第三十話 心の傷に縛られて
突然稲光が閃き、さほど時を置かず、臓腑を揺さぶるような大きな雷鳴が響き渡った。
……ような気がした。
ううん、たった今まで空は晴れていたはず。馬車の窓から空を食い入るように見詰める。
そこにあるのは、青空だ。
それじゃ、さっきのは何だったの……?
御者側の小窓を開けて、ジョンに尋ねた。
「ねえ、今、雷が落ちなかった?」
「へ? いやいや、こんなに良い天気なのに?
マリーゼ様、寝惚けてらっしゃるんじゃないですか?
セルナ住宅街はまだまだ先ですから、しばらくお休みになると良いですよ」
そんなことを言われても、とても眠れるような気分じゃない。
何だか息苦しい。……ああ、落ち着くのよ、マリーゼ。呼吸を整えて。
座っているうちに、少しずつ気持ちが悪くなってきた。
何だろう、頭がクラクラする。全身が熱くなってきた。熱があるのかもしれない。
横に……横にならなきゃ。
苦しみに耐えながら、緩慢な動作で、何とか座席に上半身を横たえた。
しばらく進むと、急に馬車が動かなくなった。
「おい、おまえ達、どうした!?」
ジョンが声を張り上げているのが聞こえる。
馬達も気が付いたのだろうか。
霊に囲まれて世話をされているフランメル準子爵邸の馬は、皆、普通の馬に比べて霊感が強くなっている。
何がしかの霊障を察知したのだ。
ジョンは道の端に馬車を停め、御者台から降りて馬車のドアを開けた。
「すみません、馬が動かなくなっちまいまして……
ハッ!? マリーゼ様!? 大丈夫ですか?」
「ごめんなさい。何だか私、この辺りの気と凄く相性が悪いようだわ」
「うーん……ワシでもここは、ちょっと不味いというのは分かります。
しかし……それはあくまで、一般人の場合で。
おそらく、ここにいる者どもよりも、幽体離脱したマリーゼ様の方が遥かに強いと思うんですが……
一体どうなさったんですか?」
「よく分からないわ……
ただ、前世の因縁のせいかも……」
やっとのことで上半身を起こし、窓の外を見た。
あと三十メートルも進んだ先、左側に黒い鉄柵が続いていて、脇に立看板が見える。
_______
グランデ人形館
跡地につき注意
_______
三百年、ここに『いた』という記憶はある。
そして『虐げられた事実がある』という記憶も。
でもそれ以外はほとんど何も思い出せない。
今の私を縛るのは、地縛霊となって暴れていた頃の私じゃない。
その前の……グランデ人形館に住んでいた、生身の人間だった私だ。
血塗れの心で泣き叫んでいた、弱りきった前世の、私の記憶。
だめよ、今はこんなところで倒れている場合じゃない。
人買いに連れて行かれたレンの無事を、少しでも早く確かめに行きたいのに……
生身だから、こんなに弱いのかも。
幽体離脱して、何者にも縛られない自分になれば、この苦痛から解き放たれるだろうか。
狭くなっているように感じる肺に、精一杯息を吸い込んで、止める。
たん、と足を踏み込んで、いつものように、身体を抜け出して、身軽に……
「!!!!!!」
抜け出せない。
この重苦しい身体から、魂を自由に出来ない。
「どうして……!?」
「えっ!? マリーゼ様、どうなさったんですか!?」
焦った表情のジョンのずっと後ろ、人形館の黒い鉄柵に、人影が現れた。
死んでから年月の経った、三体の霊。オーラがドロドロに崩れ、もう生前の形を取ることもできそうにない、古い霊だ。
性別はギリギリ分かる。男が二人に、女が一人。
怖い。動けない。声も出ない。
私の表情に、後ろを振り向いたジョンが叫んだ。
「な、なんだ! お前らは!」
柵越しに、三体の男女が、腕とも触手ともつかない何かを、こちらにのろりと伸ばし始める。
ヒヒーーーーーーーーン!!
馬が恐怖で暴れ出した。
「だ、だめ、ジョン……逃げて、あなたじゃ勝てな……」
私がよろけながら馬車を降りると、霊の腕が先程までとは違う素早い動きで、こちらに向かってきた。
長く伸びた腕が、動けない私の右手首、左手首、右足首、左足首をあっさり捕らえた。
そのまま私は黒い柵までズルズルと引き摺られていく。
ジョンが古霊の腕を解こうと私の右脚に縋りつくが、残った二本の腕が、彼を引き剥がして遠くに放り投げた。
もう駄目……どうしたら……だ、誰か、誰か……
「助けて……!!」
掠れた声で、必死に叫んだ。
「……、…………、…………!」
誰かの声が聞こえた。何を言っているのかは分からない。
外国語? 帝国語? 聖なる書物の一節のような気がする。
それと同時に光を放つ水の粒が弧を描いて振り撒かれる。
水滴は私の手足を拘束する長い腕を払い落とすように落ちると、その表面をジュッと音を立てて焼いた。
ヒイイイイ……イイイイ……イイイイイイ……
急いで手を引っ込めた三体の霊の、叫び声がこだまする。
誰かがこちらに足早に駆け寄った。倒れた私を抱き起こしたその人が、息を飲んだのが伝わる。
「まさか、あんたか……?」
ゆっくり瞬きをして見つめたその先にいたのは、黒い神父服を纏い、肩から白いストラを掛けたエクソシスト。
アール・スレイター、その人だった。
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