第二話 身体からすっぽ抜けたもの

強く吹っ飛ばされたような感覚の後……


私は階段の遥か手前の床で、大の字になっていた。

……意外にも、身体のどこにも痛みはない。打ち所が良かったのだろうか。

そっと右手を持ち上げる。うん、やっぱり痛くない。


「ふぅ、ようやく邪魔者が片付いてくれたわ。あなたがいなくなれば、全てはこちらの物よ」


階段を後からゆっくり降りてきたシェアリアは、そう言い放つ。


え……?


しかし、何か違和感があった。

彼女は私を見ていない。私ではなく、もっと階段に近い床を見下ろしていた。

私は上半身を起こして、彼女の視線の先を確かめる。


……ええええええ!?


目を疑った。そこに転がっていたのは、紛れもなく私だったのだ。


咄嗟に、今、上半身を起こしている自分を見下ろす。そこに身体は、確かにあった。

わなわなと震える両手も、その下にあるスカートに包まれた両脚も。


……だが、透けている。半透明……いや、90%くらい透明だ。私の眼にはそう見える。

でも、シェアリアは私に視線を送ってこない。彼女の目には、透き通った私の姿は映っていないのだろうか。


そこへ、二階から誰かが走ってくる足音がした。そして、夫の声。


「おい! シェアリア! 何をしてるんだ! まだ早いと言っただろう!」


「だってぇ、チャンスだったのよ。それに事故じゃなきゃ保険金が……」


「シッ! 声が大きい」


保険金!?

この人達、私に保険を掛けたの!?

まずい! このままじゃ、二か月を待たずに、私は殺されてしまう!


ハリーは倒れている私の鼻と口元に手をかざす。


「息をしてないな……

とにかく、俺達は、今、ここに来た。こいつが階段から落ちたのも、今、初めて見た。いいな?」


「事故に見せかけるんでしょ? 分かってるわよ」


「とにかく医者を呼ぼう。」


二人は連れ立って、その場を離れていった。


何これ……どういうこと? 息をしてないって……

まさか、私、幽霊なの!? 死んでしまったの?


一人残された私は、恐る恐る自分の身体に歩み寄った。

こうして第三者的に見ると、我ながら本当に冴えない容貌だ。

血の気が通っていない、かさついた肌に、こけた頬。

本当に死んでいるのだろうか? 恐る恐る触ってみる。


すると、自分が丸ごとシュッと吸い込まれるような感覚があった。

魂と身体が、隅々まで、くまなく繋がっていくような感じがする。

繋がりきったところで、私は大きく目を見開いた。


「い、痛っ……!」


身体中が、打撲の痛みで悲鳴を上げていた。息はできるが、絶え絶えだ。

骨折をしたような類の痛みはなかったから、本当に打ち所が良かったのだろう。だが打ち身でも、猛烈に痛い。

とても起き上がれそうになかった。


「大丈夫ですか!?」


玄関の方から、足早に白衣の男性が駆け寄ってきた。

この人は……確か、伯爵領で病院を構えている医師、ライナス・ハンターだ。腕が良いから、怪我人や病人が出る度に屋敷に呼ばれていた。

その後方には、唖然とした顔のハリーとシェアリアが突っ立っている。使用人達も数人、ザワザワ話しながら現場にやってきた。


「伯爵様、早く、奥様をお部屋へ」


ハンター先生の言葉を聞いた使用人の一人が私の肩を抱え、もう一人が膝を持ち上げるようにして、私を例の小部屋に運ぼうとした。するとハリーは慌てた様子で二人に指示を出す。


「待て、マリーゼを客室に運べ。そっちの方が近い」


さすがに私が普段虐げられている部屋を部外者に見せるのは、ためらいがあったようだ。

まあ、そのおかげで、私は久しぶりに軋まないベッドに寝かされて、きちんとした手当てを受けることができたのだが。




***




あれから一週間。ハンター先生が、全身の湿布を貼り替える。ちょっと恥ずかしいけれど、これも治療行為の一環だ。

これまで私は、風邪を引こうが捻挫をしようが、一度も先生に診てもらうことはなかった。

だから気が付かなかったけれど、先生はとても素晴らしい人だった。

少し癖のある艶やかな黒い髪に、落ち着きを宿した黒い瞳。端正な顔立ちも素敵だけれど、見た目以前に、人柄が良いのだ。思いやりがあって、細かい気配りができるし、正義感も強い。


でも、こんな人が夫だったら……とは、さすがに思わない。私なんかじゃ、とても釣り合いが取れないから。


「奥様、体調はいかかですか?そろそろ起き上がって、普段の生活に戻れるはずです」


先生の言葉に、何も答えられず、押し黙る。

普段の生活……まともに食事も与えられず、こき使われる生活に、再び戻るのね。そして戻った後は、確実に殺されてしまう。


この一週間、毎日先生が往診に通ってくれていた。

おかげで、無理やり働かされたりせず、病人食ではあるけれど、バランスの取れた食生活を送ることができた。

肌艶もわずかに良くなったと思う。


何より、ハンター先生から、いつも労りの言葉を掛けられるのが嬉しかった。

陽炎のように儚い、この幸せが、終わってしまうのだ……無意識に涙が浮かぶ。


先生はハッとした表情で私を見詰めた。一旦椅子から立ち上がり、ドアを開けて周囲を確かめ、こちらに戻ってくる。そして声を潜め、ためらいがちに尋ねてきた。


「やはり、あなたは……虐待を受けていますね?」


ハッとして、彼の顔を見る。


「あなたの栄養状態は明らかにおかしい。貧民街でもここまで痩せている人は珍しいくらいですよ。

それに自宅での怪我なのに、本人の寝室でなく、わざわざ客間に運ぶのも不自然です」


……何も答えられない。言葉が出てこない。涙だけが次々と溢れてくる。

ハリーに『先生に余計なことを言うな、言ったらすぐにでも、お前を殺す』と口止めされているのだ。


でも、まともに話すようになって僅か一週間の、赤の他人の先生が、私の苦しみに気付いてくれた。

それだけで、心底嬉しかった。

実の家族にすら打ち捨てられているのに。


私は思い切って、これまでの経緯を洗いざらい、ハンター先生に話す。


生家と婚家との力関係。母を亡くし、残った家族には見放されていること。

夫に愛人がいて、対面を保つために白い結婚をさせられていること。

そして、密かに保険金を掛けられ、殺されそうになっていること。

その全てを口止めされていること……


彼の顔がどんどん蒼褪めていく。


「奥様、あなたはすぐに離縁した方がいい。あなたの診断書と状況を正式な書類にして、貴族院に送っておきます。身を隠す必要があるなら、当分の間、信頼できる貴族の知人に、あなたを保護してもらいましょう。

明日、またここに来ます。伯爵には何も知らないふりをして、あなたを入院させる必要があると伝えます。

取り急ぎここを出ましょう」


「あ、ありがとうございます、先生……でも、無理はなさらないで」


お母様を亡くして以来、生きてきて、初めて希望が見えた。

とめどなく零れる涙は、絶望から喜びのものへと変わっていく。

私は救われるのだ。




……しかし、そう思ったのも、この日が最後だった。

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