盆の終盤

 当主様と食事会を開いてからというもの、少しだけ鎮目邸の敷地内が穏やかになった。

 元々当主様自体がお忙しい人だとはいえども、どこかギスギスしている空気があったのが、どこか角が取れて丸くなったのだ。

 多分それはいいことなんだろう。

 その日は暑いだろうと、桃矢様に生姜の絞り汁を入れた甘酒を持っていき、ふたりで一緒に飲む。


「ありがとうございます。夏場は大抵倒れてましたから、こうして夕涼に耽ることもできなかったんですけどね」

「そうですか……桃矢様のお加減がよくなってよかったです」


 蚊取り線香の煙が昇るのを見ながら、ふたりで庭から夕焼けを眺める。夕方になったら、日差しも力がなくなり、少しだけ涼しくなる。

 私たちは団扇を扇ぎながら、甘酒を飲む。もうしばらくしたら食事を取りに行くけれど、それまではのんびりとできる。

 そう思ってふたりで佇んでいたところで、玄関のほうからカツカツと音が聞こえることに気付いた。


「はい」

「すみません。咲夜です。夕食前に失礼します」


 珍しい。今日は昼間に来なかったから、てっきり盆の前後で多忙で来られなかったのかと思っていた。

 私は慌てて甘酒をもう一杯分用意すると、咲夜さんを家に招き入れて、甘酒を差し出した。普段であったらこちらが飲み物や食事を用意しようとしても、だいたい「わざわざ奥様を煩わせる訳にはいきません」と断るというのに、今日は珍しく断らずに喉の音を立てて飲み干してしまった。忙し過ぎて、あまり休憩が取れなかったのかもしれない。


「珍しいですね、こんな時間に咲夜さんが訪問するのは」

「いえ……少々ご相談がございまして」

「はい。どうなさいましたか? 今は盆の時期のせいで、どうしても気の乱れが大きくなってしまう頃合いですが」

「それなんですが。桃矢様に地鎮祭を執り行って気の流れを静めて欲しいという直々の依頼がございまして」


 それに私は目をパチクリとさせてしまった。

 わざわざ次期当主名指しで気の乱れを鎮めて欲しいなんて、穏やかじゃない話に思えた。それは桃矢様も同じだろう。


「珍しいですね。自分が自ら向かわないといけないなんて」

「それが……今度、鉄道を地下に敷くことになったのですが……そこの気の乱れを鎮めるのに手間取っているんです。地下のせいで気の読み取りが上手くいかず、このままでは工事を期日までに終えることができないと困り果てて、桃矢様をお呼び立てとなりました」


 たしか、地下に沈んでしまっている分の気の淀みは、鎮目邸に集めて一気に鎮めることができないから、桃矢様が直々に出向かないと鎮めることができないんだっけか。

 でもそれは、鎮目邸の建物あちこちに敷かれている風水の守りなしで、気の流れを静めないといけないということ。桃矢様の体への負担が大きくなる。

 私はハラハラしていると、桃矢様はしばらく考え込む素振りを見せてから「わかりました」と答えた。


「ただし、条件があります」

「……珍しいですね、桃矢様がわざわざ条件をおっしゃるなんて」

「盆の時期ももうそろそろしたら終わります。せめて一週間、妻と一緒に避暑地で休むと分家の皆さんに通達して欲しいんです」


 唐突な申し出に、私はびっくりして口を開けた。

 一瞬咲夜さんは顔を真顔にしたあと、すぐに顔を笑いを堪えるように歪めた。少し力を弱めたら噴き出しそうな様子だ。


「……大変申し訳ございません。新婚にも関わらず、なかなかふたり水入らずの時間をつくれず。わかりました。ただし、盆が終わるまでは本邸から離れないでください。盆が終わり次第、おふたりが避暑地に出向けるよう手配しますから」

「はい、よろしくお願いします」

「奥様、甘酒ごちそうさまでした。それでは失礼します」


 咲夜さんはそのまま挨拶を済ませると、立ち去っていった。

 私は目を白黒とさせながら、桃矢様を見る。


「あのう、避暑地っていったい……?」

「ああ。鎮目邸の療養地のひとつですね。山のほうで夏場は涼しいですよ。あまりに自分が体が弱くて倒れますので、夏の間はそこで過ごしていました。山菜がおいしいですし、水も綺麗です」

「それは楽しみですが……でも、私も行ってよろしいのですか?」

「……ええっと」


 桃矢様は少しだけ頬を染めてから、頬を引っ掻いた。


「……自分の体もだいぶ丈夫になりました。食事の量も増えましたし、おかげで起きていられる時間も長くなりましたし、骨と皮だけだった体も整いました。そろそろ、いいかと思いまして」

「そろそろって……」


 そこそこって……。

 そこまで言ったら、さすがにわかる。私は頬を赤くして、俯いてしまった。


「……それじゃあ、明日はお勤めを頑張らないといけませんね」

「あ、あのう……わかりました。お勤め、お疲れ様です」


 そう言って、桃矢様に会釈をして、「そろそろ夕餉を取ってきます」と小走りで逃げるようにして本邸へと向かっていった。

 今は夕暮れで涼しいはずなのに、先程から顔が火照って仕方ない。

 思えば、お誘いの合図は何度も何度もあったのだ。桃矢様は夏場の暑い中、蚊帳の中でも布団をふたりでくっつけて寝ることを辞めなかったのだから、何度かは誘おうとしていたのだろうけれど、私が桃矢様の気配に安心してすぐ寝てしまうから、なんにも起こらなかったんだ。

 体力も付いたし、痺れを切らしたから避暑地に行こうと思い立ったのだろう。


「……ヘタレでごめんなさい」


 夫婦としてはあまりにも幼い情緒で、申し訳なくなった。


****


 その日、私は本邸の台所で小豆を炊いてあんこをつくっていた。

 あんこをパンに挟んであんパンをつくっていたのだ。


「今日はずいぶんと張り切っていますね、奥様」

「坊ちゃまが今回向かうお仕事のあと、避暑地に出かけるとおっしゃっていましたけど」

「まあ、新婚旅行?」


 女中さんたちにきゃっきゃと話をされていて、気恥ずかしい。

 でも今回は規模が大きい気の淀みを鎮めるので、倒れてしまったら元も子もない。だから体力消耗に備えてあんパンをつくらないといけなかった。

 出来上がったあんこを団扇で扇いで冷まし、パンに挟んでいく。本当はパン生地にあんこを入れて一緒に焼くらしいけれど、さすがに時間がないから、コッペパンに切り込みを入れてそこにあんこをねじ込んだ。

 あんこの匂いにパンの匂い。それに満足して、紙に包んで出かける準備をした。

 離れに戻ったら、香を焚き込めた匂いがするのに、私は目を瞬かせた。すると日頃から滅多に着流し以外の服を着ることのない桃矢様は、狩衣に袖を通し、烏帽子を被っていた。

 私が戻ってきたのに、桃矢様は微笑んで会釈をした。


「桃矢様……普段はほとんど他の着物を着ませんのに」

「ええ。今回は大仕事になりますから。なによりも鎮目邸とは違って、外では風水の守りを得ることができません。この狩衣には、その手の守りが施されていますから」

「ああ、それで着替えられたんですね。お似合いです」


 それに桃矢様は微笑んだ。外に出ると、既にシャツを着てスラックスを履いた彼方さんが車を用意して待っていた。


「それじゃあ乗ってください。行きましょう」

「はい」


 車を走らせて、だんだん通行止めが多い場所へと出てくる。

 警備員が止めに来るたびに「地鎮祭の依頼を受けた風水師です」と言うと、驚いて通してくれる。

 やがて車を停めて、歩きはじめる。車を出る際、彼方さんはなにか風呂敷に包んだものを背負いはじめたのに、私は首を捻った。階段を降りていった先に、ひどいにおいがすることに気付いた。ドブのにおいが篭もっているような気がする。

 いくら夏場であったとしても、ドブも水もない場所でこんなにおいがするのはおかしい。


「なんだか異臭がしませんか?」


 私が思わず袖で口元を抑えていると、彼方さんが頷いた。


「奥様は風水師ではありませんが、長いこと鎮目邸にいたせいで、風水の守りで綺麗な気の巡りしか浴びていませんでしたから、気の淀みに前よりも敏感になってるんでしょう。それが異臭に感じるんだと思います」

「これが……」

「ここはまだ気の巡りがよくありませんね。地下に潜れば潜るほど、気の淀みが重くなっていきます」


 桃矢様もまた、いつもよりも口調が硬い。本職の人が、それも気の流れを常に読み取っている人が言うんだから、間違いないんだろう。

 やがて地下に行くと、工事現場の偉い人らしきスーツの人が現れ、「お待ちしておりました」と何度も何度も頭を下げられた。


「ここの淀みはずいぶんと……」

「はい。他の風水師様もずっと地鎮祭を執り行って気を鎮めてくださったのですが、一向によくならず。そのせいで、地盤も緩いままで。このままでは工事を続けることが困難です」


「はい……わかりました。彼方、用意を手伝ってください」

「かしこまりました」


 私は慌てて依頼者と一緒に端に寄っている間に、彼方さんは背負っていたものをせっせと組み立てはじめた。

 それは神棚のようにも見えた。

 そういえば。大昔は神道も仏教も風水も全部一緒くたにされていた時代があるらしい。多分ここには風水の守り的なものがなにもないから、気の淀みを鎮めるために、せめてもの守りの補強をしているんだろう。

 組み立て終わったのを見届けてから、桃矢様は袖からするりと扇子を取り出すと、気の流れを静めるようにたぐり寄せはじめた。

 普段だったら、少し歌舞伎のように踊りはじめたら、気の流れが澄んで心地よい風が吹き抜けるというのに、なかなかそんな風は通らない。むしろ桃矢様の方角にどんどんとドブのにおいが集まっているような気がする。

 私は心配しておろおろと彼方さんを見ていたものの、彼方さんは平然とした顔で、気を鎮めている桃矢様を見ていた。


「あ、あのう……桃矢様、大丈夫でしょうか? いつもよりもにおいがきつくて、これを一身に受けたら桃矢様……」

「これくらいなら平気ですよ、桃矢様は」

「でも……桃矢様、ほぼ毎日倒れてましたし、ここは地下だけれど風が通らないせいで暑いです。ここで無理に体を張ったら」

「大丈夫ですよ。奥様が心配するほどではありません。たしかにここは開発工事のせいで気の淀みがひどいですけれど……それでも何度も気の流れを鎮めて、淀みが散っています。これくらいだったら、体が壊れることはありません。ですけど、疲れはしますから。その持ってきたあんパンを早くあげてくださいよ」


 そう言われて、私は少しだけ気が紛れた。

 だんだんドブのにおいは薄まっていく。でもだんだん桃矢様の脂汗で滲み出てくる。やがて、さわやかな風が吹き抜けて、階段を巡っていくのがわかった。地下らしく、日の届かない涼しい風だった。

 それに依頼者は「ありがとうございます、ありがとうございます!」と頭を下げる一方、桃矢様はにこりと笑って会釈をしたのと同時に、体がグラリと崩れはじめる。それを慌てて彼方さんが走り寄って、桃矢様を抱える。

 私は慌てて、彼方さんの用意した神棚を片付けると、風呂敷に包んで持って帰る。

 車に乗せると、桃矢様に急いであんパンを出して食べさせる。

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