八 西四宮(二)

 かがりで煌々と照らされた庭に、薄汚れたじゅくんを纏った女が衛士によって引っ立てられてきたのは夜明け前のことだった。

 すでに西四宮の火災はほぼ片付き、焦げ臭い煙だけがせきぐうまで漂ってきている。

 長い黒髪を振り乱した女は、両腕を衛士に掴まれ、右足はくつがなく、おぼつかない足取りだった。

 簀の子縁でりょうとともに様子を見守っていたれんは、連行されてきた女の姿を見た途端にようが顔色を変えたことに気づいた。

 庭先や渡り廊下に集まっていた女官たちの中にも女を見知った者がいるらしく、なにやらこそこそと会話をしている様子がうかがえる。

 不審者として捉えられた女の顔はやつれ、目の下にはくっきりと黒い隈がある。襦裙の袖や裾から出た手足は痩せ細り、衛士によって無理矢理上げさせられた顔の双眸は虚ろだった。


「この者は、誰ぞ?」


 稜雅が忌ま忌ましげに尋ねると、芙蓉が慌てて女の前に飛び出した。


「この女は前王の妃のひとりで、名はそんまつ、周囲からはそんと呼ばれていた者でございます。わたくしの姉でございます」


 地面に額をこすりつけながら芙蓉はまくし立てた。


「先の王の後宮にいた妃は、すべて王宮から下がらせた。なのに、なぜ西四宮に留まっているのだ? あそこは警護をしている衛士以外は立ち入らないよう命じている。それはそなたも知っているであろう?」


 厳しい口調で稜雅が直接問い質す。

 すでに後宮は解散され、じゅんの妃だった者は王宮から追放したはずだった。

 新王である稜雅の最初の妃が入宮するにともない、できるだけ憂いを内廷から取り除くためであり、隼暉の息がかかったものは無力な妃であってもすべて排除するというのが稜雅の選択だった。


「我が命に背いてきんしゅうぐうに留まったあげく火を放ったとなれば、極刑は免れぬ」

「姉は殿舎に火を点けるような真似はしておりません! 火打ち石など付け火ができるような道具は持たせておりませんし、火の付け方ひとつ知らぬ育ちでございます! ただ、陛下の命に背いて金秋宮に留まっておりましたことは確かですので、おとがめはもちろん覚悟しております」


 必死に言い訳をする芙蓉の後ろで、衛士の支えがなければいまにも崩れ落ちてしまいそうな元・巽妃は焦点の合わない目で虚空を見つめている。唇は呼吸をするためだけにかすかに開いているが喋る気配はなく、自分の存在が咎められていることを理解していない様子だ。


「捕らえて獄舎に繋ぐというのであれば、それでも構いません! ただ、どうか命だけはお助けくださいませ!」

「巽家の娘であれば、今夜の小火騒ぎの犯人でなければ無断で王宮に侵入したことをとがめはするが、家の者に引き取らせるまでだ」


 冷ややかに稜雅が告げると、芙蓉は髪が乱れるのも構わず真っ青な顔を勢いよくあげた。


「巽家に戻すのだけはどうかご容赦ください! 獄舎でかまいません! 王宮の獄舎に繋ぎ、姉を罪人として裁いてください! 陛下の命に背いて無断で西四宮に出入りしたのは紛うことなき大罪でございます! 姉を哀れとお思いでしたら、獄舎へ放り込んでくださいませ!」


 必死の形相で叫ぶ芙蓉の姿に、蓮花は首を傾げる。


「なぜ芙蓉は自分の姉を獄舎に入れようとするの? わたしは王宮の獄舎がどのような場所かは知らないけれど、家に戻った方が良いのではないの?」


 蓮花の質問に、稜雅はうなずきながら説明する。


「獄舎は王宮の北の端にある。罪人を収容する場所だから石造りの堅牢な建物だ。逃亡を防ぐため窓はほとんどなく、日当たりが悪いため常に薄暗く、夏は暑く冬は寒い、酷い環境だ。俺も一度しか中に入ったことはないが、じめじめしているし、ねずみ蜘蛛くもが棲んでいるし、掃除などろくにしていないからかよくわからない異臭がしていたぞ。後宮で妃として暮らした者が耐えられる場所ではない」


 稜雅が腕組みをしながらため息を吐くと、芙蓉は美しい顔を醜く歪めながらさらに言い募った。


「姉はここ数日、ずっと崩れかけた金秋宮の片隅に隠れ住んでいました! 雨風がなんとかしのげるていどでしたが、姉は不満ひとつもらしませんでした! 獄舎は独房だと聞いております! 暗かろうが、異臭がしようが、かまいません! 食事は一日に一度いただければ十分でございます! 一杯の粥でも飯でも、独房でじっとしているだけであれば事足ります! 巽家に戻ることを思えば、獄舎といえども王宮で暮らせることは姉の最上の喜びでございます!」

「まったく意味がわからないわ」


 目を瞬かせながら、蓮花は芙蓉の姉であるという前王の妃を見つめた。


「巽家は姉にとって生き地獄でございます! どうか、情けをかけると思って、姉を獄舎へ入れてくださいませ!」

「生き地獄?」


 篝火の木片が爆ぜる音が響く中、蓮花は芙蓉に視線を戻した。


「はい。……王妃様は、前王の後宮にいた妃たちが新王によって後宮から追放されたのちにどうなったかはご存じでしょうか」

「家に戻ったのではないの? あなたの姉のように」

「はい。戻る家があるほとんどの者は戻りました」


 戻る家がない者もいた、と芙蓉は匂わせた。

 前王に与していた貴族の中には、没落して都から落ちていった者もいるので、後宮から下がってみれば帰る屋敷がなくなっていた妃もいるのだろう。


「姉も、七日前に巽家の屋敷に戻りました。両親やきょうだいは姉が無事に後宮を出られたことを喜び、迎え入れました。しかし、その日のうちに前王の妃が巽家に戻ってきたことを近所の人々が聞きつけ、姉を非難する言葉を投げつけるようになったのです」

「非難、とは?」

「前王の寵愛を得ていた妃が暴君を諫めることなく後宮で贅沢三昧をした揚げ句、前王が殺されたあともよくまぁ当然のような顔をして生きて帰ってきたものだ、だの」


 芙蓉がよどみなく説明を始めると、巽妃はびくっと身体を震わせた。


「前王の妃であったことを恥じろ、だの、とにかく聞くに堪えない言葉を屋敷の外の塀の向こう側から叫んだり、紙に書いて庭に放り込んだり、屋敷の塀に落書きをしたり……。とにかく酷い言葉ばかりで、その声に恐れをなした姉は屋敷の奥に閉じこもったのですが、罵声はいっこうに止まないのです。しかも、使用人の中には近所の住人から姉に渡すように言われて、そのような非難する言葉が書かれた手紙を姉の部屋に届けたり、いやがらせに加担するような真似をする者まで現れ、姉だけではなく巽家すべての者が常に周囲の声に苛立ち、癇癪を起こすようになり、心身をすり減らすこととなったのです。聞けば、似たような目にあっている前王の妃はいるとのことで、姉だけが罵倒されているわけではないようです。姉は、前王のお手は付きましたが寵愛されているとはほど遠く、妃に名を連ねてはいてもほとんどお召しなどない存在でした。前王のお子を産んだわけでもなく、奢侈に溺れる前王のおこぼれにあずかることもありませんでした。それでも、前王の妃だったというだけで姉に責めを負わそうとする人々がいるのです」


 困惑した様子の稜雅が唸ると、巽妃はまたびくっと反応した。


「このまま巽家に姉を置いておくわけにはいかないのです。姉だけではなく、家族が皆、苦しんでおります。かといって、わたくしどもには姉を預かってくれる地方の親類縁者がおりません。親類のほとんどは都におりますし、我が家の惨状を知ってか誰も様子を窺いには来てくれません。なので、止むに止まれずわたくしは姉をひそかに王宮に連れてきたのです。西四宮はしばらくは閉鎖されたままになるというお話でしたので、かつて後宮だった場所ですし、姉は死んだ王や妃たちの幽鬼が発する怨嗟の声など風の音ていどにしか感じないと申しますので、しばらくは金秋宮に隠れているように伝えたのです。内官の宿舎の中には空きもありますが、わたくしの部屋はふたり部屋ですし、勝手に空き部屋に姉を住まわせるわけにもいかず――」

「そうは言っても、元・妃を獄舎に入れるというわけにはいかないわ」


 嘆息しながら蓮花が告げた。

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