5話:肝試し

 七月中旬の夜の気温は未だ昼の蒸し暑さを残していて汗が服にしみを作っていく。

 夏の午後八時はそれほど真っ暗ではないにしろ辺りは薄暗く、生温い風にざわつく木々の不気味さは真夏の怪談を語る雰囲気にはぴったりの演出を醸し出している。


「本当に来てしまうとは……」


 俺はミカゲ、そして花梨の三人で隣町にして元俺の故郷『鷹松市』にある廃校になった荒津小学校跡地へ訪れた。


「あんたの鉄の表情筋が恐怖で歪むのが楽しみだわ」

「君こそ一帳羅のスカートに世界地図を描くような恥をかかないようにな」

「誰が漏らすか!」


 相変わらず学校に着いてからも小競合いが絶えない二人だが、今は制服ではなくそれぞれ私服を着ている。

 花梨はオフショルダーにギンガムチェックのタイトスカート。ミカゲは薄手の生地の黒パーカーの下に真っ白でふわふわなワンピース。

 ちなみにこのワンピース、先程自宅でミカゲ宛てに届いた宅配便の箱から出しているのを目撃した。宅配のお兄さんの爽やか且つ眩しい笑顔が脳裏でちらつく。


「しかし……」

 肝試しとは思えない洒落た格好をしている二人を見てため息。そして疑問。

 あれで走れるんだろうか。

 何で走るって? そりゃ幽霊に追いかけられた時に逃げるからだよ。

 幽霊の存在を信じているわけではないが念のためランニングシューズに高校のジャージと完全武装してきた。

 俺がバカみたいで恥ずかしいなんて思ってないから。

 二人よりビビってるとかありえないから!



「職員玄関にスリッパって残ってるかしら」

「廃校だぞ。靴のままでいいだろう」

 警備なんてものはなく、立ち入り禁止のロープを跨いであっさり潜入。

 昇降口から土足のまま校舎に入り、持参の懐中電灯の儚い灯りを頼りに前へ進む。


 入り口には大きなレリーフが壁に張り付き飾られたままだった。

 壁に嵌め込む形のレリーフは校舎を取り壊すまでそのままにしておくんだろう。

レリーフの中の子供たちは時間が止まったまま遊び続けている。


 同じ一階フロアの職員室、保健室も同じように、時が止まったようだった。

 持ち帰る程でもない物はそのまま置きっぱなしにされている。

 回線の繋がらない固定電話、一世代前のタレントが写っているポスターや『虫歯ゼロ! 歯磨き習慣』と書かれた手作り感満載の広報。


 全てが廃校になったその日から時を進めることを止めている。

 人さえ来れば、また動きだすような、一時停止のような空間。でも、ここに活気が戻ることはない。

 停止してしまった学校。外の風が生温く吹き揺れる木々が汚れた窓ガラスを叩く音だけが現在動いているものの全て。

 あと俺たち三人か。


 全員無言で廊下を歩くが俺が肝心なことに気付く。


「自殺した生徒はたくさんいるって言うけど、花梨、お前は自殺した生徒たちの各学年とクラスは知ってるのか」

「そんなの全員分かるわけないでしょ」

「知らねぇのかよ!」

「事情通な素振りを見せてた癖にその情報量か。よく威張れたものだな」

「そこまで責めなくたっていいじゃん……」


 二人で無責任な彼女をやんわり責めるも、花梨は、「ひとりだけ分かる子がいるの」


「ひとりだけ?」

「うん。最近あった、自殺した荒津中学校の生徒。ほら、元荒津小の生徒だったっていう。その子の担任も自殺してるって言ったでしょ。たしか……その子、荒津小では四年一組で」



 四年一組の生徒と担任の名前は、



「生徒の方は、御園影美っていう名前だったな」



「え……?」




『私ね、すごく弱いの』


『人がいじめられてたりとか、理不尽な扱いを受けていたりとか』


『そういうのが耐えられなくて』


 小学生の頃、五月の校庭で俺の隣に三角座りで自身を抱えていた小さくて儚くも、明るくてとても優しい女の子。


『結局耐えられなかった』


 あのときの会話が再生される。

 彼女が、この世にもういない?


「――――ッ!!」

 俺は絶叫するような叫び声をあげ、その場で視界が暗転した。





「……」

 目が覚めてすぐ視界に入ったのは黄ばんだ天井だった。

 この天井には見覚えがある。当時しみが人の顔のように見えて気が休まらなかったここは、

「目が覚めたかい」

 天井から声の聞こえた方へ視線を移す。心配そうにこちらを見るミカゲと花梨が俺を見つめていた。

「……保健室か」

「そうよ。皐月くんが急に倒れたりなんかするから私とミカゲの二人係で保健室へ運んだの」

 大変だったんだから!

 養護教諭用の回転イスに勢いよく腰掛ける花梨の額には汗が垂れている。どうやらかなり心配してくれたらしい。

 花梨とは真逆に冷静な面持ちでベッドの脇に立ち腕を組んだミカゲは俺に問いかける。

「倒れる程ショックな出来事だったのか。その少女のことは」


「……小学生の頃の知り合いだったんだ」

「え……」

 花梨が思わず声をあげる。

「皐月くん荒津小出身だったの?」

「ああ」

「そんな、なんで言ってくれなかったの」

「言ってもお前は肝試しに来ただろう」

「そりゃそうかもだけど、先に教えてくれれば……あ、でも、知り合いが自殺してたなんて……」

 花梨の瞳は予想していなかった悲劇に衝撃を受け、驚きと悲しみに揺らいでいる。

 彼女の表情からは、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔が滲み出ていた。


 沈黙の数分。


「蒼汰が知らずともその御園影美という生徒が死んだことに変わりないだろう。たまたま死んだ奴が蒼汰の知り合いだっただけだ」


 ミカゲがぴしゃりと冷たく言い放つ。

 死神のどこまでも無感情で冷酷な瞳で花梨を見つめた。


「花梨よ。蒼汰がショックを受けたのは縁在る知人を失ったことに対してだ。知らなければ良かったとか単純な問題ではない」

「だから、それをわざわざ知ることもないでしょ! 私が誘わなければこんなこと知ることなかったじゃん!」

「勝手に人を巻き込んでおいて勝手に後悔しないでくれよ」

 珍しく怒りを含んだミカゲの声に、花梨は驚きつつも負けじと涙目で睨み返す。


「やめてくれ、花梨もミカゲも」

 俺は言い合いをする両者の声を遮り、二人を宥めた。

「お前らが言い合っても俺が知ってしまったことは変わりないんだ。確かに影美、のことはショックで、ちょっと信じられないけど……とりあえず、運んでくれてありがとう」

 俺が礼を言うと、花梨とミカゲはばつが悪そうにお互いそっぽを向いた。


 本当は全然平気なんかじゃなかった。

 影美が死んでしまったなんて、信じたくない。

 悪魔のような荒津小学校で、善良でお人好しな彼女はあの学校では異質だった。

 同調意識が強い学校内で自分たちと違う者が混じっていたら攻撃対象になる。

おかしい集団が大多数ならいくら正しい心を持っていても影美が異質になる。異物は排除。集団心理だ。


 そんな不条理に屈してしまった彼女をひとり残して俺はあの学校を去った。

自分は影美を見捨てた。

 あの日、金次郎像で話した影美と友人になり、共に学校生活を過ごしていれば悲劇は起きなかったかもしれない。二人なら乗り越えられたかもしれなかったのに。


(今言って何になる……)


 そんなことは百も承知。

 それでも俺は後悔で押し潰されそうだった。


「影美という少女にそんなに思い入れがあったのか」

 体調も落ち着き、保健室から廊下に出たとき、ミカゲが俺に聞いた。


「濃い人間関係など築かなそうな君が、あんな風に取り乱すことに驚いた」

「別に……影美とは一回喋っただけだ。ただ、優しい奴で、この学校で唯一友達になりたいと思ったクラスメイトだった。今思えば影美が最初で最後の友達になるチャンスの人間だったのかもしれない」


「ふぅん。君の友達、ね」

 なんだその複雑そうな声のトーンは。

 話を横で聞いていた花梨が俺たちに提案する。

「四年一組に行こう。肝試しは終わりにして、影美ちゃんにお別れの挨拶をしよう」

「花梨……」

「私にはこのくらいしか考えられないけど。皐月くんが声かけてあげれば影美ちゃんだってきっと喜ぶよ」

 最初は肝試しに積極的だった花梨も趣旨を変えて俺と面識のない影美のことを優先してくれた。情にほだされやすい奴だ。彼女もお人好しの部類に入るのだろう。


「あのさぁ、皐月くん」

「なんだよ」

「……私はあんたのこと友達だと思ってるからね」

「え」

「だーかーらー。あんたには今、ちゃんと友人がいるってこと。二人・・も! だから弱気になんてなってんじゃないわよっこと!」

 バシっと力強く背中を叩かれる。

「いって! お前力強すぎだろ!」

「おほほ」

二人・・、か。数に入れてくれるのは光栄だが君の友達ではないからな」

「あら、私はあんたのことも友達だと思ってるわよ」

「!」

 お、意外な切り返し。

「友人その他大勢だけど。だって花梨ちゃん人気者だしぃ」

「むー」

 ミカゲは照れていた。

言葉をつまらせ顔を赤らめている姿に新鮮味を感じる。

 地獄での職場関係については知らないが、ミカゲも友達少なそうだし、青臭いやり取りに慣れてないのかも。

 照れを隠すように、

「さっさと四年一組の教室へ行くぞ」

 一人でズカズカと真っ暗な廊下を歩いて行ってしまった。


「「照れてるねー」」


 花梨と牧場以来のユニゾンし、笑った。俺たちは亡き旧友を偲ぶため、四年一組に続く二階の階段を目指した。



「そういえばあの子懐中電灯つけずに歩いているけど見えるのかしら」

 花梨が二階へ繋がる階段を上りながら疑問を持つ。

 先行くミカゲは真っ暗な階段を何段も飛ばしながら暗闇の障害などないように軽やかに上っている。死神だから常人よりも身体能力も体の器官も逸しているんだろうな、なんて正体を知っている俺なら納得するけれど、一般人には目を見張る光景だ。もう少し人間に寄せた動きをするよう後で注意しておくか。


「ミカゲってさ、人間らしくないよね」


 花梨が確信に触れる爆弾を投下した。

「らしく、ないとは」

「なんか人間に見えるよう人間らしさを演じる何かに見える」

「そ、そうか」

「実は肝試しを一緒にしたあの子が幽霊だった……なんてオチはホラーの定番よね」

 冗談冗談、なんて笑う園田花梨。お前は結構いいとこついてるぞ。

 ネタばらししたくなる気持ちを押さえる。先程の倒れた時から友達宣言までで俺はかなりこの少女を信頼しきってしまったらしい。

(俺も相当情に流されやすいな)

 いつかミカゲも自分の正体を明かせるくらい花梨に心を開ける時が来るといいな。

 こいつならお前の味方でいてくれるぞ。

 先行く少女に心でそう唱えた。



 四年生のクラスが連なる四年生フロアまで来たとき、廊下を歩いていたミカゲと花梨が歩む足を止めた。

「ねえ、あれ」

 花梨が俺の袖をクイクイと引っ張る。細い指が示す方向に、子供の影が見えた。

 廊下に座り込む小さな影。

 よく見ると小学校低学年くらいの男の子だった。

 男の子は俺たちに気がつくと声をかけてくる。


「お兄ちゃんたち、一緒に遊ぼう」


「え……?」

 男の子はふわり、とこちらへ寄ってくる。

 ふわり、と。その足は透けていて。膝から下は全く足の形を確認出来なかった。

 男の子は無邪気に笑う。

「何十年経っても遊んでくれるお友達ができなくて寂しかったんだ」


「つまり、君は幽霊ってことか?」


 こんな非現実的な質問をすることはこの先一度もないだろうなんて頭の片隅で雑念が過る。

 思ったより自分は余裕があるらしい。

「? ……うーん、遊んでた子達がね、僕を置いて帰っちゃったの。かくれんぼしてたのに。そしたら、いつの間にかこんな姿になってた」

 しょぼんとする男の子。情報から推測すると、かくれんぼで遊んでいた際、何らかの事故で死んでしまって自分が死んだことに気付かず、幽霊となって遊び相手を探しているらしい。


「じ、自殺じゃないんだ。ていうか、本当に幽霊出てくるなんてヤバイよ荒津小学校」

「しっ。落ち着け花梨。しかし酷いな。ほぼいじめで殺されたようなものじゃないか」

「どこがいじめなんだよ」

「鈍いな君は。友達とかくれんぼしてたと言ったろう。ならなぜ途中で置き去りにして帰る」

「気づいてなかったかもしれないじゃ、」

「全員が? ひとりくらい気づいた奴が声をかけるか探すかするだろう」

 男の子はミカゲの言葉にぴくり、と反応する。


「僕、いじめられてたの? 殺されちゃったの?」


 あ。傷つけちゃった。


「いや、俺たち当事者じゃないし、違うかもしれないぞ」

 慌ててフォローに入るが、少年の様子がおかしくなった。

「おい、大丈夫か」

「僕、井戸に隠れたんだ。しがみついて隠れてるから早く見つけてほしかったのに、夕方になっても誰も来ない。様子を見に行こうとしたときに足がすべって……」


 井戸。

 俺が小学校に来たとき聞いたことある話があった。

 その井戸は昔生徒が井戸に隠れたところ足を滑らせ事故死してしまい、それから井戸は埋められ新たに飼育小屋として再利用され、小動物たちを飼っていた。

 何故かそこで飼うウサギや鶏は寿命が短く、何度新しい動物を飼ってもすぐ死んでしまった。

 一時、飼育小屋の祟りとして昔井戸であったことが生徒に多く知られたのだ。

「遊んでくれる友達が欲しくて、一緒に遊んだだけなのに、すぐ動かなくなっちゃうんだ」

 男の子の表情は段々と暗くなるにつれ喋る声は黒く渦巻く怨念のように禍禍しいものへと変わる。

「僕だけひとりぼっちなんて許せない。お兄ちゃん達も幽霊になって遊び続けようよ!!」

男の子の声に呼び寄せられるように、彼の周りには何十人もの小学生くらいの子どもたちが暗闇から這いつくばるように出てきた。その表情は暗く淀み、深い怨みを孕んだ瞳でこちらを見ている。


 ユルサナイユルサナイユルサナイ……


 ぞろぞろと呪いを吐くようにこちらを睨んでいる。

「まさか、この子たちも」

「自殺した生徒たちってことか」

 男の子が悲鳴をあげた。

 叫ぶ声は獣の咆哮のようで、廊下側と教室側の窓ガラス両面にひびが入った。亡霊の生徒たちは男の子に纏わりつくと、吸収されるように男の子の身体の中へ吸い込まれていった。

 怨霊たちを吸い込んだ彼の眼は紅に染まり、口には抉るような牙が生えて幼い少年の姿から鬼のような禍禍しい姿になった。

「鬼ごっこしよう。僕がお兄ちゃん達を捕まえたらずっと遊んでねッ!」

 少年だった鬼は俺に向かって手を伸ばした。

 俺は触れられないように咄嗟に避ける。

 ドゴン、と俺が居た場所には穴が空いていた。

(捕まるどころか触れられた時点でアウトだろ!)

 恐怖で身がすくみながらも他の二人に声をかける。

「とりあえず逃げるぞ。捕まったら殺される!」

 俺が二人の方向を見て叫んだ時には既に二人は俺より遠いところまで全力ダッシュして逃げていた。

「あ、ありえねーー!」


 鬼の手が再び俺に伸び、俺は必死に避ける。

 何回も、何回も伸びる手は一番近くにいる俺ばかりを狙ってくる。例えるならドッジボールで運動神経が悪い奴をターゲットにして集団リンチする卑劣な場面、などとイメージを膨らませてしまうのは呑気だからではなく、迫り来る死から逃れたいための現実逃避からだ。

 体育の授業でも走ったことないくらい記録的な速さで裏切りコンビに追い付く俺。こちとら走るのに最適なジャージ。やっぱ着てきて正解だった。

「ぜぇ……お前らっ、はぁ……俺を囮に逃げるなんてっ卑怯者!」

「私たちは走りにくい服装なんだぞ……ハンデだ許せ」

「そうよ! あんたまさか不利なか弱い乙女たちを残して逃げるつもり!? 」

「「さいってーっ!!」」女子二人が俺へ罵倒。さっきまでの友情が嘘のようだ。少しでも己の身に危機が迫ると誰も自分以外への思いやりなんて忘れてしまう。それが人間の性か。死神もいるが。

 伸びる鬼の手は巨大化して俺たち三人まとめて掴みかかろうとする。

 もうダメか。全員が諦めかけたとき、

「こっちよ!」

 グイ。

 俺たちは曲がり角から伸びた別の手に引っ張られ、窮地を脱した。


 曲がり角に入り、俺たちは突然別方向から現れた誰かの手に導かれ夜の暗い校舎を走った。

 手を引く人物はまるで荒津小の校舎を熟知しているように階段や廊下の位置を把握し駆けていく。

ミカゲと花梨も不思議に思いながらも、それにならい俺の後を着いていった。

 おかげで何とか鬼からの追跡をかわすことが出来た。

 荒い息を吐く俺たちは一時の避難場所として一階の図書室に隠れる。

 小学生の頃は大きな本棚の羅列が妙に威圧的で苦手だったこの場所も、今の自分には小さな書庫にしか見えない。それでも屈めば全員身を隠すことが出来る。夜の校舎で命を懸けたかくれんぼとは笑えない。

「鬼ごっこからかくれんぼと大忙しね」

「あの、ありがとうございました」

 俺たちを助けてくれた謎の人物が初めてこちらを向いた。


 暗闇の中月明かりだけの儚い光を頼りに見えたその顔は。


滝里たきざと先生……!?」


 俺たちを窮地から救ってくれたのは、荒津小学校四年一組の担任教師、滝里たきざと杏奈あんなだった。


 滝里杏奈は俺がかつて所属した四年一組の担任教師だ。

俺が小学校に通わなくなったきっかけの事件を発生させた原因の一人。

 はっきりいってあまりこの人に対して良いイメージはない。

 担任教師だというのに、いじめ現場を見ても見てみぬふりをして放置した。いじめられていた影美だって、この教師がもっとしっかりしていれば自殺などという末路は辿らなかっただろう。

 もう二度と関わることはないと思っていた教師が突然現れ、危機的状況を救ってくれた。

 俺は元担任との思わぬ再会に心を戸惑わせた。


「大きくなったわね、蒼汰くん」


 滝里先生は元生徒との再会を懐かしむ心と、あの事件の別れから俺に対して申し訳ない気持ちが折り重なった複雑な表情をしていた。

 俺はあの日から荒津小学校が嫌になって、担任の滝里先生にすら一度も会わず転校してしまった。

 実質最後に先生の顔を見たのは影美のイス破壊事件に俺が呼び出されて以来だ。

 お互いに最悪の別れだったことから非常に気まづい。

ただでさえ出先で知り合いに会うことすら苦手な俺にこの鉢合わせは正直、助けてもらっておいて悪いが逃げ出してしまいたかった。

 それでも自分は現在高校生。挨拶くらいしっかりしなくてどうする。

 俺は元担任に向かって軽く会釈をする。


「お久しぶりです……滝里先生」

「もう高校生か。時が経つのは早いね」


 先生は俺の成長を見てほっとため息を吐き、少し悲しそうな顔をした。

「無事で良かった。これ以上私の教え子を失うかと思うと……」

「教え子って。もしかして、影美のこと、ですか」


「……」

 先生は力なく頷いた。

 先程ショックを受けたばかりなのに、再び影美が亡くなってしまってしまったことを確認してしまい目の前がくらくらする。


 俺が黙ったまま下を俯いていると、横に屈んで隠れている体勢で花梨が「あの」と手を小さく手を挙げた。

「ちょっと質問していいですか?」

 彼女の視線の先には滝里先生。

 お互いに初対面の筈だが、先生に助けられから図書室に身を隠すまで、花梨は彼女をじっと見つめていた。


「なにかしら」

「滝里杏奈、先生ですよね。ここ、荒津小の元四年一組の担任の」

「そうだけど」

「こんな質問おかしいと思うんですけど、」

 花梨は言うか言わないか迷うように視線を俺からミカゲへとキョロキョロとさせ、最後にふぅっ、と決意したかのように滝里先生に向かって質問を投げ掛ける。


「滝里先生は二年前に亡くなられてますよね?」


「……は」

「…………」


 俺から間抜けな声がこぼれるも、滝里先生は口を閉ざしていた。


 花梨はなんて言った?

 目の前に座っている先生が死んでいると言っているのか。

「何言ってるんだ花梨。滝里先生が死んでるわけないだろ」

「皐月くんさっきの私の話聞いてた? 連続自殺の件で亡くなった四年一組の二人の話」


『最近あったっていう、自殺した荒津中学校の子。あの子を受け持った担任も自殺してるって言ったでしょ? たしか……』


 四年一組の担任だった先生の名前は滝里杏奈。


 花梨は言っていた。


「いや、でもおかしいだろ、滝里先生ここにいるじゃん。喋ってるじゃん。さっきだって追いかけてくる男の子の幽霊から俺の手を引っ張って助けてくれた。感触もあるし温度もある」

「死者に体温や実態が無いと決めたのは御伽噺の世界だけだ。死の境界は君ら人間が一目で判断出来るほど簡単なものではないよ」

 混乱している俺にミカゲは最初から解っていたように静かに説明した。

「滝里杏奈は亡くなっているよ」

「んなバカな……!」


「確かに私は二年前に死んでしまった。それから私の時間は止まったままよ」


 滝里先生は花梨や俺、ミカゲに向けて自分がこの世の存在でないことを告白した。

 たしかに目の前にいる彼女はあの頃のから全く時間の経過を感じられない。

 まるで四年生の頃の記憶そのものが具現化されたようだった。

「私はずっと後悔しているの。あの時、影美さんを守ってあげられなかったこと」


 滝里先生は弱々しい声音で自らの過ちを語った。


「私は当時教師になったばかりの新米で立派な先生になるとはりきっていた。皆から好かれる明るくて気さくな、生徒に頼られ信頼される教師が目標だった。でも、荒津小に赴任してから私の目標は砂上の楼閣のように崩れ落ちた。荒津小の生徒は娯楽のようにいじめを行っている。四年一組は受け持ったなかで特にひどいクラスだった。ほぼ全員が一人を標的にしていじめを行う」


 嫌悪感で胸がつかえ呼吸もままならなかったと滝里先生は言った。


「私はすぐいじめの筆頭である女子生徒に注意を呼び掛けた。女子生徒の名前は阿久津あくつユリナさん。彼女からは反省する反応が伺えなかった。それどころか鋭利な瞳でこちらを睨んだ。次の日からユリナさんは私の授業を遮るように他の生徒たちと喋るようになった。自分を注意した女教師への仕返しだろう。四年一組の生徒たちはクラスのリーダー格のユリナさんの命令でグルになって私の授業の阻害をするようになった。その中で影美さんだけが私の授業を黙って受けていた。理不尽ないじめを受けていた女子生徒を私は見捨てた。黒板で文字を書いて生徒たちに背を向けていると刺さるような悪意に冷や汗が止まらなかった。怖くて怖くて堪らなかった。いつの間にか私の中の天秤は教師としての誉れよりも恐怖に対して傾いていた。少しでも束になった生徒から攻撃を受けないように、綱渡りのように不安定な安定だけを求めた。たったひとりで立ち向かっている影美さんを犠牲にして……私は逃げたの」

「だから自責の念から自殺を選んだんですか」


 自分でも驚くほどの冷たい声が図書室内に響く。

 自分よがりな滝里先生の懺悔に俺は怒りを通り越して呆れを覚える。

 教師とは、困っている生徒を助けて間違っている生徒を正す大人のことをいうと思っていた。

 今となってはそれはただの綺麗事。幼い頃の自分が大人に幻滅しないために呪いのように思い込んでいただけだったのかもしれない。

 何をどう言ったって、目の前の元担任が自分を守るために影美を見捨てたことに変わりはない。


「自殺を選んで影美が納得すると思ってるんですか」

 だからって、謝罪のつもりで自ら命を絶つなんて浅はかすぎる。

 死んでしまえば罪が消えるのか。

 亡くなってしまった人の命を自分の命で相殺出来るとでも思っているのか。

 それは償いではなく最大の逃げだ。

「あなたはいつまで生徒と向き合わないつもりなんだ!」


「違うの皐月くん! 私は自殺・・で死んだわけじゃないの!!」



「……え?」


「どういうことですか?」

 それまで黙って聞いていた花梨がここで声を発した。

 花梨は先生の発言にクエスチョンマークを浮かべる。


「自殺じゃないって、じゃあどうして滝里先生は……」


 俺も花梨と同じく混乱していた。

 先生は影美を犠牲にした罪悪感から自殺を図ったのではないのか?

 ならどうして滝里先生は亡くなって幽霊になってるんだ?

「本当は、私は……」


 滝里先生が口を開いた時、


「み~~つけた」


 背後から声がした。

全員が話に集中していたせいで反応に遅れた。

 後ろを振り向くと、にたぁと鬼が笑っていた。

「逃げろッ!!」

俺たちは身を翻して鬼の追撃をかわす。

 鬼の手はグネグネと曲がり、俺たちが居たところを鞭のように叩き図書室の床をえぐった。

 ターゲットである俺たちを追いかけて腕を振るう追撃をやめない。板樋りの床、本棚、窓ガラスと次々と室内が破壊されていく。

「出るぞ! ここにいたら木端微塵にされる!!」

 俺たちはほぼ壊滅状態になった図書室から脱出し、次なる隠れ家になるところを目指し廊下を走る。

 しかし、一番身を隠せる最適な場所が図書室だったためこれ以上に身を隠す絶好の場所など思いつかない。

「どこか、どこかないのか!」

 一階ならここから近いグラウンドか。それとも階段へ向かい隠れる場所があるかもしれない上へ行くか。

 野外は広いが相手の目を撹乱させるようなアイテムは少ない。ターゲットにされたら体力が底をつくまで追われ続けるだろう。

 かといって校舎内も図書室のように不意討ちされたらアウトだ。

 先程は運が良くかわすことが出来たが今度も同じように逃げられるとは限らない。

「クソッ! どうすればいい!?」

 頭を必死に回転させても後ろから追われる恐怖と焦りで脳が冷静さを失ってしまっている。

 幽霊である先生や死神のミカゲはまだ平気そうだが生身の人間の花梨は息切れして走るスピードが落ちている。

 このまま彼女のスピードに合わせていたら間違いなく鬼の手によってあの世行きだ。


「もうっ、私はいいからっ、おいてって……」

「バカ言うな。しっかりしろ!」

 限界で走れなくなった花梨の背中と膝の裏に腕を回し彼女の体重を全て負担する。ミカゲが花梨を担ぐ俺を呆れたように見つめる。

「そんなことしていたらどちらもお釈迦になるぞ」

「うるせぇ、じゃあどうすりゃいいんだよ!」

「簡単だ」


 ミカゲは俺に担がれている少女を一瞥してこう言った。


「一番役に立たない奴を捨てて逃避方法を考える時間稼ぎにすればいい」

 ぞっとした。

 彼女の瞳が、言葉が驚くほど冷酷で無慈悲で。

 心の温度も優しさも欠片もない死神の発言にさぁっと自分の何かの温度も下がっていく。それと同時に例えようのない怒りのような感情が沸々と沸き上がる。

「花梨を囮にしろってか」

「誰もあいつとは言ってないだろ」

「ふざけるな!! 花梨だぞ!? 今まで一緒にいた仲間だろうが!」


 花梨はお前のことを友達だって思ってんだぞ!

 お前は友達だと思ってないかもしれないけれど、仮にもそう言ってくれた人間を見殺しにするなんてあんまりだ。

「お前は本当に死神だ! 血も涙もない」

「やっと、私を人間じゃないとわかってくれたか」

「ああ!?」

「だからこうするのさ」


 ミカゲは自身の足の向きを俺たちが逃げる方向と真逆、つまり鬼の方へ変える。

「おい、何を」

「君の言う通り私は一度死んでいる死神だ。一番ダメージが少ないだろう」

 ミカゲは自嘲気味に笑い鬼の方へ駆けて行った。

 こちらへ向かってくる囮になったミカゲを見て鬼はニタリと笑う。

 異形となった鬼の手は獲物を掴み、それを頬張ろうと頬まで裂けた口を開く。


 ――ガブリ。


 肉の裂ける音がグラウンドに響いた。

 鮮烈な赤色が空中に舞う。鬼の口にはベッタリとその赤色の飛沫の元がついている。

「あ、あぁああ」

 鬼の手に捕らえられた死神の少女は鬼によって捕食されてしまった。


 そう思っていたのに。


「ど、どうして」


 ミカゲの声が聞こえた。


 降り続ける血飛沫はミカゲから出ているものではなかった。

「どうして」

 滝里先生の左肩は鬼の鋭利な歯によって食い千切られている。

「はやく、逃げなさ、い」

 ミカゲは見ていた。彼女が身を挺してミカゲを庇ってくれたのを。

 先生はミカゲが喰われるより先に鬼の口へ飛び込んだのだ。

 鬼は咀嚼を止めない。先生の体はどんどん鬼の口の中へ呑み込まれていく。

 ミカゲを捕らえていた腕も彼女の捕食に集中するためか一時的にミカゲは離され、地面に叩きつけられるように解放される。

 驚愕の事態に疑問を投げかけることしか出来ない。

「なんで、私なんて関係ないのに……」

「ダメージが少ないとか、自己犠牲とかやめてよ……もう見たくないの……あなたの代わりは何処にもいないのよ」

「!!」

「あなたが私の生徒じゃなくたって、私は子供たちを守る役目がある……だから、」

 最後ぐらい本当の教師でいさせて。

 鬼はグネグネと曲がったたくさんの腕で彼女の四肢をもぎ取ろうと力を入れる。

「やめろ!!」

 俺たちは顔面を蒼白にして叫ぶしかなかった。

 俺も花梨もミカゲも、誰もが絶望的な状況にうち塞がれていた。


 しかし、その絶望は一本の光の線によって打ち消された。


 夜の校舎には眩しい光の線が先生を掴む鬼の腕を切り離した。

 それが斬撃だと気づくのに少し理解が遅れた。

 俺たちの前には刀を持った一人の男が月光に照らされ立っていた。


「やれやれ、修行不足ですよミカゲさん」


「お前は!」


 ミカゲは驚いた表情をしていたが俺の方が正直もっと驚いた。

 窮地の俺たちを救ってくれたのは、いつもミカゲの物資を届けに来る宅配のお兄さんだった。

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