人道

――時は流れて

 地蔵はいつものように川向こうを見張っていた。

 今や野ざらしではない。強い日差しでも被った笠で眩しさは半減。もっとも胸には赤いべべがあるから、暑さは倍増。夏の暑さは差し引きとんとんといったところ。

 それでも昨今は陽が高まり、熱気が強まるのが楽しみであった。

 燦燦と輝く陽が上り、騒騒しく蝉が鳴き始めた頃、地蔵の耳に声が響いた。


「今日も暑い。ねぇ腹帯はずして良くない?」

「何を言ってるんだ。駄目だろ? 暑いなら俺が仰ごう」

「いいわ。あんたやりだすとずっとするし。手が曲がりそうで怖い」

「これ以上か?」


 いつものように男と女が目の前に現れる。

 大きな男は自らのひん曲がった指を見せつけ、腹を抱えるようにした女はその指を掴む。互いに笑い合う姿は実に仲睦まじい二人――いやもっと小さいのをいれれば、三人であろうか。


「あーそれで思い出した。今度お祖父様のところに行かないといけないのよね」

「師匠――じゃなかった御隠居の? 何の用だ? 俺が畑の帰りに寄ろうか?」

「いい、いい。ほら正式に道場を松原さんに譲るじゃない?」

「うん」

「式典じゃない? 晴れ姿じゃない? お祖父様に良い物を着て頂かないといけないじゃない?」

「――ない」

「えー着物縫おうよ」

「せめて今はやめてくれ」

「いいじゃない。この子も機織りの音は好きなはずよ? 両親がそうなんだし」

「待て待て待て。反物からか?」

「えーいや、それは――その前から」

「糸から?! 間に合わんだろ」

「良い物を着て頂き――」

「作りたいだけだろ」

「――だけどぉ」

「はぁ分かった。どうせ言うても利かぬしな。ならせめて反物はあるものでだ」

「えー」

「いやならなし」

「分かった」

「よし、それと」

「まだ何か?」

「確と子の無事を地蔵にお頼み申すぞ。ほれ、屈めるか?」

「あ、うん!」


 娘は男の手をとってゆっくりと屈む。別にそのようなことをするまでもないというのに。わざわざ頭をこちらより低くする。その度にこけぬか心配になる。

 そもそも地蔵は人道を守護する大清浄地蔵であるから、頭など下げねども。片手間で通りすがりの会釈だけでもその願いは利くというのに。この二人は実に丁寧に毎朝祈って行く。直前まで馬鹿話をしていることも多いのに、人が変わったように神妙な顔付きで手を合わせる。故にこの二人が毎日やってくるのは楽しみであった。


「おや坂下殿、今朝もお揃いで――毎日、精が出ますな」

「これはこれは、おはようございます。何、これで無事に産まれてくれるなら」

「ああ、かや殿はそのままで随分お腹も大きくなりましたな。そろそろですか?」

「そうですねぇ。もうちょっとかなぁ」


 降りて来たのはまだ頭に青みの残る僧。山寺においては”若い”と評される、夫婦の二人よりは十近く上である。


「でも大丈夫! 冬には間に合わせますよ」

「はは、確かに去年は暖かかったですな。しかしご無理は良くない」

「いやいや無理だなんで。去年は悪阻で半分くらい動けなかったですから。今年こそしっかりと全員分の綿入れを用意いたしますよ」

「――かや」

「大丈夫大丈夫。冬の話だから。生まれてからだから。無理じゃないから」

「なら生まれる前にやりすぎるのは無理ということか?」

「あ、いや、それは――もー心配しすぎだって」

「はは、しかし幾ら心配してもしすぎということはないでしょう。お一人の身体ではないのですから。それに今年も随分縫って頂いておりますし」

「いや、本当に縫ってれば体調も良くなりますから。それにそれが仕事ですから」


 針妙――寺の衣を縫う仕事を請け負う者のことであるが娘がそれなのだろう。地蔵は得心がいった。故に笠とべべを用意してくれたのだと。故に僧たちの衣もツギハギだらけでなくなったのだと。

 子を捨てない女が毎朝来る理由に得心がいった。


「ですが――ご自愛ください。少なくとも生まれるまでは」

「だ、そうだぞ」

「うっ」

「では私はこれにて――」


 僧が立ち去る。と娘は再び男の手を取り屈み直す。いつものように六体分、目の前にて祈っていく。

 その表情は真剣。今まで見た女の中でも特段だ。これが子を持つ母の顔。

 もっともこれまで地蔵が見て来た女たちも生む前はそうだったのであろう。悲壮な顔でなく覚悟の顔をしていたのであろう。

 故に地蔵も応えるように祈った。

 二度とここに子を置く女が出ないように。少なくともこの娘がそうならんことを。


「これでよし、と。そうだ。ね、どっちがいいの?」

「どっちとは?」

「男? 女? ほら男だった何させたいとかさ」

「ああ――そんな先のことを言ったら鬼が笑う」

「そうだけどさ。何かないの?」

「そうさな」


 立ち上がった男は暫く見上げて考えこんで――


「元気だったらいいさ」


 夏。灼熱の陽の下、止めどなく鳴き続ける蝉たちの中。青々とした山の木々の上。

盆の迎え火から上った一筋の煙を見上げて、男は微笑みながら答えた。



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