8
釣り上げたイワシが三度食卓に並んだ。律はイワシを使い、刺身、天ぷら、そしてツミレを器用に作った。新鮮であることも手伝い、感動を覚えるほどに旨かった。
しかし、そんな食事を食べながらも、しばしば心は離れようとする。その行き先は、千宙だった。彼女にも食べさせて、どんな顔をするかを見てみたい。そんな思いが膨らんで、会いたい気持ちが心の中でゆらゆらと揺れる。
夜、誘われて砂浜を散歩しながらも、隣にいる律のことをふと忘れそうになった。静かな波音の中に、さくさくと二人分の足音が響く。千宙がこの島にいたら、どんなことを言って、何をするだろう。そんな想像で心がいっぱいになる。
「ねえ、何考えてんの」
はっとして、隣の律を振り向いた。彼女のそばで、こぶし大の炎が二つ燃えている。彼女がおこした狐火だ。不思議と熱くないその炎は、互いの顔と足元を照らしてくれる。
「大したことじゃない」
「彼女のことでも考えてたんでしょ」
律は得意げな顔をし、陽向は的確に図星をつかれて少し悔しくなる。この妖狐の少女は、異様に勘が鋭いところがあるのだ。まったく侮れない。
「そろそろ会いたいんじゃないの」
「別に」まるで子どもじみた強がりの言葉を口にしてしまい、咄嗟に取り繕う。「言っただろ。あいつ、浮気してたんだ」
千宙が彼氏を差し置いて、葛西祐司と仲良くしていることは既に話していた。葛西祐司が、父の大事な方の息子であることも。父、つまり葛西将吾に、千宙と別れるよう迫られていることも。
「じゃ、陽向は彼女と別れるつもりなんだ」
「そんなつもりはない」
「でも、浮気が許せないんでしょ」
「……一言でいいんだ、謝ってくれたら」しかし千宙は謝るどころか開き直った。隠れない私の方がずっと誠実。彼女の台詞はきっちり覚えている。
「けどあいつ、全然悪びれなくてさ。まともに俺と話し合おうともしないし。俺にはバイトで会えないとか言ってるくせに、やつとはちょこちょこ会ってるし」
「本当に、ただ偶然会ってるだけじゃないの」
「学校が一緒だからって、そう何度も偶然出会うわけないだろ。お互い合わせてるんだ」
「それって、陽向の想像でしょ」
ムキになり、律を睨みつけてしまう。彼女は飄々とした涼しげな顔で、まるで気に留める風もない。自分を歯牙にもかけない葛西将吾の態度が被り、無性に腹が立つ。
「俺だって何度もそう思おうとしたよ。けど、せめて俺のことをあいつに教えるべきだろ。明らかにやつは千宙に気があるんだから。彼氏持ちだって一言言えばいいのに」
千宙まで自分の存在を隠そうとしている。それが悲しいのだった。そこまでして、自分は周囲から隠されるべき人間なのか。奪われていくのを、指を咥えて見ているしかないのか。
「ふーん」律は何でもなさそうに鼻を鳴らした。「彼女にとっては、そもそも大したことじゃないのかもね」
まったく怒りが通じていない。つい声を荒げそうになった時、「それでさ」と律が言葉を続けた。
「今、陽向があたしと歩いてるのは構わないわけ」
「なんだよそれ」
「少なくともあたしは、陽向にとっての異性でしょ。彼女に内緒で一緒に夜の散歩をして、おまけに同じ家で暮らしてるのは許されるの」
思わず足を止め、律の顔を見つめた。狐火に照らされる輪郭と、ポニーテールに結われた髪。二つの三角耳。不思議なところはあるが、紛れもない女の子。
「俺、律をそんな風に見たことないけど」
「あたしだって。だから一緒に住めてんじゃん。けど、この現実を彼女が知ったら、陽向の言う浮気どころの騒ぎじゃないよ。それとも、気がないから俺は許せっていうつもり?」
すぐさま言い返せず、言葉を呑んだ。反論したいが、上手い台詞が浮かばない。考えても、自分を庇える言葉が見つからない。
「そりゃあ、バイトっていう事情があるから仕方ないけどさ。彼女にも事情があるかもしれないじゃん。まともに話し合ったの」
「……なんか、その話を避けられてて。まともには、話してない」
腹を括って向かった先で葛西祐司と居合わせ、まともな話し合いになどならなかった。千宙の不実さにショックを受け、そのまま彼らを見送ってしまい、以降は言葉さえ交わしていない。
ほら、と律は少しだけ笑った。
「どんな事情かあたしには想像つかないし、彼女を責めたい気持ちもわかるけどさ。二人でしっかり話し合いなよ。長続きする相手っていうのは、話し合いが出来るかどうかで決まるもんよ」
黙って考え、律の言う通りだと思った。千宙は話し合いを避ける素振りを見せているが、そうする理由があるのかもしれない。何しろ、このまま流されて別れるのだけは、絶対に嫌だ。千宙の言葉で、千宙自身の気持ちを教えてほしい。
素直に頷き、陽向は目を細めて律を見た。
「ずっと島で暮らしてるのに、よくそんなこと知ってるな」
長続きする相手は、話し合いのできる相手。まるでいくつかの恋愛を経験しているかのようだ。彼女はすまし顔で再び歩き出した。
「大したことじゃないし。男の子って、やっぱり単純」
少しむっとしながら、その背について陽向も歩く。そういえば、彼女は生まれてからずっとこの島にいるのだろうか。そもそも、妖に両親は存在するのだろうか。
「律って、ずっとこの島に……」
言いかけて、律の異変に気が付いた。足を止めた彼女は砂地を見つめている。視線を辿り、陽向も少し先の闇に目を凝らした。狐火の灯りから外れた場所に、黒い影がある。月明かりに照らされるそれは、人のように見えた。
律が駆け出し、陽向も慌てて続く。近づいてその正体がはっきりとした。子どもだ。小さな子どもが、うつ伏せで倒れている。
彼女が膝をついてその子を抱え上げ、陽向もそばに膝をつく。「おい、しっかりしろ!」溺れて流れ着いたのか。息はまだあるか。その子の白いTシャツの胸元に手を当て、心臓の鼓動を感じ、取りあえず安堵する。だが、狐火に照らされる頬は白く、ぐったりと目を閉じている。
その子の髪に触れ、やっと異様さに気が付いた。濡れていない。外から流れ着いたのであれば、全身がぐっしょりと濡れているはずだ。まさか昼間に流れ着いて、誰にも気づかれないまま、すっかり海水が乾いたのか。
陽向を驚かせたのは、乾いた髪だけではなかった。髪とは違う感触、律の耳に触れたのと同じ柔らかな手触りがある。
その子の頭には、二つの耳が生えていた。
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