六 華燭(三)

「あら、りょう。いえ、陛下。おはようございます……でしょうか?」


 寝台の上で上半身を起こしたれんが、寝惚け眼をこすりながら挨拶をする。

 その足下にはねいねいがだらしなく寝そべっていた。


「まだ、夜は更け始めたばかりだ」


 ほのかな燭台の明かりを頼りに稜雅がちかづくと、甯々がいぶかしげなまなざしで睨んでくる。


「まぁ、そうでしたか」


 蓮花は意識がはっきりしていないのか、あくびをしながらぼんやりと辺りを見回している。


「ここ、どこでしょう。そういえば稜雅に会うのは久しぶりねぇ……あぁ、昼間もお目にかかりましたね」

「ここは王宮のこう殿でんの中にあるせきぐうだ。今日から君はここで暮らすんだ」


 寝台の端に腰を掛けて稜雅が説明すると、蓮花はしばらく黙り込んでから「そういえばそうだったわね」と徐々に思い出してきたような顔つきになった。

 白い光沢のある絹の寝間着に帯だけ結んでいる蓮花は、髪を垂らしているせいかたい殿でんで着飾っていたときよりも無垢に見えた。

 稜雅は手を伸ばして相手の黒髪を指に絡ませてみたが、あくびをかみ殺している蓮花は特に嫌がる様子はない。

 指先が頬に触れる寸前まで手を伸ばすと、彼女の体温をほんのり感じることができた。それだけで、生きて再会できたのだという実感がわいてくる。


「君は俺のところに嫁いできたんだ」

「そうらしいですわね」


 蓮花が曖昧な物言いをしたので、稜雅は一瞬固まった。


「そうらしい、とは?」

「王妃になるというのは、普通の貴族の結婚とはすこし違うと父と母は言ってましたわ。王の妃になるのは一人ではないから、将来、妃が二人、三人と増えることがあっても皆と仲良くするように、と。わたしがしっかりしていれば、皆が仲良くできるはずだからって」

「俺は蓮花以外の妻はいらないし、貰うつもりもない」

「そういうわがままを言ってはいけないんだそうです」

「わがままなのか?」


 蓮花の顔を覗き込みながら稜雅が尋ねると、長い睫をしばたかせながら彼女は頷いた。


「特にわたしはそういうわがままを言ってはいけないんだそうです。わたしは、後宮が妃でいっぱいになればいいと思っているので、そういうわがままを言うつもりはないのですが」

「蓮花以外は妃にしない、というのは俺のわがままなのか?」

「さぁ、どうでしょう? 王のわがままは別物かもしれませんから、そのあたりは父に訊いてみてくださいな」


 結局のところ、蓮花もよくわかっていないらしい。


「わたしは稜雅の……あぁ、やはり陛下と呼ばなければならないのでしょうか?」

「俺は、名を呼んでくれた方が嬉しい。いまとなっては、俺の名を呼ぶのは蓮花だけだしな」

「そうですか――。わたしはろう国国王の妃になったけれど、なぜか稜雅と結婚したという気がしないのです。わたしは稜雅と夫婦になるつもりだったのに、王宮に入ってからというもの、おかしなことに稜雅に嫁いできた気分がしないのですもの。急に王宮に上がることが決まったからかしら? でも、稜雅が王になったと聞いたときも、なにが起きているのかよくわかりませんでした」

「俺は、王にならない方が良かったか? 叔父を討ったあと、蓮花を攫って誰も俺たちを知らない土地に逃げた方が良かったのか?」

「稜雅が王になりたかったのであれば、別にそれでかまわないと思います」

「――――王になりたかったわけじゃない」

「そう……ですか」


 ゆっくりと首を傾げた蓮花は、そっと稜雅の手を掴んだ。

 その細く柔らかい指の感触に、稜雅はびくりと身体を震わせる。


「わたしは稜雅が王でも盗賊でもなんでもかまいませんが、また会えて嬉しかったです。父から、あなたがわたしを妃として王宮に迎えたいと言っていると聞いたとき、わたしのことを覚えていてくれたことに喜びました。だって、あなたはうちを出て行ってから、父とは手紙のやりとりをしていたのに、わたしには手紙の一通もくれなかったでしょう? わたしが送った手紙に、一度も返事をくれなかったでしょう? まぁわたしも、忙しかったら無理に返事は送らなくても良いと書きましたけど」


 蓮花の手のぬくもりを感じながら、稜雅は黙り込んだ。

 どんな言い訳をしたところで、彼女に手紙を送らなかった事実は変わらない。


「わたしを妃に選んだのが父の後見と財力が目当てだったとしても、わたしのことを思い出してくれて嬉しかったですわ」

「俺は蓮花と夫婦になりたかっただけなのに、なりゆきで王になる羽目になったんだ」


 稜雅は勢いよく蓮花の両手を引いて胸まで抱き寄せると、腕の中に閉じ込めた。


「なりゆきなんですの?」


 顔を上げて蓮花が尋ねる。


「蓮花を娶った以外のすべてがなりゆきだ。多分、ほとんどは享に仕組まれていたんだろうな。まぁ、俺は、君さえ妻に迎えられれば他はどうでもいいと思っていたから、いまさらとやかく言うつもりはないが」


 苦笑いを浮かべながら、稜雅は自分を見上げる蓮花の唇に断りなく軽く口づけた。


「――――――!」


 柔らかく温かな唇の感触だけで幸せな気分になった稜雅は、顔を真っ赤にして言葉を失っている蓮花を抱きしめる腕に力を込めた。


(この様子なら、このまま押し倒して契っても大丈夫、だよな?)


 片手を熟れた林檎のような蓮花の頬に添え、もう一度唇を重ねる。今度はさきほどよりも長く――。


「陛下! おやすみのところ申し訳ございません!」


 扉の向こう側から、侍従のしゅうえいの声が響いた。


(なんでもかんでも謝ればすむってもんじゃない!)


 一瞬で甘い空気が吹き飛んだ稜雅は、王になったことをこれまでで一番後悔し、ふてくされた気分になった。

 蓮花はまだ顔を火照らせているが、なにごとかと好奇心にあふれたまなざしを扉に向けている。


「西四宮のきんしゅうぐうで火災が発生しました! 現在、消火作業中ですが、万が一こちらに延焼した場合に備えて、避難の準備をお願いいたします!」


 周暎吾は稜雅が返事をしないことから、閨房の中がどういう状況なのか判断しかねたはずだが、事務的に報告を続けた。


「金秋宮の火事は、いまのところ他の殿舎に燃え広がる恐れは低いと思われますが、人気のない場所から出火しています。何者かによる付け火の可能性もあるため、すみやかに王宮内の警備を強化しました。特に赤鴉宮は衛士を増やしております」

「わかった。ご苦労」


 仕方なく、稜雅は声を張り上げて返事をした。


(付け火なら、犯人は極刑だな)


 初夜の邪魔をされた稜雅の心情に関係なく、王宮内での付け火は死刑と定められている。


(とりあえず、外の様子を見に行くか)


 蓮花を抱きしめていた腕をほどくと、稜雅はしぶしぶ寝台から腰を上げた。

 延焼の心配はないと思われるが、このまま顔を出さないわけにもいかない。


「蓮花。君はこのままやすんでいるといい……」

「わたしの後宮が燃やされているですって!? 冗談じゃないわ!」


 さきほどのはにかんだ様子は夢だったのかと思うほどの勢いで、蓮花は寝台の上に立ち上がった。

 同時に甯々も「ぐるぅ」と珍妙なうなり声を上げてのそりと動き出す。


「もう夜も遅いし危ないから、君はここにいるように」

「嫌です! 見に行きますわ!」


 ぴしゃりと蓮花は拒否した。


(なぜ衛士たちは黙って消火作業をして、明日になってから報告してくれなかったんだ……)


 やさぐれた気分になりながら、稜雅は心の中で深夜まで仕事をしてくれている衛士たちを不当に責めるしかなかった。

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