれ、育てられた。


 僕らは結局、この作られた世界で、誰かが敷いたレールの上を歩んで、誰かが用意した歯車になるだけの存在で。

 何者になんてなれない。

 どこにだって、行くことは出来ない。



 何者にもなれてどこへでも行ける僕たちは、最初から死んでいる。



 繋いでいったその先には、何も待ってはいない。


「もうやだ……嫌よ、こんな世界」


 椿カナデが、崩れ落ちる。濡れた芝生の上にしゃがみ込んで、両手で顔を覆って、その隙間から雨と涙が混じって流れ落ちる。

 僕はそんな彼女をただ見下ろしていた。

 ざぁざぁと雨が降っていた。


「――だったら逃げよう」


 そう告げた声は、どこか上擦っていた。

 え、と困惑の声を零して、彼女が僕を見上げる。その目は泣き腫らして、薄らと赤くなっていた。


「逃げるって、どこに逃げるのよ……こんな、こんな行き場所のない世界で……」

「〈果て〉」


 僕は言った。


「行き場がなくなんて、ない。世界の〈果て〉が果てだなんて、誰が決めたんだ」

 呼吸が乱れて、上手く喋れなかった。それでも必死に、言葉を繋いだ。

「本当に言ってるの……?」


 疑心暗鬼な視線に、僕は頷く。


「あなた……」


 呆然と彼女が呟き、


「泣いてるの?」


 僕の両目からはいつの間にか、大粒の涙がまるで滝のように流れていた。

 僕はそれを、拭うことさえしなかった。

 彼女は唖然としていた。けれどしばらくして、フッと笑った。


「あなたもそんなこと言うのね」


 気配だけじゃない。言葉だけじゃない。彼女はその口元に微笑を浮かべて、確かに笑っていた。


「意外かな」

「意外ね」


 でも、と彼女は笑う。


「悪くないわ」


 泣きながら、笑って、笑いながら、泣いて。

 僕は手を差し出す。


「悪くない」


 確かめるようにもう一度言って、彼女は僕の手を取った。

 それから濡れ鼠になったまま、二人揃って歩き出した。



 死は、眠りだ。

 このまま寝て目が覚めなかったら、なんて、誰もが一度は考えたことがあるだろう。

 覚めない眠りは、死だ。


 秋に生った実りは朽ち落ちて、地に沈む。凍てつくような寒さの中、土の微かな温もりに抱かれてじっと待つのは、春の訪れ。暖かな春に芽吹くために、種は静かに眠りにつく。


 ――覚めない冬ではないと、祈りながら。


 僕らは、そんな冬も知らない。

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