2. 傀儡令嬢の誕生、綻びが生まれた婚約者達


 リュシアンが十歳の祝いを済ませた頃、ソフィー皇后は第二子を懐妊中であった。しかしその子は残念ながら死産する。

 その後皇后は死産が原因と思われる体調不良によって、急激に身体を悪くしてしまう。そしてたったひと月後、息子リュシアンを置いていく事を悔やみながらも逝去した。


 聡明で、常に民に寄り添う心を忘れなかったソフィー皇后は、帝国中の民にその死を惜しまれながら国葬を終えた。

 葬儀の間、早くに母を亡くした皇太子リュシアンは終始凛とした姿を見せており、集まった民の心を揺さぶった。

 しかし実際はまだ十歳。葬儀を終えた後に、母を失った傷心から、しばらく居室に閉じ籠ってしまっているという事を知ったレティシアが見舞いに訪れた。


「ルシアン様、泣いてるの?」

「レティー……、誰よりも優しく気高く聡明だった母上に、もう会えないと思うと……俺は寂しい」

「私も……ソフィー様に会えないの、さみしい。私達が大人になったら、また会えるの?」


 誰も幼いレティシアに死というものの全てを説明する事をしなかった。だから皇后がしばらく遠い所にでも行ったような気持ちでそう口にしたのである。

 時間がかかっても、必ずまた会えるのだとレティシアは考えていた。


「違うんだ、レティー。もう、母上には……」

「やだ、ルシアン様。泣かないで。私がそばにいるわ。一緒にソフィー様が戻ってくるのを待とうよ」

「……うん」


 レティシアがあの手この手でいくら慰めても、この日はとうとういつものようにリュシアンが笑いかけてくれる事は無かった。


 そしてソフィー皇后が儚くなってすぐ、元は皇帝の愛人だった皇妃カタリーナはますます存在感を増すようになる。まるで自分が皇后になったかのように振る舞うカタリーナと、好き勝手を許す皇帝。

 そのうち、リュシアンと皇帝の確執は誰もが知るところとなる。


「ベリル侯爵、そしてレティシア嬢。今日はよくぞ参った。楽しんでいってくれ」

「はっ、本日は皇帝陛下と皇妃カタリーナ様との茶会に娘共々招待していただき、光栄です」


 まだ葬儀が終わってそう経っていない頃、皇帝はベリル侯爵とレティシアを茶会の名目で呼び出した。

 

「よいよい、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。其方には色々と世話になっておるからな」

「いえ、そのような事は」

 

 この頃の皇帝の一番のお気に入りは、忠実な家臣であるベリル侯爵であった。

 娘が皇帝と折り合いの悪い皇太子の婚約者であるという引け目から、ベリル侯爵はカタリーナを新たな皇后にすべく、他の貴族にも働きかけるなどして皇帝のご機嫌取りに励んでいたからだ。


「レティシア嬢、其方もこれからはカタリーナの話し相手となってやってくれ。貴族の中には無礼にもカタリーナを毛嫌いする者達もいるのだ。頼んだぞ」

「……はい」


 リュシアンの婚約者でソフィー皇后とも親交が深かったレティシアが、元愛人カタリーナと仲良くしたいはずも無く、皇帝もそれを分かった上でレティシアを困らせようとしてそのように命じているのだ。

 皇太子への怒りを、婚約者であるレティシアに八つ当たりして鬱憤を晴らそうとするその心根は、到底褒められたものでは無い。


「それにしても、皇太子には困ったものだ。多少腕に覚えがあるからと、歴代の皇帝が率いてきた帝国第一騎士団を勝手に復活させおって」

「確か……第一騎士団の発足は百二十年ぶりでしたか。『戦は臣下にさせよ、皇帝はまつりごとに注力せよ』と、当時の皇帝陛下が命じた事で解散する事になったのでしたな」

「生意気な。本当に、あの口うるさかったソフィーにそっくりで可愛げのない奴よ。何かあればすぐに『民の為、民の為』と言いおって」


 レティシアはすぐにでもソフィー皇后やリュシアンを悪く言うこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。

 しかしそのような不敬が許されるはずも無い。だからじっと堪えるしか無かった。


 実は、カタリーナを新皇后にする事を許さない皇太子派の貴族の筆頭がジェラン侯爵である。

 その上ジェラン侯爵は自分の娘を皇太子に近づけようという魂胆から、リュシアン率いる第一騎士団に長女イリナを入団させたのだった。


「それにしても陛下、ジェラン侯爵のところの娘は実にけしからんですな。女だてらに騎士の真似事などして、おおかた親子で皇太子を籠絡しようという魂胆でしょう。ギヨームジェラン侯爵は昔から狡猾で抜け目のない奴でしたから」

「ふん、ギヨームか。あやつも其方に負けず劣らず狡知に長けた奴よの。この際皇太子とレティシア嬢の婚約は破棄するか。カタリーナの腹に宿った子が皇子であれば、その子と婚約を結ばせれば良い」

「なるほど、それはそれで良い考えですな。我が家のレティシアをそのようにお引き立ていただき光栄です」


 レティシアは思わず息を呑む。皇妃カタリーナの妊娠は初耳で、もし生まれてくる子が皇子であれば皇帝と不仲な皇太子リュシアンの立場が危うくなるからだ。適当な理由をつけた皇位剥奪など、この皇帝ならやり兼ねない。

 それだけでなく、大好きなリュシアンとの婚約を皇帝は破棄すれば良いと言う。そして父親もそれに賛同しているのだ。


「わ、私……」

「ん? 何だ、レティシア」

「私……婚約破棄なんて、したくありません」


 一瞬場の空気が凍りついた。たった五歳の女の子の言葉で、皇帝とカタリーナの表情はみるみるうちに険しくなる。

 そこで、ベリル侯爵はいち早く反応した。


「この……っ! 愚か者め!」


 立ち上がり、隣に座るレティシアに向き合った侯爵はその頬を思い切り叩き、レティシアは勢い余って椅子から転げ落ちた。

 そしてまだ容赦なく何度もレティシアの顔を、頭を殴る侯爵を誰も止めようとせず見守っていた。

 いや、カタリーナがフンッと鼻で笑う声が聞こえたような気もする。


「この! 愚かな娘め! 私に恥をかかせ、陛下に不敬を働くなど!」

「い……たい、お、おと……さま……」

「あの皇太子といるから、このような愚かな娘になってしまったのか!」

「ひ……っ、う……」


 しばらくの間、侯爵によるレティシアへの折檻は続いた。レティシアは今まで父親からこのような仕打ちをされたのは初めてのことで、恐怖と痛みから失神してしまう。


「陛下、カタリーナ様、大変失礼いたしました。娘の教育を誤ったようです。また厳しくしつけ直しますので、今日のところはどうかご容赦ください」


 失神したレティシアは侍従によって連れて行かれた。その顔や目は赤く腫れており、口元には血も滲んでいる。痛々しいレティシアの姿にも、皇帝とカタリーナは一瞥くれただけですぐに興味を失った。


 それから、レティシアは両親の言う通りにしか動けない傀儡令嬢となったのだ。

 

 レティシアの急な変化に、何も知らないリュシアンは理解が及ばず、理由を尋ねてもレティシアは話さなかった。

 やがてそんな二人の間に少しずつ綻びが出来始める。

 

 実母を軽んじた憎き皇帝やその忠臣であるベリル侯爵、そしてその娘レティシアの事を、まだまだ子どもであったリュシアンは段々と疎んじるようになっていった。

 

 

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