第26話 萩原アカネは秋に朽ち③
「待って下さい……アカネちゃん!」
足早に歩いて行く萩原アカネの後を、僕らは追う。文化祭の人混みの中、夜桜カレンが小走りに、その後ろを僕と百合野トオルが早足に。
「アカネちゃん……アカネちゃんっ!」
夜桜カレンがようやく彼女の手を掴んだのは、裏門へ続く校舎脇の道だった。半ば引っ張られるように萩原アカネが制止し、俯く。声を上げながら走った夜桜カレンは、僅かに肩で息をしていた。
大勢の人が楽しげに行き交う中、追いついた僕は彼女たちから少し離れたところで足を止める。百合野トオルは立ち止まらず、二人の元まで歩いて行った。
遠く離れた体育館から、どこか調子外れの演奏と歌声が聞こえている。
「なんで」
呻くように、〈秋〉にされた彼女は言った。
「なんで追ってくるの」
「……理由がなくちゃ、ダメですか?」
夜桜カレンが首を傾げる。手を繋いだままの二人に、にわかに衆目が突き刺さる。けれど夜桜カレンは、手を離さなかった。
萩原アカネは、ぐっと押し黙った。俯いていて、その表情は見えない。泣いているかのようにも思えた。しかし渇いたコンクリートを濡らす雫はない。
コツと固い足音がして、僕の隣に一人の少女が並ぶ。椿カナデだった。いつの間に追ってきたのか。しかし〈四季〉の四人目は輪に加わろうとせず、僕の隣で腕を組みじっと成り行きを見守る。
「あたし、酷いこといっぱい言ったのに」
唇が、戦慄く。
「言いましたか?」
「……頭緩いとか、悲劇のヒロインとか……愛想ないとか」
ちらりと、こちらを伺う気配。正確には、僕の隣の椿カナデを。
夜桜カレンと百合野トオルは顔を見合わせる。それから仏頂面を崩さない椿カナデを見てクスリと笑って、
「さて、なんのことです?」
にこりと小首を傾げる夜桜カレンに、萩原アカネは息を呑んだ。呑んでゆっくり、嚥下した。
声が、震える。
「どうして」
それは、決して返ってくるはずのない問いだった。
けれど返ってくる答えも、あった。
「だってカレンちゃん、〈四季〉が好きですもん」
弾かれたように萩原アカネが顔を上げる。その両目は真っ赤に潤み、透明な雫が今にも堤防を越えて決壊しそうだった。
それを必死に堪え、押し留めている。
そんな彼女に、夜桜カレンは笑む。
「〈四季〉って呼ばれなかったら、カレンちゃんはきっと今でも独りだったのです。トオルちゃんとも、カナデちゃんとも仲良くなれなくて、一緒に勉強したり、ご飯を食べることもなくて。もちろん、アカネちゃんとも」
目を細めて、花のように笑んで。
「楽しい毎日をくれたのは、みんななのですよ」
「……アタシも」
百合野トオルがぽつりと零す。自身の目線ほどしかない萩原アカネを見下ろして、しかしどこか気恥ずかしげに視線を揺らして呟く。
「嫌いじゃない。何もなくなったアタシと一緒にいてくれたのは……みんなだった、から」
誰も彼もが百合野トオルを腫れ物として扱い、避けるようになった中、〈四季〉だけが違った。
「励ましとか、同情とかより、ずっと気楽で、嬉しかったよ」
たとえそれがからかいの為に作られた枠組みでも、括られたことで救われた感情もあったのだ。
萩原アカネは、沈黙していた。もう何も言えなくて、何か発してしまえば途端に堪えていたものが溢れてしまいそうで、けれど――
「……なにそれ」
しばらくが過ぎて、彼女は笑った。ハッと呼気を吐き出して自嘲気味に、クシャリと顔を歪めて。
「なにそれ」
心底楽しげに笑う。同時に、大粒の雫が彼女の頬を伝った。
溢れてしまえば、もう止めることはできない。次第にしゃくり上げながら、けれど懸命に声を押し殺して。
萩原アカネは泣いた。それまで堪えていたものを全て吐き出すように、ただひたすらに泣いた。
そんな彼女の肩を百合野トオルが抱き、夜桜カレンはそっとハンカチを差し出す。
僕と椿カナデは、そんな三人をじっと見つめていた。
調子外れの音楽は、いつしか止んでいる。
涙の味は、感情によって変わるという。
怒りや悔しさによって出る涙は塩辛く、一方で嬉しさや悲しみによって出る涙は水っぽく、どこか甘い味がするという。
渇いたコンクリートの上に滴り落ちる彼女の涙は、きっと塩を舐めるようにしょっぱいだろうと思った。でも同時に――塩辛さの後にはほんの少しだけ、甘い味がするかもしれない。
そんなことを考えて、
「……馬鹿みたい」
ぼそりと。隣から聞こえた氷のような声に、僕は思わず目を剥いて振り向いた。
〈四季〉の冬――椿カナデ。
寄り添い合う三人の少女を腕組みして眺めたまま、彼女は微動だにしない。その横顔は雪のように白く、いつもどおり事務的な色を携えている。
聞き間違いだろうかと思った。けれどそれを問い質すだけの気概も時間も、僕は持ち合わせていなかった。
「何してんのー。行くよー」
百合野トオルのよく通る声が飛んでくる。傍らでは夜桜カレンが背伸びをして、その居場所を報せるように大きく手を振っている。どうやらこのまま文化祭を回るつもりらしい。萩原アカネは、ようやく納まってきた涙を眼鏡の下からハンカチで拭いている。
そんな三人に、椿カナデは嘆息一つ。慣れた様子で、彼女たちの方へ歩き出す。
「アンタもだよ、アンタも」
三つ編み揺れる背を見送っていると今度は呆れた声が飛んできて、僕は思わず目を丸くした。自身を指さして、暗に「僕も?」と尋ねる。
夜桜カレンが笑った。
「キミもですよ、キミも」
「……あんまりグズグズしてるなら、クレープ奢らせるから」
萩原アカネが鼻を啜りながら言う。
「全員分」
「……私、甘い物好きじゃないのだけど」
「えーみんなで食べましょうよー」
椿カナデがやんわりとクレープを拒絶し、夜桜カレンが唇を尖らせる。
そんな四人を僕は呆然と眺めていた。
人が、喧騒が、流れていく。その只中で、少女たちは笑う。
失われた季節に咲く、花のように。
僕は何かを言おうと口を開いた。けれど言葉は何も出て来ず、僕は口を噤んで。
それからゆっくりと、一歩を踏み出した。
咲いた花は、いつか枯れる。枯れた花は、いつか朽ちる。朽ちた花は風に砕かれて土に還り、元に戻ることはない。
けれどそこにあるのは喪失ばかりではないと、僕らは知っている。
秋は朽ち落ち、そうして時は冬へと向かう。
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