第11話 TS転生おじさん、耳をすます。

「メヌエット様! 来てくださったのですね!」


「お久しぶりです、マンダリンお嬢様。本日はお招き頂き本当にありがとうございます」


「こちらこそ、来てくださってありがとう!」


 大事な演奏会の前で忙しい、或いは緊張しているであろうに。入り口で受付を済ませて親方と別れ、指定された席に向かうと、偶然にもご学友と連れ立って廊下を歩いていたマンダリンお嬢様と再会することができた。


 本来は社会人として花束のひとつでも持参すべきところなのだが、親方と連名で公爵家の方に高価な花束を、学院の方にはイカルガ楽器工房名義で豪華な花輪を贈ったため、手ぶらであったのが悔やまれる。


 マンダリンお嬢様は私の姿を見かけるなり、遠くから走ってきて勢いよく抱き着いてきた。貴族のお嬢様というのはもっとお淑やかなのでは? というイメージとは裏腹に、随分とアグレッシブな少女である。


 それにしても、凛子がよく仲のいい友達とやっているのは見たことがあったが、女の子同士のハグというのは実際に自分が当事者の立場になると慣れないものだ。一瞬セクハラを心配してしまいそうになるのは、元おじさんの悲しい性であろう。


「もう! わたくしのことはリンリンと呼んでと言ったじゃありませんか!」


「畏れ多いことでございます」


「どうか見ていてくださいねメヌエット様! わたくしきっと、あのピアノに相応しい一流の歌声を披露してみせますから!」


「はい。微力ながらマンダリンお嬢様の華々しいご活躍を、客席の方から応援させて頂きます」


 私がマンダリンお嬢様に両手を取られていると、後ろからご学友の方々がやってきた。皆ハンサムな美少年揃いで、芸能人のアイドルグループを前にした時のような妙な迫力がある。


「リンリン、こちらの御令嬢は?」


「ああ、わたくしとしたことがつい! 申し訳ありません殿下、ご紹介致しますわ!」


(……殿下!?)


 なんと彼女と連れ立って歩いていたハンサムな美少年たちは皆、この国の未来を担う重鎮たちであった。このハルモニア王国の王子であるフォルテ・ハルモニア王子。それから宮廷楽団長の息子さん、騎士団長の息子さん。


 それと、義姉の発表会の応援に来た弟さん。先日睨まれたばかりなので、ちょっと気まずい。今も私に厳しい視線を向けてくるのは何故だろう。平民風情が貴族であるお姉さんのことを叱り飛ばしたことが赦せないのだろうか。


「お初にお目にかかります。イカルガ楽器工房に勤めております、メヌエットと申します。お会いできて大変光栄です」


「ああ、君が噂の。僕からもお礼を言わせてほしいな。君という友人ができてから、リンリンは以前よりとても明るくなってね。思わず妬けてしまいそうになるぐらいさ。一体どんな魔法を使ったんだい?」


「恐縮です」


「イカルガ楽器工房……ああ、あの腕はいいが性格の悪い爺さんの店か」


「失礼ですよメッゾ。失礼致しました、お嬢さん。彼に悪気はないのです。どうか赦してやってください」


「いえ。親方が気難しい方なのは事実ですから」


 帰りたい。いきなりこの国の王子様とその取り巻きの皆さんに囲まれてしまい、小市民のおじさんとしては胆が潰れてしまいそうだ。もし何か失礼を働いてしまったら、その比は公爵家のお嬢様どころの騒ぎではあるまい。


 内心冷や汗ダラダラになりながらも、前世で培った営業スマイルでなんとかこの場を切り抜けんと愛想笑いを浮かべる。頬の筋肉が今にも攣ってしまいそうだが、我慢だ。


「これから大事な発表に臨まれる皆様のお邪魔をしてはいけませんから、私はこの辺で失礼させて頂きますね。月並みな言葉ですが、頑張ってください、マンダリンお嬢様」


「ありがとう、メヌエットさん! 私、頑張るわ!」


 ふう、死ぬかと思った。無事にマンダリンお嬢様とその愉快なお友達から逃れることができた私は、そそくさと女子トイレに立ち寄ってから指定された席に急ぐ。他に知り合いはいないから、これ以上絡まれる心配もないだろう。


 まさか王子様とバッタリ鉢合わせるはめになるとは。異世界って恐ろしいんだなあ。日本人だった頃は、いきなり総理大臣や大統領の息子に会う機会なんてなかったもんな。あって堪るか、そんな機会!


――


 春の演奏会は大成功の裡に無事に幕を閉じた。音楽に疎い私でも、彼らの演奏が非常に優れた素晴らしいものであったのはわかる。まさに考えるな、感じろ、と言わんばかりに、素晴らしい音楽の世界に浸ることができた。


 世界一の音楽の国が誇る、世界最高峰の音楽学校の実力おそるべし、だ。親方がマンダリンお嬢様のために作り上げた例のピアノをフォルテ王子が演奏し、マンダリンお嬢様が歌った独唱も本当に素晴らしかった。


(凛子のバレエの発表会を思い出すなあ)


 前世。何かのアニメを観てバレエをやりたい! と言い出した幼い凛子が、妻に連れられバレエ教室に通い始めたのだが、市民ホールの小さな舞台で行われた初めての発表会で躓いて転んでしまい、大泣きしてすぐにやめてしまったのを思い出す。


 それ以来我が家ではバレエの話題を出すのは禁句になった。一生懸命頑張る子供たちを応援するというのは本当に久しぶりで、私はとても懐かしい気持ちになった。あの頃は妻もまだ元気だったのに、と少しセンチメンタルな気持ちになる。


 そういえば、と私は演奏会の途中で起きたハプニングのことを思い出した。1年生のあるクラスの発表の最中、突然ひとりの女生徒が演奏していたヴァイオリンの弦が切れてしまったのだ。


 ビン! と切れてしまったヴァイオリンの弦が頬を掠めてしまい、頬から出血したことで演奏が中断されてしまったため、彼女はそのまま保健室へと搬送され、彼女抜きで演奏を再開することになったのは驚いてしまった。


(彼女の親御さんは、さぞ心配だっただろうなあ)


 実は東大の門より倍率が高くて狭い、伝統ある音楽学院に入学できた娘の晴れ舞台で起きてしまったトラブルなのだ。私が彼女の父親だったなら、大慌てで保健室まですっ飛んでいったことだろう。


 心配なのはもちろんそうだが、晴れ舞台で恥を掻いてしまった少女の気持ちを思うと胸がきゅっと締め付けられそうになった。バレエの初舞台で大失敗してしまった凛子が大泣きする姿を見て、私まで悲しくなってしまった当時の記憶が蘇る。


 そういう時、親というのは無力なものだ。どれだけ慰めの言葉をかけても、傷付いてしまった我が子の心の傷を癒してあげることはできない。歯痒くもどかしい、だが、誰を恨むこともできない悲劇というのは往々にして起こり得る。


(……夕飯、どうしようかな)


 親方はこの後、来賓の方々と共にお食事会に参加するとのことで、私は先に帰っているようにと辻馬車代を頂いている。演奏会を終え、音楽ホールから出てきた人の流れに乗って学院の正門へと向かう途中、ふと尿意を催した。


 音楽ホールに戻ろうかとも思ったが、それなりに距離があったのと、人の波がこちらに流れてくるため、それに逆らうのは難しかった。周囲を見回すと、すぐ近くに中庭があるのを見つける。そしてその隣に、小さなトイレの小屋があった。


 校舎内に無断で立ち入るのは問題だろうが、中庭の屋外トイレをお借りする分には問題ないだろう、たぶん。私は人波を抜けて、近頃ではすっかり入ることに抵抗のなくなった女子トイレに足を踏み入れる。


「うっうっ! うううーっ!」


「?」


 だが静かな中庭の女子トイレに入ると、どこからともなく女の子の泣き声が聞こえてきた。まさかこんな昼間から幽霊が出たわけではあるまい。というか、異世界にもトイレの花子さんのような怪談は存在するのだろうか?


 ドワーフやエルフが実在しているのだから、この世界にオバケがいてもなんら不思議ではないかもしれないが。私は女の子のすすり泣きが聞こえるトイレの個室に入るのが、すっかり怖くなってしまった。


「……死のう。もう死ぬしかない。私なんか、私なんかヴァイオリンの弦で首を吊って死んじゃえばいいんだあ!」


「早まってはいけません!」


「だ、誰!?」


「それはこちらの台詞です! とにかく、早まってはいけません!」


 だが、聞き捨てならない言葉が聞こえてしまったため、私は大慌てで唯一閉まっている個室のドアをノックするはめになった。

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