奇跡の聖女は身分を隠したまま新たな国を興す
赤池宗
第1話 序章
楽しい日々だった。贅沢三昧というほどではなかったが、責任の無い暮らしという開放的な生活は想像以上に素晴らしかった。
伯爵家の令嬢として生まれた私は、婚約者はいれど実際に結婚するまで悠々自適に暮らせる筈だったのだ。
だが、住み慣れた街から程近い丘の上で、黒い煙を幾つも上らせる見慣れない街を見下ろして、どうしてこうなったのかと悲しい気持ちになる。
すでに火は街全体に広がっており、城も半分ほどが火に包まれていた。
「ソフィアーナ様。早く避難を……まだ気付かれておりません」
「……分かった」
後方から急ぐように言われて、無理矢理気持ちを切り替える。今は、悩んでいる時ではない。
少し柔らかい土と背の低い草を踏みしめ、踵を返す。木々や雑草、土などの森独特の香りに混じり、ものが焦げたような嫌な匂いが感じられた。
戦争とは、侵略とはかくも恐ろしいものか。
圧倒的な武力を前にすると、弱者は逃げるしか手はないのだ。そのことをまざまざと見せつけられた気分になる。
「仕方ないわね。予定通り、失われた国、リミアに向かうわ」
そう告げると、全身鎧を着た見上げるような大男が口を開いた。上級騎士のディルク・リースランドだ。若くして騎士団最強の武人である。
「リミア……あそこは、十数年前に魔獣の襲撃によって廃墟と化した地です。大国であっても割に合わないと自国の領地にしない危険な場所かと……」
ディルクにそう言われて、首を左右に振る。
「近隣の国に逃げたとしても、勢いに乗ったヴェネト帝国はすぐに追ってくる……よほど遠くまで逃げるなら安全かもしれないけど、国を失った我々には厳しい旅路となるわ。今は、再興の為の時間が欲しいの」
私の答えに、ディルクは僅かに目を丸くしてまじまじとこちらを見た。そして、僅かに口の端を上げて聞き返す。
「……それは、シンクレア伯爵家の再興、ですか? それとも……」
「ほら、時間がないわ。まずは、皆を連れてリミアを目指しましょ」
質疑応答している時間は無い。急いでそれだけ告げると、ディルクはふっと息を漏らすように笑った。
「承知いたしました。我が忠誠はシンクレア伯爵家にあります」
そう言って、ディルクはこちらに背を向けて歩き出す。奥で準備を進めていた人々に声を掛け、騎乗用の馬を連れに移動した。
その様子を確認してから、もう一度だけ自らが育った街を振り返る。建物を丸ごと包み込むような巨大な火まで上がり始めており、もはや街は地獄の様相を呈していた。
胸が痛む。生ぬるい風に運ばれて煤が飛んできた。まるで、死にかけた街が早く逃げろと言ってくれている気がした。
「……さようなら、愛するエルテミス王国。さようなら、私のシンクレア伯爵家」
別れの挨拶を一人で呟き、私は踵を返した。
物語は、過去に戻る。
私が育ったシンクレア伯爵家は大陸の端にある小さな国、エルテミス王国の七つある上級貴族の一つであり、数少ない領地持ちの貴族でもあった。人口一万五千程度の小国であり、いつ近隣の国から潰されてもおかしくないような小さな国だが、その国の歴史は約五百年以上という長きに渡って続いていた。
何故、それほど小さな国が存在し続けられたのか。それは、初代国王の娘が聖女として生まれたからだ。
地方の代官でしかなかった男が、聖女の娘の力を借りて国を興すまでになった。そして、周囲の国を併合して段々と大きくなり、一昔前は国土の小さな大国と呼ばれていたこともある。そんな国も、聖女がいなくなってからは衰退していくばかりだった。
他の国で聖女が生まれてその国が発展していく中、エルテミス王国は少しずつ領土を削り取られ、優れていた産業においても劣勢になりつつある状況である。それでも、エルテミス王国は周囲に侵略されることなく、平和を享受することが出来ていた。
その理由は、同盟国であるバルド皇国に聖女が生まれたことによる。国力を落としたエルテミス王国と同程度の小国だったバルド皇国は、聖女が生まれたことにより大国の仲間入りをした。その庇護下に入ったおかげで、エルテミス王国は生きながらえることが出来たのだ。バルド皇国の聖女もすでに喪われて久しいが、いまだ皇国はそれなりの力を保っていた。
この世界で、聖女は常に一人だけである。どこかで聖女が生まれれば、その聖女が亡くなるまで次の聖女は生まれない。かといって、聖女の誘拐や暗殺といった行動は憚られた。何故なら、過去に聖女を誘拐しようとした国は失敗した挙句に他国から弾圧されて衰退し、聖女を暗殺した国はその後聖女が生まれず、他国から攻め込まれて滅ぼされてしまった。
そういった過去があり、聖女という存在はそれだけ特別でありながら、下手に手を出すと身を滅ぼす可能性もある神聖な存在。それこそが世界中での共通認識なのだ。
エルテミス王国のような小国が平和に過ごせているのも、そういった背景があったからだった。
「ソフィ!」
「え?」
名を呼ばれて、振り返る。
「どうしたんですか?」
急に名前を呼ばれた気になって顔を上げると、怒ったような顔をした兄が近くにいた。我が兄ながら、美しい金髪の中性的な美青年だ。男らしさとは無縁だが、その麗しさは世の女性たちを魅了することだろう。シンクレアの血筋特有である紫がかった瞳もミステリアスな魅力を加えていた。
「何度も呼んだんだぞ」
ご立腹した美少年、ルクテリ・ルスス・シンクレアは腕を組んで文句を口にする。
私はテーブルに置いていたカップを手に取り、口に運んだ。真っ白な陶磁器に金で模様を描いた美しいティーカップセットの一つである。これで紅茶を飲むと気分が良くなるお気に入りの逸品だ。
今日の紅茶は香り豊かながら少し清涼感のあるものだ。こちらも午前中に好んで飲む品種である。香りを楽しみ、少し口に含んで味の広がりを楽しむ。そして、ゆっくりとカップをテーブルに置いた。
「……え?」
「え、じゃないよ、本当に……」
何度も呼ばれた記憶がない為、思わず生返事をしたのだが、ルクテリはがっくりと肩を落として呟いた。
今は中庭が見渡せる小部屋で一人掛けのソファーに座っていたのだが、ルクテリもテーブルを挟んだ反対側のソファーに腰を下ろした。
「まぁ、ルクテリ兄様。そんなに急がずとも、今は夏休みですし」
まだ後一週間以上も休みはある。のんびりとした気持ちでそう口にすると、ルクテリは恨みがましい目でこちらを見てきた。
「高等部は夏休みが今日までなんだよ」
「え? そうでしたっけ?」
「ぐ……小憎らしい!」
返事をすると、ルクテリは頭を両手で抱えて唸った。それを眺めつつ、もう一度紅茶を口に運び、微笑む。
「ルクテリ兄様?」
「なんだよ」
「とても、可愛らしいですね」
「兄を馬鹿にしていないか!?」
正直な感想だったのだが、ルクテリは自らの髪をがしがしと音が鳴るほど搔きむしりながら怒った。いやいや、十三歳ほどの美少年が口を尖らせて怒っているのだ。可愛らしい以外の何があるというのか。
そんなことを思いつつ、苦悶の声を上げて嘆くルクテリを見て笑みを深める。
そう。私、ソフィアーナ・フレイ・シンクレアは確かにシンクレア伯爵家の二人目の子であり、長女である。しかし、同時にそれ以外の記憶があった。いや、ある日不意に蘇ったというのが正しいだろうか。
間違いなく、私は前世の記憶を持っているのだ。それも、遥か昔の遠い記憶である。
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